えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

カルメン

 さて、かくして、今となっては西欧白人の一方的おしつけイメージの代表となってしまったかの感のある
メリメ、『カルメン』、杉捷夫訳、岩波文庫、1929年第1刷(2009年第89刷)
をはらはら読んでいたら(それにしても80年ものの翻訳とは凄い)、本当の話、「文学」が体に沁み通っていくのを感じてしまいました。渇いとったんやなあ。
 それはともかく、民俗学というよりむしろ博物学に近い例の第4章には、あからさまにジプシーに対する偏見が読み取れるのはまあ確かであり(それがまた杉捷夫訳で増幅されているかに見えますが)、つまるところカルメンとは、西洋人の偏見とエキゾチスムとファンタスムの結晶であるということは、それはまあそうですわね、というしかないようなものなのでありますが、かしまあ、エキゾチスムとファンタスムの結晶としてであれ、なんであれ、カルメンには確かな生命が息づいている、ということを私はやっぱり認めないわけにはいかない。
 なんだったらここにはミゾジニーが明らかだということを認めてもいい。だってファンタスムだし。
 こうしたすべての留保を考慮に置いた上で、それでも私はこう思う。
 カルメンとは一言でいえば「自由」の具体的表象であって、この自由は一切の社会的・個人的束縛を拒絶する。道徳はもとより宗教も愛情も、何をもってしてもこの自由は拘束されない。その絶対的な自由の虜となった人間は、必然的に社会からはみ出さざるをえないし、彼の反社会性は、当の社会によって厳しく断罪されることになる。もとより、並の人間にあっては、絶対的自由の峻厳さに耐えられるものではないということが、ドン・ホセの運命の意味するところでもある。
 『カルメン』の文学的価値は、この、真の自由とは(社会的)人間にとっていかなるものであるかという主題を、個別的な物語によってあますところなく語っているところにある。
 メリメはカルメンの孤独について一言も語ってはいない。しかし私は彼女の人生の、吹きっさらしの寒風に打たれるがごとき孤独を思う。
 そして、そこに毅然と立ち続ける彼女の強さを思う。
 そういう内的な経験は、文学しか与えてくれることのないものだと、私は思う。