えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

あるいはカンディード

誕生日。
なにかよいことはないかと思って、『舞踏会の手帖』を観る。渋い選択だ。
オムニバスの各篇いずれも味わい深いが、それにしても人生観、苦み走りまくり。
これぞ古き良き大人の映画かな。


相変わらず『女の一生』。
「無垢」な状態にある人物が、そのまま世間に放り込まれるとどうなるか、
という、一種の思想実験としてこの小説は読めるのではないか、
と考えるなら、あるいはルソーにだけ拘る必要はないのかもしれない。
たとえばまさしくヴォルテールの『カンディード』。
ライプニッツの最善説をこてんぱんに嘲弄するために書かれたこの小説は、
文字通り「無垢」を意味するカンディードが世界を放浪する中で、
これ以上にないほどの災厄に見舞われるお話であり、
そこでは誇張と諷刺と皮肉とブラックユーモアが炸裂しているのではあるが、
無垢な青年カンディードは、世の辛酸を嘗めつくした後に
「我々の庭を耕さなければならない」という境地に辿りつく、というのと、
(それはつまり、この世が最善でないなら、我々が最善を尽くすべき、ということだろう)
無垢な乙女ジャンヌは、世の辛酸を嘗めつくした後に
「人生は思うほども良くも悪くもない」という、ある種の達観した境地に辿りつく
(もっともジャンヌ自身が辿りついたかどうか保障の限りではないが)
とは(無理やり揃えてみたのではあるが)、同一の構図と言えなくもあるまい。
つまり、『女の一生』がある意味でモーパッサンの「実験小説」であるとすれば、
その意味は、ゾラ流のそれというよりも、むしろ18世紀的な思索実験に近いものではないか、
というよなことを、つらつらと考え続ける。


もっとも、19世紀における田舎貴族の女性の人生は、原理的にジャンヌのそれと違いなく、
娘として、妻として男性に隷属して生きるしかなかった「現実」を忠実に写したものだ
という見方こそが、一般的な見方なのではある。
もちろん、『女の一生』はレアリスムの諸規則にのっとって書かれたものであるので、
当時の社会状況を十分に踏まえたものになっているのは確かであろうし、
そうでなければ出版当時にこの本がよく売れたりはしなかったろう。
ジャンヌの物語を我がことのように読んだ女性は、当時少なくなかったはずなのだ。


しかし一方で、当時のモーパッサンが小説について語る言葉はたとえば次のようなものだ。

 Du roman, tel qu'on le comprend aujourd'hui, on cherche à bannir les exceptions. On veut faire, pour ainsi dire, une moyenne des événements humains et en déduire une philosophie générale, ou plutôt dégager les idées générales des faits, des habitudes, des mœurs, des aventures qui se reproduisent le plus généralement.
(Maupassant, "Les Bas-fonds" (1882), in Chroniques, U. G. E., coll. "10 / 18", 1980, t. II, p. 102.)
 今日理解されているような意味での小説からは、例外的な事象を追放するように努められている。言ってみれば、人間的出来事の平均を創り出し、そこからある一般的思想を引き出す、あるいは事象、習慣、もっとも一般的に起こる事件についての一般的諸概念を引き出すことが望まれているのだ。
モーパッサン、「下層階級」(1882年))

 Le romancier a besoin de pénétration, d'idées générales, d'observation profonde et minutieuse des hommes, et surtout une suite sévère dans l'enchaînement des pensées et des événements d'où dépend la composition d'un livre.
(Maupassant, "Messieurs de la chronique" (1884), in Chroniques, op. cit., t. III, p. 40.)
 小説家に必要なのは洞察力、一般的概念、人間についての深く綿密な観察力、そしてとりわけ、思考や出来事の連関性についての厳密な一貫性であって、そこに書物の構成はかかっている。
モーパッサン、「時評文家諸子」(1884年))

「一般的概念」あるいは作家の「世界観」と呼ばれるものを物語を通して提示するものが小説であり、
そのために「芸術」であり「技術」でもある art が必要なのだ、
というのが、モーパッサンが小説について繰り返し語っていることだ。
簡単に言えば、モーパッサンの小説は決して「見たまま」をそのまま書いた、といようなものではない。
モーパッサンについてはその「観察力」ばかりが強調されるが故に、
(本人が強調しているのでいたしかたない話ではあるが)
ややもすれば「単純」な作家と捉えがちなのであるが、事実は決してそうではないはずだ。


18世紀の作家が思索実験を好んだのは、
いかに現にある世の中を相対化してみせるか、
そのことによってこの世の権威(とりわけ宗教)の絶対性を覆してみせるか、
が彼らの最大の関心であったからに他なるまい。
無垢な青年カンディードの視点が採用されるのは、それが
「現実」に対して異化効果を発揮させるための効果的な手段であるからだ。
それと同じことが、諷刺とレアリスムとの技法の差異を超えて、
女の一生』にも見てとれるのではないか、と私は考えたい。
無垢にして無知なるジャンヌの視点を通して我々は彼女を取り巻く世界を見る。
その時に、ありふれた日常、見なれた世界は、もう一度新鮮な光のもとに映し出されることになり、
我々は我々を取り巻くこの世界をもまた、もう一度発見しなおすことができるのではないか。
決してその「世界」は明るいものばかりではないにしても。