えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『繻子の靴 四日間のスペイン芝居』私的感想

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拝啓 不知火検校さま

 先日(12月11日(日))、京都芸術劇場春秋座で観劇したポール・クローデル作『繻子の靴 四日間のスペイン芝居』(翻訳・構成・演出:渡邊守章)について、詳しく感想を述べよとのご指示を頂戴いたしました。その勤めを果たすべく、ここに一筆したためます。もっとも、これは決して劇評ではないことをはじめにお断りしておきたいと思います。

 ご存知のように、今回の上演は『繻子の靴』全曲版の日本初演でした。午前11時開演、3回の休憩(各30分)を挟んで、終演は午後8時半でしたから、実質8時間の上演です。その事実だけでも、これは、すでに事件と呼んでいいような出来事でしょう。

 はじめに述べたいのは、役者の演技が素晴らしかったということです。剣幸は、凛々しくも情熱的なヒロインのドニャ・プルエーズを見事に演じ切り、ドン・ロドリッグ役の石井英明は、力強くも端正に主人公の役柄を立ち上げてみせました。そして吉見一豊は、屈折した性格で粘着質なドン・カミーユの役どころに、熱い演技で説得力を持たせることに成功していたと言えるでしょう。その他の俳優たちも含めて、クローデルの、というよりもむしろ翻訳者渡邊守章による、「最大限に抽象度の高い口語日本語」とでも呼ぶべき独自の言語を、具体的な身体に受肉化させるという営みにおいて、これ以上はないという優れた実例を示してみせた、そのように言ってしまいたいと思います。

 次に、舞台および演出についてお話します。舞台は前中後の3つに区切られていました。一番奥は高さ5メートルほどの舞台、中景は高さ2メートルほどの舞台、そして前面がもう一つ舞台となっており、それぞれの舞台は白壁でできており、三つの白い壁面に、プロジクション・マッピングによって高谷史郎による映像が投影されます。演出家によれば、この舞台装置のヒントになったのは「クローデルがブラジルで観て感動したニジンスキーのために書いたバレエ台本『男と欲望』の「三層舞台」の仕掛け」だそうです。上下を利用した立体的な人物配置は斬新で、長時間かつ極めて動きの少ないこの台詞劇の舞台に、単調さを回避しつつ多様性を導入し、印象的な視覚的効果を随所で生み出していました。プロジェクション・マッピングによっては、モノクロの波(または揺れる穂)、世界地図、移動する大きな満月、海面、星空などが次々に描かれました。その洗練されたスタイルについては、これまでの「マラルメ・プロジェクト」において不知火さまもご存知のことかと思いますが、今回は舞台のほぼ全面が画面となっていましたので、その存在感は一層大きなものでしたし、テクノロジーの進歩にも感嘆した次第です。なお、音楽(原摩利彦)は概して控えめなものだった印象ですが、藤田六郎兵衛による笛の生演奏は、能や狂言にも詳しい演出家ならではのもので、舞台に緊張感をもたらしていました。

 演者が「譜面台」を前にテクストを読む形で、2008年に春秋座でも行われた「オラトリオ版」は、不知火さまもご覧になったと思います。今回は、この「譜面台を前に俳優が朗読する」局面と、「舞台上で実際に演技する」局面とが組み合わさる形で、全体が上演されました。個人的な印象としては「オラトリオ版」の部分が意外なほどに多く、全体の4~5割ほどに及んだのではないかと思います。これは台詞の内容に観客の意識を集中させるため、また(もしかしたら)役者の負担軽減のための選択でもあったでしょうか。もともと極端なまでに動きのない台詞劇ですから、「オラトリオ」形式の箇所と、それ以外の箇所に格別に大きな差が生まれるわけではないとは言えます。しかしながら、役者が脚本を「読む」姿を観客に提示する以上、そこでは常に一種の異化効果が発生することになります。とりわけ「一日目」の終幕、この劇でもっともアクションのある場もまた「オラトリオ」形式で演じられたのですが、ドン・バルタザールの死の場面などでも、観る者に伝わってきたのは、悲壮というよりも滑稽な感じでした。それがどこまで演出家の意図したところだったのか、多少疑問の残るところではありました。

