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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

レコー・ド・パリが読めるなんて

フランス文学 モーパッサン

Samuel Beckett

これまた一年ぶりに描きなおしのサミュエル・ベケット
なぜベケットか(ただの条件反射なので、特に意味はない)。
なんとなくデュラスの『苦悩』と「待ち」つながりで、て、ただのこじつけです。
ゴドーを待ちながら』の場合、客観的にはゴドーさんはまるで来そうにないのだけれど、
しかしウラジミールとエストラゴンの二人には、根本的なところに、
ゴドーが来るという信頼、あるいは希望、あるいは信仰のようなものがある(ように私には思える)ので、
そこに一種の明るさのようなものがある。
私見ながら『ゴドー』は、演出家が演出してみたくなり、役者が演じてみたくなる戯曲である。
なんというか、三次元にしたくなる芝居であるというところが、頻繁に上演される所以であろうし、
ベケットは舞台のことをよく分かっていた人だなあ、と自明のことながらしみじみ思う。


さて土曜日。京都芸術劇場春秋座にて、
マルグリット・デュラス作、『苦悩』、演出パトリス・シェロー、ティエリ・ティウ・ニアン、
出演ドミニク・ブランを観劇。
裸の舞台(広い)にテーブルと椅子数客のみの小道具。音楽なし、照明変化なし
(外国に持っていくのになんとリーズナブルなことよ)。
原作の(細部ははしょった)大筋を、ドミニク・ブランはすごくまっとうに
(というか正当に、というか王道に、というか)語る、というよりも演じた。
そのことで、デュラスの文章が持つ口語性、
というかそれが実に見事なまでに生きた発話であるということが、
ものすごくよく分かって、そのことにとりわけ感動する。
それはあるいは、女優が台詞を実によく血肉化して語ったという証なのかもしれない。
上演作品は、帰還した夫が回復し、「お腹が空いた」と言うところで終わる。
それはつまり、その後の離婚話はカットされた、ということでもあり、
そのことによって、ドミニク・ブラン演じる一人の女性は、
待ち、苦しみ、そして愛する女として立ちあがってくることになる。
(ある意味からすればそれは原作の持つ複雑さを捨象することではある。)
マルグリット・デュラスという作者の影をいったん遠ざけたところで、
銃後にあって、激しくも堂々と生きた一人の女の姿を描き出すこと。
演出家あるいは女優の目指すところは、恐らくそういう極めてストレートで
それゆえに力強いものであったに違いない。
彼らの作品に向かう誠実な姿勢が感じ取られた、好印象の舞台でありました。
(よもや、観劇前のビールと予習が仇となって前半眠気を催したなんてことは
決して告白しまい。は、は、は。)


さて、話は変わる。
ガリカの新聞欄を改めて眺めていたら、
なんとそこにL'Écho de Parisの名前があるではありませんか。
おお、なんということ。
て、ちゃんと見てない自分が悪いだけであるが、しかしこれは大変です。
『レコー・ド・パリ』といえば、1893年3月8日である。
モーパッサンの戯曲『家庭の平和』の上演にあたって、
カチュール・マンデス編集長(だったかな、たぶん)のこの新聞は、
一面にポール・ブールジェによるモーパッサンについての回想エッセーを載せ、
その別冊付録16頁中13頁を使ってモーパッサン特集を組んだ。
そこで、当時の重鎮作家24人がモーパッサンについて語っているのに加え、
新人作家と呼ばれる若手28人の短いコメントが載っているのである。


