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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

11ヶ月ぶりの翻訳

Gustave Lanson

時間があるのかないのかよくわからないこの頃、
思いたって翻訳を仕上げる。
モーパッサン 『時評文執筆者諸氏』
自身、新聞紙上で「時評文執筆家」であり小説家でもあったモーパッサンが、
両者の性質の相違を説いた後に、当時の一流時評文書き4名を紹介する一文。
ジャーナリストとしてのモーパッサンを知る上で欠かせない文章であります。


勢いがついたのでもう一つ。
ギュスターヴ・ランソン 『ギ・ド・モーパッサン』
なんと、ギュスターヴ・ランソンの『フランス文学史』の内のモーパッサンの箇所。
しかも似顔絵付き(昔逃避で描いたんだなこれが。なにやってんだ)。
ある年代より上の仏文学者には親しくも懐かしいランソンであるが、
今時の仏文の学生さんで読んでる人はほとんどおるまい。
もっとも私も別段読んだと威張れるわけではありません。
そちらにはランソンのモーパッサン評価は「限定的」と記した。
思想がない、共感がない、とないものづくしなので、そういうものだと思うけれど、
しかしこの一文の最後、『女の一生』について書かれている部分を読んだ時には、
おおギュスターヴ、あんたはよう分かっとる、と思わず叫んだ。
そこを手前味噌ぎみの引用。

この人生は、細部においては実に個別的でありながら、余りに真実であり、その構成と性質において余りに平均的な真実から成っているので、一般的な価値を持つに至るのである。彼女の悲しみに、無数の人々の悲しみが付け加わる。それら無数の悲しみを、我々はこの唯一の事例の向こうに窺い見るのであり、作品の悲痛な力強さは、それ故に無限に膨らむのである。
ギュスターヴ・ランソン、『フランス文学史』(ポール・テュフロによる改訂版)、アシェット社、1951年、1092頁。

個別性の中にこそ窺われる普遍性。
それこそ文学の王道というものではありますまいか。


思うにつけ、ランソニズムの核には、文学的事象を客観的に記述することは可能である、
ということについての信仰のようなものがあって、
それが、アカデミズムの場で文学を「研究する」という営為を担保していたし、
恐らくは今も(建て前的に)担保しつづけているのではなかろうか。
文学研究もまた実証的かつ科学的な、いわば歴史学の一翼に位置付けられるべきものだ、
という自己規定のもとに、近代の大学における文学研究は制度化された。
だからその根底を問題に付すことができたのが、ロラン・バルトという
なかば在野に位置する「野蛮人」が最初だったのは、いわば当然のことなのである。
そのバルトも今や立派な「文学研究」の対象に取り込まれているという事実に、
アカデミズムというもののしたたかさ(というか何と呼ぶべきか)が窺われるのはともかく、
今日、文学的事象の記述が純粋に客観的なものたりうるというような、
素朴な信仰に立ち帰ることは、恐らくはできない。
だからといって、もちろんぜんぶ主観にすぎないというのでは勿論ない。
(単純な二元論ほど、人文学研究にとって無縁であるべきものは他にない。)
主観的価値判断と客観的事実認知との間の曖昧といえばまことに曖昧な領域において、
相応の妥当性と説得力とを確保するべく努めながら、
いつも多面的で多義的で捉え難い「真実」の、一端にでも触れんという希望を持つこと。
今日、文学を研究するというのはつまりそういうことなのではありますまいか。
ランソンを読みながら、そんなことを考えました。