えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

マラルメ論

原書はこちらで、
Jean-Paul Sartre, Mallarmé La lucidite et sa face d'ombre, Gallimard, coll. "Arcades", 1986.
ま、本当に読んだのはこちらです。
ジャン=ポール・サルトル、『マラルメ論』、渡辺守章平井啓之訳、ちくま学芸文庫、1999年(2010年3刷)
私にこれを要約しろと言っても、それは無理な相談というもので。
フランス革命で国王を殺し、つまりは王権神授説を否定することで、人間は(というかフランス人は、というか)神を殺した。
それで人間はどうなったか、というところから、「マラルメの現実参加」は始まるのだが、これは原稿喪失で始めの部分しか残っておらず、その残った部分を元にまとめられたのが、短い「マラルメ」の文章なわけだけれども、それはともかく。
以下、おもに後者の「マラルメ」の要旨を追う(つもり)。
神様がいるうちは、神様が作ったものである以上、人間は必然であり、絶対的な存在であった。
しかし神がいなくなれば、人間とは何か。
それはもはやただの偶然の産物でしかないことになる。
しかし、人間がただの石ころと変わらない存在であってよいものであろうか。
人間を石ころ以上のものたらしめるために、では人間はどうすればよいか。
偶然を廃棄することだ。
神に代わって無から有を生み出し、それに絶対的な意味を与えればいい。
だが人間は何かを真に生み出すことはできない。自然に何かを付与することは不可能だ。
だとすれば、どうするか。
否定することである。すなわちは自殺である。
偶然の存在たる人間を廃滅することによって、偶然そのものを廃棄すること。
だがしかし、一切の否定とは、否定の不在に等しい。
自殺では駄目ならば、では何があるか。そこに詩がある。

詩において再現されねばならぬのはまさに自殺のこの運動そのものである。人間には創造する力はないが破壊の手段は残されており、みずからを無に帰する行為そのものによって自己を確立するものであるのだから、そこで詩は破壊の作業となるだろう。
(253-254頁)

詩において詩人が死ぬ時、詩は「精神的な意味を暗示する物質的なオブジェ」になる。

ついにその作者から切り離された詩作品(ポエム)は、言語営為(ランガージュ)の孤独な戯れとなって、ある慣性的(イネルト)な行為、まさに偶然を永遠に排除する偶然の並置として読者に現われる。(256頁)

その時、語はものや自然現象と等価のものに還元され、
それはつまり「言語(ランガージュ)の破壊」をもたらす。
さらに、語の生み出す意味は、そのことによって事物そのものを否定する。
意味とは事物の不在にすぎない。

つまり、個々の不在がより大きな、より宇宙的な不在に通じ、やがて言語(ランガージュ)が詩の形で世界へと送り返されるその瞬間に、世界全体が言語から不在化してしまうということである。(258-259頁)

なんでや、とか私に聞かないでください。私はこれで精一杯なの。

かくして詩(ポエム)は「存在(エートル)」のなかに穿たれたひとつの穴、わずかずつ仄めかし(アリュージョン)を重ねていくうちに世界そのものとなってしまうような不在の定着と画定となる。(260-261頁)

したがってマラルメの詩の意味は、いくつかの層を成すが、
その第一は、マラルメという個人の経験が人間そのものの経験を示唆することにある。

彼は選ばれし者なのだ。彼のうちで「詩性(ポエジー)」は己れを認識し、かつ自らがその想を彼に吹き込んだ詩(ポエム)によって己れを破壊する。(263頁)

マラルメの精神において「挫折と死の聖なる永遠のドラマ」が演じられるが、
しかし「最後には、すべてが消滅せねばならない」。

詩にあっては、自己を否定するのは偶然自体である。偶然から生まれ偶然とたたかう「詩性(ポエジー)」は自己を廃滅することによって偶然を廃滅する。なぜならその象徴的廃滅は人間の廃滅に他ならぬから。(265頁)

しかし、こうしたことはすべて「ぺてん」であることをマラルメは知っていた。
なぜなら、必然と偶然とは、互いに互いを生みだすと同時に、
互いが互いを否定する綜合なき関係にあるからだ。
マラルメの内には、自らの作品の実現不可能性を知りながら、
それが実現する日が来るという夢を語り続けて死んだぺてん師がいる。
だが、それは「人間の悲劇そのもの」でもあるのだ。
マラルメの死は「記憶さるべき瞞着」(267頁)である。

 英雄であり、予言者であり、魔術師であり、悲劇役者であった、この女性的で、控え目で、女たちにも大して興味をもたなかった小柄な男は、われわれの世紀の戸口で死ぬのにふさわしかった。彼は今世紀を予告していた。ニーチェよりもさらに勝れて、彼は神の死を身をもって生きた。カミュにはるかに先立って、彼は自殺とは人間がみずからに提出しなければならぬ根源的問題であると感じていた。偶然を相手にした彼の日々のたたかいを、他の人びとが彼の明晰さをこえることはなしに、ふたたびつづけることだろう。なぜなら、結局彼は、決定論のなかに決定論から脱出する道を見出しうるだろうか、と自問していたのだから。(268-269頁)

もう無理。しかしまあほぼ最後ではある。
つまりまあ、神なき世に「人間」であるための挫折確実の試みを、
挫折確実であるがゆえに最後まで全人生を賭けて生き抜いた男、
それがステファヌ・マラルメ、というようなことでよろしかろうか。
詩から詩人を排除しようとした、その詩人の生きざまそのものこそが、
我々にとって意味のある経験ないし「作品」であるとすれば、それはいかにも皮肉な話であるまいか。


マラルメの現実参加」に関しては、正直理解できないところが多すぎるのだけど、
要するには守章先生のまとめに尽きるといってよかろう。

如何にもそれは、マルクス主義的と言える歴史的読解と、フロイト精神分析による個人の深層分析とを両極に、それらの方法に対するサルトル固有の方法的批判を織り込みながら、マラルメという特権的<生きざま>を全的に捉え返し、そうすることで文学の存立の根拠と、社会と文化の内部にいてなおもそれを超え得る作家の役割と、それを貫きかつ支える諸ベクトルを明らかにしようという、一つの方法論の試金石となるはずのものであった。
渡辺守章、「あとがき」、282頁)

サルトルの知性をもってすれば、マラルメマラルメになったすべては説明可能である、
というような自信をひしひし感じるのだけれど、しかしとても付いていけぬ。
ただしかし、この論の冒頭、「神殺し」が高踏派世代の集合的心性をいかに決定づけたか、
を論じた件は、モーパッサンにもぴったり当てはまると私には思えて、
理解できるとこまでは、すごく興味深い。

地上にいることにひたすら茫然とした彼らは、何故彼らが生まれてきたのかを知らず、己が存在の偶発性を唾棄している。(29頁)

モーパッサン、あるいは「いやいやながら無神論」にさせられた男。
それは、きっと間違っていないという確信のようなものが、私にはある。