えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

親と子とオルラ

時の経つのは早すぎて、有言不実行の不甲斐なさよ、と。
竜之介様、これまたどうもありがとうございます。
モーリス・ルヴェルはなるほどどこかで誰かがモーパッサンと関連づけて言及していた
ような記憶がありますが、いまだ読んでおりませんでした。
太宰施門という名も懐かしさにくらくらしますが、
こちらもせっかくなので探してみようと思います。
あれこれ貴重なご情報に感謝いたしております。


さて、なんにもまとまらないまま書き始めてみますが、
id:etretat1850:20090306
に一度引用したことあるのを、再度引いてみる。

人生の悲劇の第一幕は親子となったことにはじまっている。
芥川龍之介侏儒の言葉』、『芥川龍之介全集』7、ちくま文庫、2004年(6刷)、204頁)

これですね。私も、モーパッサンと「親子」について考えるときには、
この言葉に行きつくのでありました。
モーパッサンの作品にはある種の運命論的な世界観が確かにあって、
しかもこの「宿命」はたいてい悲劇をもたらすわけではありますが、
人間関係の基本ともいうべき、男女の恋愛にせよ、その結果としての親子にせよ、
運命はたえず陰から我々を窺っている、ように思えます。
とりわけ親子の場合には、選択の余地がないだけにいっそう、それを宿命と捉える
見方は強まるといえるでしょう。
親子に関しては、親から見るか、子から見るか、という二つの観点がありますが、
ひとまず親からみた子どもとは何か、を考えます。
モーパッサンの時代には「遺伝」が新しい概念として普及した時代であり、
ゾラの作品をはじめとして、19世紀末自然主義文学の一つのキーワードといえますが、
これはモーパッサンにとっても無縁ではありません。
自分の血を引いて、身体的に自分の特徴を受け継いだ我が子。
モーパッサンの描く親にとって、
子どもとは、(そもそもは)自分のものでありながら、(当然)自分とは異なる他人であり、
この「似て非なる者」である、という事実が、単なる血縁を超えた意味を持つように思えます。
自分の血筋を引く者を後世に残したい、という本能的欲望が彼を捉える。
そこで、昔生んで放り捨てた子に、後になって再会する。
するとその容姿から、紛れもない自分の子であると認めざるをえないと同時に、
決して自分の子と認めたくないような、理想とかけ離れた現実に直面する。
これが、悲劇の一つのパターンですね。
「似て非なる者」に対する欲望と恐怖。その二極に揺れるものとして親は存在する。
この時、親を「私」(主体)と置き換えてみれば、
そこに、もう一つの主題系列との関連が見えてくるのではないでしょうか。
そうです、ここにオルラちゃん登場です。
オルラをとりあえず狂気の産物としておくならば、
それははじめ私の内に生まれ、やがて私の外に実体化した何物かであり、
その何物かが主体の存在を根底から揺さぶることになる。
(鏡に映るべき「私」の姿を消しさるオルラは、そのことを象徴的に示しているといえるでしょう)
主体の存在を脅かす者として、おそらくオルラと「子ども」には共通するものがある
という風に私には思えます。
一人の作家の作品全体に通底する概念を「テーマ」と呼び、
人によってはそれを作者の無意識と結び付けもしますが、
意識的か無意識的かはともかくとして、
リアリズムであれ、幻想小説であれ、方法の差異を超えて、作品内に表出される
モーパッサンの一つのテーマには「内なる他者」のようなものがあって、
それはダイレクトに「分身」という形で表れてくることもあるし、
子どものように、「他者の内にある自分」という形でいわば反転して出てくることもある。


こういう風に、モーパッサンを単に「社会」を描いたリアリズムの作家として捉える以上に、
作家の内面の表出として、彼の作品を読む、そういう読み方もあるわけですが、
「親子」というテーマは、作家モーパッサンのそういう両面を結ぶ上でも、
一つのキーワードであるように思います。


伝記的な事実として作家モーパッサンを見れば、重要なのは二点。
1 父親との関係が疎遠だったぶん、母親との結びつきが強まる。
  端的に言ってしまうと、典型的なマザコンだったこと。
  (ボードレールをはじめ、そういう19世紀フランス人作家は多いですけどね。)
2 生涯独身を通し、たくさんの女性と交流をもったが、
  ジョゼフィーヌ・リッツェルマンという女性との間に
  三人の私生児をもうけていたらしいこと。
  モーパッサンの作品に「父親」がテーマとして浮上してくるのは
  とりわけ1883年最初の子誕生前後とされている。
  いちおう養育費払って、結婚する意志もないではなかったらしいですが、
  父親としての責任を全うする気はなかったと申しますか、なんといいますか。
でまあ、そういう個人的条件が作品に反映していると見ることも、
もちろんできるのですが、それだけに限定してしまっては、
作品を面白く読むことを妨げかねないので、今日は上のようなことを書きました。


ひとまず、大変遅れまして恐縮ですが、拙いながら思うところを述べてみました。
ではでは、またまた、どうぞよい読書を。