えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

我らがモーパッサン

通りすがりの猫

通りすがりの猫、一匹。
だから何と言われても困ります。


フランス語の文章では同じ単語の繰り返しを嫌うので、「モーパッサン」の言い換えに、文脈に合わせて「作家」「小説家」「時評文家」
あるいは「『女の一生』の作者」等々をひねり出さないといけない場合がしばしばある。
先日、書き上げた論文をフランス人の先生に見て頂いたら、「我々の作家」notre écrivainという言い方は「古臭く」vieillot, 「教科書臭く」scolaire, 「いささか家父長的」un peu paternalisteであるとご指摘いただいて驚いた。
なるほど、そうであったか。
考えてみれば、日本語で「我らがモーパッサン」というのと同じような感じなのだろう。
まことに、いつどこで赤っ恥かくか分かったものではありません。


それに多少関連することとして、「謙譲の複数形」pluriel de modestie なるものがある。
「私」je の代わりに「我々」nous を用いるのは、より客観的な印象を与えるためである云々。
日本語の論文でも「私」の代わりに「我々」を用いる慣例があるのは、欧米の形式を倣ったものと推察されるけれど、フランス語の場合、この「謙譲の複数形」は、実際には話者一人を指すので、形容詞等の性数は、単数(女性の場合は女性形)にそろえなければいけないということも、以前、コレクションしてもらって教わったことだ。
それはそれとして、日本語の論文で今時、「我々」は仰々しい印象を与えるに違いなく、
一方、今時のフランス人の書く論文では、「私」je を使っているものの方がはるかに多いのではあるまいか。
つまりこれも、今では「学校教育的」scolaire な表現の内に入るのであろう。
(フランス人の大学教師には、学生にはscolaireな規則を強制しておきながら、自分はそういうものを毛嫌いするという困った傾向がありはしませんか。)


からして、早く nous を卒業して je を使ってみたいものだ、と、以前から思っているのだけれども、なかなか踏ん切りがつかずに今に至る。
偉そうと思われる危険を冒すよりも(印象は読む人次第だ)、多少古く臭くても正統であるほうが安全ではある。しかし時勢というものを無視するわけにもいくまい。
なかなかそういう事情というのは判別しがたいものだなあと痛感した次第のご報告でした。