えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モーパン嬢

テオフィル・ゴーチエ、『モーパン嬢』、井村実名子訳、上下巻、岩波文庫、2006年
フランス文学史で序文だけが名高い作品(1835年刊行)を諸事情で急ぎ読む。
面白いところは色々あるが、いかんせんいささか冗長ではあるまいか。
もっともそんなこといったら18世紀の小説なんか『マノン・レスコー』以外みんなそうなんだけど、それにしても肝心のモーパン嬢は下巻にならないと出てこないのである。
前半の主人公ダルベール君は二十歳そこそこの(自称)画家兼詩人。
昔日の絵画・彫刻に表現された理想の美女を求めて煩悶した挙句、美人でお金持ちで優しいロゼットを愛人にして、さんざん楽しみながら、それでも俺は満足できない、とああじゃこじゃと不満たらたらであるのだが、そこで見目麗しい美青年テオドールと邂逅。彼に恋してしまうのだけれども、男色は当時はタブー中のタブーなので、男に恋してしまうとはあ、とこれまたあれこれ煩悶するのであったけれども、実はこのテオドールこそは、男装の麗人マドモアゼル・ド・モーパンであったのだ。
不細工な要旨だなこれ。まあええか。


ダルベール君は典型的な「世紀病」患者であって、個人的にはなんだか懐かしいものがあるが、(ルネとかアドルフとか勉強のために読んだ日が私にもあることはある。オーベルマンはとてもじゃないが全部読めんかったけど。)ゴーチエに至っては多少なりと戯画化され、ほとんどパスティーシュみたいで、あんまり深刻にも見えないのではある。
両性具有への興味も滲ませるモーパン嬢の造形は、作者のファンタスムの具現化に他ならないだろうが、ゴーチエの偉いところは、一人称体によって彼女の内面の声に語らせたところにある。
寄宿学校を出たばかりの少女が男性の本当の姿を知るために、男装して男社会の中に紛れこむ。
待っているのは幻滅と嫌悪であるが、しかしその経験を通して、彼女は性差のしがらみから逃れた、自立した一人の人物へと成長する。
作者の意図と欲望がどこにあったにせよ、モーパン嬢の物語をそのように読むことは十分に可能である(ように見える)。
からして結末は清々しいといってよいもので、最後まで読んですくなからず感動を覚える。
いや本当に。


有名な序文は、たしかに「芸術のための芸術」の宣言であるに違いないのだが、その点が強調されるのは後世の作家達に因るところ少なくないように見える。
基本的には芸術と道徳に関する議論であって、
芸術家の側から「不道徳」という批判への反論という伝統に則ったものだ。
そこによりアクチュアルな話題として、芸術の「有用性」を巡る議論が絡んでいて、そこで有名な一節が出てくる。せっかくなので引いておこう。

 真に美しいものは、何の役にも立たないものに限られる。有益なものはすべて醜い。何らかの欲求の現れだからだ。そして人間の生理的欲求は、貧相かつ脆弱な本性と同様に、不潔で嫌悪すべきものだ。――一軒の家のなかで、何よりも有用な場所は便所である。(上巻、54頁)

ゴーチエがいっているのはつまるところ「俺は美と快楽にしか興味がないんだよ」ということに尽きる。
うーむ、かくありたしと思わないでもありません。
て、こんなんが「書き初め」で大丈夫なんだろうか。


追伸
昨年のことになりますが、
森田崇、『アバンチュリエ 新訳アルセーヌ・ルパン』、講談社、1、2巻、ともに2011年
私も読んでおります。
若くて生きのいいルパンは、漫画的造形として成功していますね。
長く続いてほしいです。


ついでながら、
この元旦をもってついにフランスでも著作権保護期間が終了したモーリス・ルブラン
研究者観点だけからいうと、これで出版し放題、これで注釈つけ放題というものである。
リュパン・シリーズのよい校訂版が出ることと、リュパン以前の作品の刊行が(程よく)盛んになることを期待したいところだけれど、
はてさてどうなるものだろうか。