えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ジョルジュ・サンドの理想主義

リュクサンブールのサンド像

似顔絵の次は彫像と、我ながらそんなに「顔」が好きなのかと呆れるが、これまたおじさんばかり続いた後には、ジョルジュ・サンドに救いを求めるのだった。
リュクサンブールのサンド像は、
François Sicard (1862-1934)により、1905年作の由。
いかにも19世紀的な女性像という感じではある。


日本でも研究が盛んで、よい翻訳の選集も出た中で、いつまでも『魔の沼』や『愛の妖精』のサンドを語るべきではないと承知してはいるのだけれど、今日のところはお許しを願いたい。
『魔の沼』の序文だったかと思うが(しかもうろ覚えときた)の中で、文学は「理想の人間の姿」を描くべきだとサンドははっきりと主張している。
一方で、我らが(とやはり使ってしまう)モーパッサンは、このサンドの理想主義を、現実を偽るものとして批判した。モーパッサンによれば、ロマン主義の影響を残しているこの流派は、ルソーにはじまり、サンド、デュマ父からオクターヴ・フイエ、ピエール・ロチと続く。
ここに、『ラ・ミゼラブル』のユゴーや、『椿姫』のデュマ(息子)、少し後になるが、『シラノ』のロスタンも(たぶん)加えることができるだろう。
甘ったるいクリーム・タルトさながらの感傷的て理想主義的なこれらの文学(とモーパッサンの考えるもの)を拒絶するという点において、ゾラや彼の後に続く自然主義作家たちと、モーパッサンは、いわば共同戦線を張っていたといっていい。


しかし、と考えてみるのである。
「現実」の人間や社会の抱える問題をこれでもかとあげつらい、これを批判的に取り扱うということは、そのことによって幾らかなりと「世直し」したいという教化的意図をそこに認めることができるだろう。
モーパッサンはその点には否定的だったかもしれないが、ゾラはけっこうはっきりとそういうことを言っている。)
一方で、かくあるべき人間の姿を描くという「理想主義」文学は、これもまた、当然のごとく教化的意図を籠めたものである。
だとすれば、「現実主義」と「理想主義」とは、同じ目的を持った一枚のコインの表と裏だと考えることは、それほどおかしなことではあるまい。
当たり前といえば当たり前の話で、我々はいつでも「理想」と「現実」の狭間でうろうろするしかないのではある。
だがしかし、19世紀のフランス小説が一貫して、「理想」と「現実」の相克をテーマとして扱ってきたとするなら、それは、この時代になって、その両者の懸隔が鋭く意識されるようになったからだと考えるべきではないだろうか。


革命以後の社会にあって、フランス人たちは、
自分たちの進むべき道を、自分たちで決定するという権利と義務とを同時に負った。
「すべては神の思し召し」では、もはやすまされなくなった時、人間は、自分達の「ありうべき姿」をそれぞれに思い描くようになる。
(この各人の理想はしばしば互いに相容れないから喧嘩にもなる。)
と同時に、その「ありうべき姿」に対して、それとはかけ離れた「今の姿」が、否定的な意味合いを持って眼前にはっきりと表れてくるだろう。
「理想」と「現実」の成立は、したがって同時的なのであり、昼と夜とのように、それ自体で独立して成り立つものではない。
社会主義思想や科学信奉という形で表れてくる多様な「理想」の側に立つ者と、いっこうに改善されることのない(ように見える)社会の「現実」の側に立とうとする者とが、喧々囂々と意見を交わしあう。
小説というジャンルは、そうした世相のありようを、物語の中に流し込む、最適な文学的形式だった、と言えるだろう。
そしてその時、「理想」と「現実」とからなる全体を見通すことのできた優れた作家は、両者の狭間に立つ人間の「幻滅」を軸に、彼らの物語を作り上げたのであり、その嚆矢こそは、
バルザックであり、スタンダールであり、そしてフロベールが後に続くのである。


しまった。ジョルジュ・サンドからえらく逸れて大風呂敷を広げてしまって、収拾がつかない。
ジョルジュ・サンド
田園小説一つとってみても、これをちゃんと読むならば、サンドは小説が上手だったとはっきり言える。
理想主義的な人物像や物語を、最後まで読ませるのには相応の手腕がいるのに違いない。
19世紀に詩や小説を書いた女性は、実際のところはたくさん存在したが、みんな歴史に埋没してしまい、サンド一人だけが生き残った現状において、「女性作家」という問題意識を抜きに、サンドを読むことは難しく、結果として、研究者も女性が過半を占めるという現状がある。
だがしかし、本当にそれでいいのかという問いかけはあってもよくはないか。
フロベールとサンド、モーパッサンとサンドを突き合わせてみた時にこそ、19世紀文学の姿は、もう少し全体的な形で俯瞰することができるようになる。
そしてその時、ロマンチスムやレアリスムという概念から少しでも離れて、19世紀フランス小説をとらえ直す視点を、きっと得ることができるのだと、ごく個人的に私は思う。