えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

不十分な準備

マラルメ自身が「分からない」ことについて語っている言葉に、もう一度謙虚に耳を傾けてみよう。
とおもむろに思い立つ。
そこでお決まりのジュール・ユレの『文学の進歩についてのアンケート』。
以下拙訳。

――私は信じるのですが、と彼は私に答えた。内容に関していえば、若者たちはパルナシアン達よりもより詩的理想に近づいています。パルナシアン達は今でも、老哲学者や老雄弁家流のやり方で、つまりは事物を直接に提示することで、彼らの主題を扱っているのです。私が思うには、それとは反対に、必要なのは暗示しか存在しない、ということです。対象の観照、対象によって喚起される夢想から飛び立つイメージ、それは歌です。パルナシアンは、事物を全体的に捉え、それを提示します。それ故、彼らには神秘が欠けているのです。彼らは、自分達が創造していると信じることの喜びを、精神から奪い去ってしまう。一個の対象を「名ざす」こと、それは詩の喜びの四分の三を抹消してしまうことです。詩の喜びとは、少しずつ見抜くという幸福によって成り立つものなのですが。それを「暗示する」こと、そこに夢があります。この神秘の完璧な用法こそが、象徴を成り立たせるのです。一個の対象を少しずつ喚起させ、ある魂の状態を示す。あるいは反対に、一個の対象を選び、そこからある魂の状態を引き出し、一続きの解読に差し出すのです。
Jules Huret, Enquête sur l'évolution littéraire (1891), José Corti, 1999, p. 103-104.
(原文イタリックは「」で示した。)

allusion, suggéstion, évocationによってétat d'âmeを提示すること、それがポエジー。
明快にすべてが言い尽されているようでもあり、やっぱりそうでないようでもあるけれど、
それにしてもテープレコーダーもないのによくこれだけの聞き書きができたもんだ、
と今さらにユレに感心したりもする(忠実度に関しては、とりあえず問わないとして)。
とりあえず、続きの言葉をよく噛みしめることとしましょう。

――ここで、と私は師に言った。あなたに差し向けなければならなかった粗野な異議に近づいていますね。……難解さという!
――実際のところ、それは同じように危険なことです、と彼は答えた。難解さが読者の側の不十分さに因るにせよ、あるいは詩人の側の不十分さに因るにせよ……しかし、その仕事を避けるとは、ごまかしをするということです。もし、平均的な知性を持つある一個の存在が、準備の不十分なままに、そのように作られた書物を偶然に開いて、それを楽しもうとするなら、誤解が存在するのであって、物事をあるべき場所に戻す必要があります。詩には常に謎がなければならず、対象を「喚起させる」ことこそが、――その他にはないのですが――文学の目的なのです。
(Ibid., p. 104.)

準備の不十分な読者とはあちきのことでござんすか。
と思ってしまうが、しかまあ、きっと、そうに違いあるまいや。うむ。
物事は常にあるべき場所に戻すべきでありましょう。