えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

読書の影響

リュクサンブール公園のボードレール

何の脈絡もなく、リュクサンブール公園ボードレールの像。なんとなくおかっぱ頭に見えるのであるが、古びてすりへったからかしら。
Pierre-Félix Fix-Masseau (1869-1937)の作、
1933年に制作、公園に置かれたのは1941年である由。


よく見ると台座に詩が彫ってあるので、それを読む。

Car c'est vraiment, Seigneur, le meilleur témoignage
Que nous puissions donner de notre dignité
Que cet ardent sanglot qui roule d'âge en âge
Et vient mourir au bord de votre éternité !
(Charles Baudelaire, ""Les Phares", v. 41-44.)
何故なら、主よ、それこそが最良の証
我らが尊厳の内から、我らが与えうるものの。
時代から時代へと継がれゆくこの激しい嗚咽は
そなたの永遠の淵辺に来りて息絶えん!
ボードレール、「灯台」)

見苦しい訳ですみません。
してみると、ここで「主」を「ボードレール」に置き換えて、この彫像が、後世の者の捧げうる最良の「証言」である、という風に読むべきなのであろうか。つじつまのあうような、あわないような話である。


ところで、脈絡は一切ないのだけれども、「究極的には本は一冊で足りる」とか、「すべてはフィクションなのだ」とか、最近に自分の書いたことを、よくよく考えなおしてみると、なんだかマラルメみたいじゃないか、ということに思い至る。
そう言ってしまうのも、おこがましいような厚かましいような話ではあるが、これが、いわゆる「影響」というものであろうか。


飼い主とペットは似通ってくる、と俗に言うけれども、もっともペットと作家を同じ扱いにしていいものか知らないが、長い付き合いをしていれば、研究者と研究対象の間の親近性が増していく、というようなことは、十分に想像されるのである。
ミイラ取りがミイラになる、という、想像するとものすごい言葉もある。
モーパッサンはこう考えました」ということを日々これ唱えていると、だんだん自分がモーパッサンの市子じみてくる、というようなものでもあろうか。


若い作家に宛ててモーパッサンは書き送った。
「誰をも崇めてはいけません」と。
彼自身がフロベールを崇めていたといってもいいほどのモーパッサンの、それでもオリジナルなものであろうとした意志が、この言葉の内には籠められている。
ふと、そのことを思い出す。
自分の目で見ること。自分の頭で考えること。自分の言葉で語ること。
真摯に考えれば考えるほど、そのことの難しさに人は思い至るのだろう。


とりあえず、顔まで似てこないことを、今は願うのみです。