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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

休眠中

イギリス文学 マラルメ

長らく休眠中で、ブログ書く習慣もどこへやら。
9月末、我が人生のそれなりの大仕事に、時間切れでどうにかけりをつける。
Xデーは12月9日。それまでいわゆる蛇の生殺し状態。あうあう。
逃避でほそぼそ読んだ電車本。
ディケンズ、『大いなる遺産』、佐々木徹訳、河出文庫、上下、2011年
ありえないような偶然の設定と、波乱に富んだ筋の展開と、
自然主義が小説から放逐しようと躍起になったものがここには詰まっていて、
なるほどなあと思う。しかしながら、結局のところ長編小説の醍醐味は
まさしくここにあるのよね、と思わざるをえず。1860-1861年刊行。
思うに、自然主義の抱えたジレンマの一つは、
典型となるような説話型を生みだすことができなかった、ということにあるだろう。
なにしろ実人生をモデルにうたう自然主義小説の説話パターンは、
二葉亭四迷言うところの「牛の涎」(『平凡』)的漫然とした日常か、
あるいはとことん下降線どん底行き、の二つに収斂されるといってよかろう。
モーパッサンの『ベラミ』はそれをあからさまに逆転させたものだけども。)
ビルドゥングの成立する余地がまるであらへんことは、
女の一生』のジャンヌの成長のなさを見るべしか、と。
それはそれでよいのだけれども、
そんな小説ばかり読まされた当時の読者に、いささかなりと同情を催さないでもない。
そういうわけで続けて、
チャールズ・ディケンズ、『オリバー・ツイスト』、中村能三訳、新潮文庫、上下、1955年(2010年29刷(上)、27刷(下))
1838年発表のこちらは、善悪二元論が明快な大衆小説的色合いが濃い作品。
後半の展開は見事であった。
ディケンズを読むと19世紀に孤児であることは、なんと大変なことであったかと
しみじみ驚かされるのである。


台風で一回吹っ飛んで、昨日久しぶりのマラルメ
「詩の危機」はまだ続く。
ワーグナーに至って、詩句Versと音楽Musiqueが結合し、詩Poésieを形成する至った
というマラルメの評言は、一体どの程度妥当なものなのでしょうか。
それとはさして関係なく、
清水徹、『マラルメの<書物>』、水声社、2011年
をぱらぱら読む。
1860年代の、かなり誇大妄想的な「書物」の夢は、
70年代には理想の祝祭的演劇へと移行し、
80年代にはそれが「読書会」構想へと引き継がれるが、
90年代には物としての「書物」についての考察へと関心が移っていく。
そうしたマラルメの「書物」の夢の変遷を辿った上で、
死後に刊行された「<書物>についての断章群」の意味を問う。
元は翻訳全集3巻の解説を書き改めたもので、たいへん読みやすく明快。
およそ実現不可能な夢に対し、それでもその可能態をあれこれと模索し、
それ自体がまた見果てぬ夢であったようなマラルメの人生に、
一体、我々は何を読みとるべきなのだろう。


今時驚くべき硬派さによって実に貴重な雑誌『ふらんす』(白水社)紙上では、
10月号から6回にわたって、
永田千奈、「対訳で楽しむ『女の一生』」連載中です。
これに便乗して言いたいことはいろいろあれど、とりあえず保留中。