えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ミュッセ頌

モンソー公園のミュッセ像

モンソー公園に戻って、ミュッセ(1810-1857)の像。
Alexandre Falguière (1831-1890) が手掛けたものを、Antonin Mercié (1845-1916) が完成させたものらしい。
1906年にコメディー・フランセーズの前に置かれ、後に今の場所に移された由。
「夜」連作詩編(特に何月かは忘れた)をイメージしたものなので、普通の女性に見えなくもないが、この場合、後ろに立つのはもちろんミューズであって、詩人に霊感を吹き込むのである。


モーパッサンはミュッセに手厳しかった。
いわく、感傷たれながしで「芸術」のなかった詩人。
しかしこの批評には裏がないわけではない。
十代の頃、モーパッサンはミュッセの影響丸出しの詩を何作か書いている。二十代には、身体的欲望(これはある種の婉曲表現)礼賛の肉感的な詩を書くようになるが、かつての自分を否定する、という意味合いがそこにはある。
モーパッサンのミュッセ評にはフロベールの影響も濃厚だが、自分の過去が絡んでくると、さしものモーパッサンもいささか公正さを失っているように見えるのだ。


ミュッセはそんなにひどくはない、ということを少しばかり言ってみたい。
早熟の天才詩人の名をほしいままにし、数々の女性に愛されながら、それでも満足できずに鬱々と倦怠の内に夢想に耽る、というのが巷に伝播した彼のイメージであろう。
ラマルチーヌと並んで、「ロマン派詩人」のイメージを作り出すことに、大いに貢献したのがミュッセだった。ラマルチーヌは宗教色が強すぎたせいで廃れるのも早かったが、早世したミュッセの威光は死後もながらく輝き続けた。
たしかに、彼は典型的なナルシス君ではあろうが、彼には、自己を客体化して見る視線が決して欠けてはいない。そこにある種の苦いアイロニーがあるからこそ、1870年代頃までの、フランス中の文学少年、文学青年達に、憧れと同時に共感をも抱かせたのではなかっただろうか。


それこそが「気障」だとか「ポーズ」だとか、
悪口を言うことも簡単なのではあるが、その種の批判はいささか「やっかみ」を免れないところが哀しい。
できることならミュッセみたいになってみたい、という密かな欲望を抱かせてしまうなら、それは詩人の「勝ち」というものである。つまり、ミュッセは今でいうところの「アイドル」そのものだった。


しかしまあ、今読むに値するのはやはり戯曲のほうではあろう。『戯れに恋はすまじ』(良い訳だがいささか古臭い)一つとってみても、ミュッセの頭の良さははっきりと知れるのである。
微細な感情を取り扱う術はかなりマリヴォー的なところがあるが、ここでもアイロニーが効果をあげている。
ルフレッド・ド・ミュッセ。
「ロマン派詩人」の典型的なイメージをひとたび拭い去って、彼の作品に、今一度、再評価の光を当ててみる価値があるのではないか、と思うのは、一人私のみであるだろうか。