私はこれが読みたさにパリ国立図書館まで行きましたが、
そこのマイクロフィルムはものすごく映りが悪くて、往生したのだ。
おお、あの苦労も今やただの水の泡、てなもんであるが、そんなこと言ってる場合ではない。
絵なんか描いてる場合ではさらさらないのである。
しかもガリカのPDFはものすごく綺麗ときたもんだ。あなうれしや、これで全部読める。
この時点で、当の作者は既に病院の中であり、
再起不能であることは、文学者仲間には既に知られていた。
(後にマラルメが追悼記事の中で触れているのもこの特集だ。)
だから既に「過去の人」扱いで語られてしまっているあたり、
残酷というか非道い話であるような面もあるのだけれど、
同時代評がこれだけの数まとまっているのは貴重と言うよりない。
その中身は、マラルメも触れている通り、モーパッサンと同年代の作家にあっては惜しみない賞讃、
象徴派近辺の若者達はこぞって酷評する、という
まるでジュール・ユレのアンケートのモーパッサン個人版みたいな代物である。
とりあえず名前を羅列してみよう。
(これをちゃんと記述しているのを未だ見たことないので。)
まず、大御所連。
Edmond de Goncourd, Sully Prudhomme, Ludovic Halévy, Léon Dierx, Alphonse Daudet, Pierre Loti, Catule Mendès, J.-K. Huysmans, Anatole France, Jules Clartie, Aurélien Scholl, Jean Richepin, Juliette Adam, J.-M. de Heredia, Paul Arène, Maurice Barrès, Armand Silvestre, Henry Bauër, Edmond Lepelletier, Jules Lemaître, Emile Bergerat, Stéphane Mallarmé, François Coppée, Emile Zola.
ついで若手。知らない名前続出ですけど。
Henri de Régnier, Hugues Rebell, Alfred Vallette, Francis Vielé-Griffin, S.-M.-F. -Camille Mauclair, Henri Barbusse, Jules Renard, Maurice Pujo, Léon Blum, Emile Besnus, Thadée Natanson, Lucien Muhlfeld, Stuart Merrill, Henri Mazel, René Tardivaux, Tristan Bernard, Romain Coolus, A.-F. Herold, Louis Dumur, Julien Leclercq, Maurice Beaubourg, Pierre Veber, M. Pottecher, Louis Le Cardonnel, Pierre Quillard, Léon Deschamps, Marcel Bailliot, Adolphe Retté.
この名前を眺めていると、まことに生存競争が厳しかったのね、という感慨の一つも湧いてくる。
いつか全部翻訳してやろうと思います。
そんなことをする奇特な人間はこの世に自分しかいないという無意味な自負ほど
人を駆り立てるものがあろうか。て、いくらもありますか。
妄言はともかく。
本紙トップページのポール・ブールジェの記事のほうだけれども、
これがまた友情に溢れたなかなかよい文章なのである。
その中で、モーパッサンが語った言葉として書かれているところを引く。
いつかどこかで使いたいと思って、まだ果たせないでいる箇所。

« Je ne crois pas à l'analyse », me disait-il un jour, « mais je crois à la sensation. Toutes les fois que j'ai bien peint un homme, c'est que je l'ai été une minute. Un romancier devrait ne se refuser à aucune expérience, se faire chasseur avec des chasseurs, marin avec des marins, paysan avec des paysans, bourgeois avec des bourgeois, exercer un peu tous les métiers... » Je crois reproduire à peu près exactement ses paroles. Elles prouvent combien son art le préoccupait sérieusement et profondément, quoiqu'il affectât volontiers de dire qu'il ne travaillait que pour gagner de l’argent.
(Paul Bourget,« Guy de Maupassant », L'Écho de Paris, le 8 mars 1893. )
「僕は分析を信じない」ある日、彼は私に言った。「でも僕は感覚を信じている。一人の人物をよく書けた時はいつでも、それは僕が一分の間その人物であったからなんだ。小説家はどんな経験でも拒むべきではないし、狩人と共にあれば狩人に、漁師と共にあれば漁師、農民と一緒なら農民、ブルジョアとならブルジョアになるべきだし、少しとはいえあらゆる職業を実践するべきなんだ・・・」私は彼の言葉をほとんど正確に再現できたと思う。この言葉は、どれほどに彼の芸術が、真剣にそして深く、彼の心を占めていたかをよく証明している。彼は好んで、自分は金を稼ぐためだけに仕事をしているとうそぶいていたのだけれども。

「分析」analyse ではなく「感覚」sensationだ、という言葉は、
モーパッサンの文学を理解する上でとても重要な鍵であるだろう。
読者の、知性よりも先に感性に訴えかけること。
そこに、モーパッサンの作品が今日もなお精彩を放つ理由がある。
作者が、自分の描く人物を感覚的に「生きる」こと。
それはまた、優れた役者が、テクスト上の人物を「生きる」こととも通じている。
というところで、うまく頭とつながったかしら。
ちゃんちゃん。