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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

バルタザールの風変わりな毎日

モーリス・ルブラン、『バルタザールの風変わりな日々』、三輪秀彦訳、創元推理文庫、1987年
La Vie extravagante de Balthazar は1925年刊の由。
冒険など存在しない、という「日常の哲学」を唱える青年バルタザールの身に、
次から次にとありえないような事件がふりかかってくる、というお話なので、
これは一見したところ冒険小説のパロディのように見えるのだけれど、
そう見せかけて、実は正統な冒険小説なのではないだろうか、というのが私の見立て。
この作品を楽しんで書きながら、作者は「人生にこれぐらいのことがあったっていいじゃないか」
と言っているような気がする。
ところで、ここには主人公にとことん尽くすコロカントという女性が出てくるが、
ルブルランの女性観はお世辞にも新しいといえないので、これは何かと思うにつけ、
つまりは子供の抱くファンタスムのようなものではないかと思う。
(コロカントは母性を象徴していると捉えられるだろうし、
そもそもこの物語は父親(と母親)を探すというものである。)
そう考えると、この話全体がそもそも子供の夢想のようなものにも思われ、
そこにルブランの内の幼児性のようなものが見える気がするのである。
別にそれを悪い意味にとる必要はなく、むしろ私はそれを肯定的に捉える言葉を
探しているのだけれども、
さらに考えれば、アルセーヌ・リュパンの物語にもまた、
その種の子供的な要素は既に存在したのではなかっただろうか。
波乱万丈のとてもありえないような物語、『奇巌城』や『813』や『虎の牙』を作者に書かせたものは、
そういうものではなかっただろうか。
だとすると、と、どこまでも無理やり推し進めていくと、
成熟とはすなわち社会性を備えることであり、子供とはある種、非社会的な存在であるとすれば、
すなわち、アルセーヌ・リュパンが体現しているものは、
「反社会性」というよりもむしろ「非社会性」なのではあるまいか。
出発点はともかく、リュパンからアナーキストの要素は早々に消えていくと思われるのだが、
そもそも彼にはフランスのブルジョア社会と真っ向から対立しなければならない
動機というものはすごく薄い。
社会の内に存在しながら、なおそこで自由であろうとし続けること。
リュパンの魅力の一点は、彼が幼児的なものを保ちつづけているという
そのことに認めることができるのではないだろうか。
てなことを思ってみましたが、さてこの説の妥当性はどれほどのものであるか。
自己検証したいと思います。