えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

アンリ・マゼルとルネ・タルディヴォー

引き続いて、エコパリのモーパッサンについてのアンケート。
終わらないー。

L'étonnant n'est pas de rappeler Gavarni ni Edgar Poë, mais les deux. – Henri Mazel.
(L'Écho de Paris, supplément illustré, 8 mars 1893.)
 驚くべきは、ガヴァルニやエドガー・ポーを思い出させることではなく、その両者を同時に思い出させることである。――アンリ・マゼル

ガヴァルニは19世紀前半の諷刺画家。
エドガー・アラン・ポーは、19世紀フランス幻想小説にとっての大親分。
Henri Mazel (1864-1947)
ニーム出身。『メルキュール・ド・フランス』等に寄稿し、1891年から95年までアドルフ・レッテと共に雑誌『レルミタージュ』L'Ermitage 編集に携わる。理想主義演劇を標榜し、自らも劇作を手掛けた。『南仏の革命 低ラングドック地方の城塞の火災』La Révolution dans le Midi : l'incendie des châteaux du bas Languedoc (1886) 『カルタゴのカリフ』 Le Khalife de Carthage (1897) 『彼の人生において読むべきもの』Ce qu'il faut lire dans sa vie (1906) 戯曲に『神々の終焉』 La Fin des dieux (1892)『アルルの恋人達』 Les Amants d’Arles (1900)等。
何を挙げていいのか見当もつかないので色々挙げておく。

Naturaliste ? Soit. L'École confia à sa prodigieuse habileté des sujets étroits. Il les traita avec toute sa passion, tout son art ; fit que l'École eut des chefs-d'œuvre. Il pliait son talent à cet ouvrage. – Les élargissements le tentèrent ; il fut tourmenté de « sentir jusqu'à l'extase ». Il essaya d'abandonner sa sensibilité, si magnifique, aux enchantements de la pure Nature (la Vie errante) ; mais la souplesse déjà, et la foi en une œuvre d'art de telle inspiration, lui manquaient. Cependant il lui fallait du large. Et, comme il étouffait, il s'enivra, s'empoisonna de factices merveilles devant les grandes et simples beautés qui semblaient, pour quelque raison, se refuser. – René Tardivaux.
(L'Écho de Paris, supplément illustré, 8 mars 1893.)
 自然主義者? いかにも。この流派は彼の驚くべき巧みさに対して狭隘な主題を委ねた。彼はそれらを情熱と芸術をすっかり注いで扱い、この流派に傑作をもたらした。彼はこの仕事に自らの才能を従わせた。――幅を広げたいという思いに駆られ、「恍惚となるまでに感じること」に彼は苦しめられた。彼は実に見事な自らの感受性を、純粋な「自然」の魅惑に対して投げ出すことを試みた(『放浪生活』)。だが、既に柔軟さと、かようなインスピレーションによる芸術作品への信仰が、彼には欠けていた。にもかかわらず、彼には沖合いが必要だった。そして、息が詰まるように感じていたので、彼は偉大にして素朴な美を前にして、作りもの驚異に酔いしれ、中毒を起こしたのである。その美は、何らかの理由のために、自らを拒んでいるかのように見えたのであった。――ルネ・タルディヴォー

René Tardiveau, dit René Boylesve (1867-1926)
アンドル=エ=ロワール県出身。パリ大学で法律を学ぶ。『ラ・プリューム』『レルミタージュ』といった雑誌に小説を執筆。1893年より、母の旧姓から来る筆名ルネ・ボワレーヴを用いる。1896年最初の長編『闇の奥方達の医者』 Le Médecin des Dames de Néans を出版。以後の著作に『マドモワゼル・クロック』Mademoiselle Cloque (1899), 『餌』La Becquée (1901), 『ある庭園での愛の授業』La Leçon d'amour dans un parc (1902), 『バルコニーの子供』L'Enfant à la balustrade (1903),『最良の友』 Le Meilleur ami (1909),『エリーズ』 Élise (1921)等。1918年アカデミー入会。
同上。
モーパッサンが前期と後期で大きく変化したとは衆目の一致するところである。
前半を評価するもの、後半を褒めるもの、どっちも褒めるもの(いたかな?)、どっちもけなすもの。
と、要するに四通りの評価がある。
別枠に「狂気」を論じたがる者、若干名。
前半のモーパッサンが何であったかは大体評価が一致していると言えよう。
ばりばりの自然主義者、農民と下層階級をごりごり描いた男。
問題は後期モーパッサンであり、これを
社交界に迎合した出世主義者とするか、より微細で現代的な美の探究に向かった者ととるか、
二つの見方がみてとれる。
象徴主義を唱える若者達にとってすれば、
そこが、モーパッサンを敵とみるか味方とするかの分かれ目ともなる。
『詩集』、『メゾン・テリエ』、『女の一生』のモーパッサンと、
『死の如く強し』、『我らの心』、旅行記『水の上』のモーパッサン
モーパッサンの素晴らしくも面白いところは、
10年の経歴の間、彼が変化しつづけたそのことにこそある、と私は思うのだけれどもね。