えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

うまくいかないこともある

最近読んだ本から、備忘のために脈略のない引用を残す。

 トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。
(ユベール・マンガレリ、『おわりの雪』、田久保麻里訳、白水Uブックス、2013年、5頁)

 準備はなにもいらない。学校の成績なんて関係ない。必要なのは、なんでも受け入れる広い心。自分と違っているからといって、それを嫌うようではダメ。違っているのは楽しいこと。偏見を捨て、素直な気持ちになってほしい。
(黒田龍之介、『もっとにぎやかな外国語の世界』、白水Uブックス、2014年、11頁)

フロベールは何ごとも意味づけないという原理をもって事実に対します。ということは、その趣味や、教養や、階級的偏見がつくるもろもろのコムプレックスをもって、事実に対するということです。彼のコムプレックスが決定する態度は、受動的ですが、彼は事実に対して、受動的であることと客観的であることとを、混同していました。「客観描写」というわが国にも流行して多くの信者をつくった神話は、その混同から生まれたものです。
加藤周一、『文学とは何か』(1971)、角川ソフィア文庫、2014年、105頁)

 十五年間ずっと、僕はフローベールが嫌いだった。というのも、彼こそがある種のフランス文学の元凶のように思っていたから。壮大さや奇抜さに欠けた文学、徹底的に平凡なものだけからなる絵柄に自足し、どうしょうもなく退屈なリアリズムにうっとりと沈み、プチブル的な世界のなかで無上の喜びを見出す文学。それなのに『サランボー』を読んだとたん、いきなり僕の好きな作品上位十位のリストに入ってしまった。
(ローラン・ビネ、『HHhH プラハ、1942年』、高橋啓訳、東京創元社、2013年、217頁)

 いまモーパッサンの<ピエールとジャン>を読んでいる。まったく美しい――君は序文をよんだかい、芸術家が小説のなかで自然をより美しく、より単純に、優しくするために誇張して書く権利があると説いている。そしておそらくフロベールの次の言葉『才能は長い努力の賜物であり』、独創性は強い意志と鋭い観察によって齎らされる、という意味のことを敷衍したかったのだろう。
(『ゴッホの手紙(中)テオドル宛』、硲伊之助訳、岩波文庫、1961年(2013年第53刷)、38頁)

女の一生』で有名なモーパッサンは、フランス文学史上「初の」スポーツ作家、つまり自らスポーツを実践し、なおかつそれを小説に描いた作家として記憶される。
(略)
 日本文学で、モーパッサンと同じような位置を占めるのが石原慎太郎である。
 石原慎太郎が『太陽の季節』でデビューしたとき、文壇や読者がショックを感じたのは、ボクシング、ヨットといったスポーツも文学の対象になりえるのだという事実だった。スポーツは文学者とは絶対に相いれない要素と思われていたのである。この点、石原慎太郎は日本のモーパッサンといえた。ちなみに『太陽の季節』で主人公が操るヨットも「ベラミ号」と命名されていた。
鹿島茂、『フランス歳時記 生活風景12か月』、中公新書、2002年(2008年3版)、95-96頁)

 あるいは私を非難する人もあるかも知れない。たとえば、ゾラ、ユイスマン、プルードン、トエプェールといった何人かの名前を除いたといって。私はしかし、次のような理由のためにゾラを省いた。まぎれもなく彼は一八六六年にさかんにマネを弁護はしたが、しかしその絵を認めていたからそうしたというより、むしろ芸術家マネのなかに一個のレアリスト、一種の画家ゾラを見ていたからなのだ。その後(略)彼が印象主義者たちによって――彼によれば印象主義者は≪不完全な、不合理な、大袈裟な、無能な性格を暴露している≫ことになるが――どんなに裏切られたかを公然とぶちまけている。ヴォラールによって伝えられる話は信用しないにしても、真実彼が絵画にふさわしい鑑識力も嗜好ももっていなかったことは確かである。その小説「制作」(略)は、彼が画家たちと面識もあって、その上しきりに交際していたにもかかわらず、その画家たちの仕事の方法について全く誤った考えをいだいていたことを立証している。
(フランソワ・フォスカ、『文学者と美術批評 ディドロからヴァレリーへ』、大島清次訳、美術出版社、1962年、7-8頁)

 本書は、この≪鮭≫を描いた高橋由一という画家の物語である。画家の伝記というと、芸術のためにすべてをなげうった人生や、天才画家の愛と孤独などが強調されたものが多いが、残念ながら本書には芸術も愛も孤独もない。江戸から明治へ、近世から近代へと社会と価値観が大きく変動する過酷な時代を生き抜いた、ひとりのサムライの物語だと、はじめに申し述べておこう。
(古田亮、『高橋由一 ――日本洋画の父』、中公新書、2012年、iii頁)

茶道は、日常生活のむさくるしい諸事実の中にある美を崇拝することを根底とする儀式である。それは純粋と調和を、人が互いに思い遣りを抱くことの不思議さを、社会秩序のロマンティシズムを、諄々と心に刻みつける。それは本質的に不完全なものの崇拝であり、われわれが知っている人生というこの不可能なものの中に、何か可能なものをなし遂げようとする繊細な企てである。
岡倉天心、『茶の本』、桶谷秀昭訳、講談社学術文庫、1994年(2014年第41刷)、13頁)
Teaism is a cult founded on the adoration of the beautiful among the sordid facts of everyday existence. It inculcates purity and harmony, the mystery of mutual charity, the romanticism of the social order. It is essentially a worship of the Imperfect, as it is a tender attempt to accomplish something possible in this impossible thing we know as life. (p. 219.)

さて、人はどのようにして作家になるかという問いに、わたしはこう答える。自分の書いているものへの信頼をけっして失うことなく、辛抱強く、執拗に書き続けることによってである、と。
アゴタ・クリストフ、『文盲 アゴタ・クリストフ自伝』、堀茂樹訳、白水Uブックス、2014年、83頁)