えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

主語がないなんて

一週間が怒涛の勢いで過ぎ、週末沈没の日々が始まる。
発作的に、
水村美苗、『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』、筑摩書房、2008年
を読み、これを読んだら絶対読み返したくなる『三四郎』(岩波文庫)を読み、
丸山真男加藤周一、『翻訳と日本の近代』、岩波新書、1998年
を読んで、今更ながらこの二人の知の巨人ぶりにため息をつき、
金谷武洋、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』、講談社選書メチエ、2002年
を読んで、目から鱗がばらばら落ちる。
日本語に品詞としての「人称代名詞」は要らず、主語はなく、
自動詞・他動詞は存在するが、直接目的語があるかどうか、とかいうのとは何の関係もないのだ。
ここから個人的に発生する問題は2点あり、
一つはフランス語の文法を説明する時に、
主語があって動詞が来るのは日本語と一緒でしょとかいう「嘘」はもうつけない。
もう一つは翻訳とは何じゃらほいと改めて考えさせられる。
Je suis japonais.を「私は日本人です」と訳すのは、すでにして直訳でもなんでもなく、
十分に「意訳」でしかないとするなら、およそ翻訳において「忠実」かどうかなど
そもそも問うのが馬鹿馬鹿しいようなものではあるまいか。
だとしたらとことん開き直って「日本語」らしい日本語の文を作ることに徹するべきなのか。
なかなかそうドラスティックに思い切れるものでもない。
外国語を学ぶ利点の一つは母語を相対化できることだ、
と御託としては思いながら、これまであまりに無自覚であったことに
最近いろいろと思い当たる。なかなかそう簡単ではない。
死ぬまでお付き合い確実の日本語なるものについて、
あれこれ思いを巡らしつつ、
しかし自分が何をやっているのかよく分からなくもあるこの頃なり。


21日(土)、マラルメの日。新しい人到来で盛り上がりました。
「エロディアード」2回目。
アレゴリーとしての読解は明快にいくようでもあり、そうでないようでもあり、
いずれにせよ鍵は「乳母」の役割にあるようで。
純粋に詩以外の何物でもない詩を作り出すこと。
二十歳そこそこの青年ステファヌ君がそういうことに真剣に取り組んで、
神経衰弱におちいってしまうほどだったということは、
1860年代において「文学」の場の自立が完全に確立されていたことの証であろうかと思う。
社会的価値とは別の文学独自の自律的な価値体系を樹立させるという
フロベールボードレールの試みの「後」にしか、そんなことは考えられまい。
その意味で、ボードレールの後に詩を書こうと決意した彼の必然であったかもしれない。
いずれにせよ、70年代以降、彼は自分の試みの行き詰まりを自覚し、
社会との接点を彼なりの仕方で模索していくのではある。
文学とは何であり、何でありえて、何であるべきなのか。
そういうことを考える上で、マラルメの事例はまことに示唆に富むものである、
ということは、今なお確かに言えることであるように思う。