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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「詩の危機」読了

マラルメ

土曜日マラルメ。日曜日宴会。
ようやく「詩の危機」を(とりあえず)読み終えた。すごい。


ユゴーの死後、自由詩が主張され、韻文定型詩は「危機」に遭遇した。
マラルメは公的なものとしてのアレクサンドランへの支持を表明する一方、
現代詩人達の試みの内に見られる、あるいはマラルメ自身にとっての、詩法の根幹として
2点を挙げる。
その1は「象徴」の扱い。事物の表面を描くのでなくその内にあるものを「暗示」すること。
これをマラルメは「転移」と呼ぶ。言葉への、あるいは「書物」への転移。
その2は「構成」と呼ばれる。
頁の上の余白をも含んだ「構成」が作品にリズムを与える。
37段落においては、現代の若い詩人達の試みにそれらが共通して認められるのだとして、
それを書かれるべき一冊の「書物」への共同作業と、マラルメは位置づける。
38段落。再度音楽を引き合いに出す。
我々は音楽の内に人間性に内在する「詩」を直観的に感じとることができるが、
それはあくまで言葉によって「書物」へと「転移」されなければならない
(それは作家としての自分の偏見かもしれないが、とマラルメは断ってはいる)。
楽器ではなく、最高度における知的言語によってこそ、
「万物の内に存在する関係の総体として」の音楽は生まれるのである。
以上、私の理解した範囲での要約。


39段落から44段落は、「詩の危機」のテクスト以前に書かれていたものの再録であり、
この部分をこれまでのテクスト本体とどう関係づけるかは議論の分かれるところである、云々。
さはさりながら、とりあえず訳でもしてみるか。恐れ知らずの素人の成せる業。

 私の時代の否定出来ない欲望は、異なった権限の付与を目的とするかのように、言葉の二重の状態を分離するというものであり、こちらには自然のままで直接的な状態、あちらに本質的なものを、というのである。


 語ること、教えること、描写することでさえうまく行っており、さらには、恐らくは、人間的思考を交換するためには、他人の手に黙って貨幣を置いたり、その手から取ったりするだけで、各人には十分であるのだろう。言説の初歩的な使用法が遍在する「報道」を務めており、文学を除いて、現代の書き物のジャンルにおける全てはその属性を帯びている。


 自然の事象を、言葉の作用に従って、振動するほぼ完全な消失へと転移させるという驚異、もしそれが、身近だったり現実的だったりする想起の不自由さなしに、純粋な観念をそこから発散させるためでないのだとしたら、何だというのだろう。


 私が言う。一輪の花! すると、私の声が何らかの輪郭を遠ざける先の忘却から外へと、既知の萼とは別の何かとして、音楽的に立ち昇ってくる。甘美な概念そのもの、あらゆる花束に不在の花が。


 群衆が最初に言葉を扱う場合のような、安易で表象的な通貨的機能とは反対に、言葉は、何よりもまず、夢であり歌であり、「詩人」において、虚構に捧げられた芸術を構成する必要性によって、その潜在性を再び取り戻すのである。


 詩句は、複数の単語から、完全な、新しい、言語にとって見なれぬ、呪文のような一つの単語を作り直し、発話からのこの孤立を完成させる。意味と響きにおける交互の焼き直しという人為にもかかわらず用語の内に残る偶然性を、至高の表現によって否定することで、このように発話された通常の断片はかつて耳にしたこともないという驚きを引き起こし、同時に、名づけられた事物のかすかな記憶が、新しい雰囲気の中に浸るのである。
(Stéphane Mallarmé, "Crise de vers", dans OEuvres complètes, t. II, Gallimard, coll. Bibliothèque de la Pléiade, 2003, p. 212-213.)

あえてソシュールの言葉で考えるなら、
現実世界へのレフェランスを完全に喪失した状態のシニフィエというのが、
マラルメの言う「純粋観念」ということになる、と言っていいと思うんだけどどうかしら。
このマラルメの言葉から、「語り」と「描写」を排除して「純粋詩」を目指すべきだ
と愚直に考えたのが恐らくはヴァレリーであるが、
マラルメが「言葉の二重状態」を完全に分離させることができると考えていたかどうかは
いささか疑問の余地がある、云々。
私にとっての個人的課題は、ここからマラルメモーパッサン観へとどう接続するかである。
あるいは、このマラルメの言葉を参照枠として、モーパッサン自身の言語観を
どう捉え直せるか、というものだ。
「文学的ジャーナリスト」「日常の語り手」とマラルメモーパッサンを呼ぶ。
新聞紙上に溢れる「遍在するルポルタージュ」l'universel reportage 的言説を
文学的言説に「転移」させることに、モーパッサンは確かに貢献していた、
というのが、マラルメモーパッサン評価の核ではなかったか。
もしそう言ってよいのならば、その評価はけっこう高いということになろう。
しかしもちろん、レアリスムの言説の賭け金は、
現実世界への参照性をいかにすれば強固に築き上げられるか、という一点にかかっている
といっても恐らく言い過ぎではない(こともないかもしれない)。
にっちもさっちも行かないので、とりあえず宿題の箱に放り込もう。


次からいよいよ「エロディアードの婚姻」へ向かう
べく、まずは「エロディアード」そのものを読むことに。
さあ大変。