 理想的にはワーグナーの『ニーベルングの指輪』のように、四日間かけて上演できればよいのでしょうが、それは今の日本においては望むべくもないことでしょう。全8時間の上演は観ているだけの者にとってもさすがに疲れるものでしたが、しかし四幕それぞれの上演の間は決してだれるようなことはなく、むしろ長さを感じさせないほどに緊張感が保たれていたと思います。いや、私も1、2度は居眠りしたことを正直に白状しておきますが、それでも、一日ですべてを上演してしまうという試みが、決して無謀なものではなかったことは確かなのです。いや、それを可能としたものこそが、演出家と俳優の技能の賜物ということでしょう。惜しむらくは、幕が進むにしたがって、(私の中で)それぞれの場面の印象が混ざり合って段々と判別がつかなくなっていったことですが、こればかりは致し方ないというものでしょうか。

 しかしそれにしても、クローデルの『繻子の靴』はずいぶんと難解ですね。とりわけ「三日目」のドニャ・プルエーズと守護天使の対話、同じプルエーズとドン・カミーユの神学的議論など、正直に申し上げれば何が言われているのかよく分からない箇所が少なくありませんでした。ひたすらに観念的な議論、本来的な意味での対話が成立しているのかどうかもよく分からない対話の数々。「地上で禁じられた恋が天上では叶うはず」というのが劇の中心的主題だとすれば(乱暴な要約ではありますが)、それがいったいどうしてこれほどまでの饒舌を必要とするのでしょうか。さらに言うなら、より一層の問題は「四日目」の存在にあるでしょう。本題が終わった後のこの「奇想天外の道化芝居」とやらは何なのか。「書かれてから四半世紀後の「前衛劇」である「不条理劇」の、驚くべき「先取り」」として、演出家はこの幕の意義を最大限に評価するのですが、それが実際の舞台において果たしてその効果を十分にあげることができるのかどうか。この点は、今回の上演によっても、疑問の残るものとなったように思います。

 正直に申し上げるなら、私はこのクローデルの大作をどのように評価していいのかよく分かっているとは言えません。だから結局のところ、私には今回の上演を批評する資格はないでしょう。最初にこれは劇評ではないと申しあげておいたのは、それ故のことなのです。

 しかしながら、私の本心は別のところにあるのでもあります。つまり、今回のこの歴史的上演については、賢しらな批評はそもそも不要ではないかと思うのです。「クローデルの亡くなった年に『繻子の靴』についての卒業論文を書き、更に二十二年後に博士論文を纏めた」演出家の、文字通り「舞台の仕事としてのひとつの総括」として、今回の上演が実現したわけです。そのことを思えば、戦後のフランス演劇の日本移入における最大の貢献者の長年の功績を前に、私などにいったい何が言えるでしょう。

 あの日、8時間にわたる俳優の渾身の演技、そこに向けられた観客の忍耐と集中力とはすべて、希代の演出家に捧げられたいわば供物だったのであり、夢幻のように過ぎた舞台の時間は、かけがえのない祝祭の時に他ならなかったのではないでしょうか。カーテンコールに舞台に登場し、俳優たちに囲まれた演出家に、もちろん観客は賞讃の拍手を惜しみませんでした。その時の演出家の胸の内がどのようなものであったのか、私にはとても想像することさえできませんが、それは私にとっても、その場に居合わすことができたことを幸運に思える稀有な瞬間でした。その場に不知火さまがおられなかったことを特に残念に思う次第です。

 以上、拙いものですが、ご指令にお応えすべく努めました。ご笑覧いただけましたなら幸い至極です。いずれ、渡邊守章という演劇人について、改めて不知火さまのご意見を伺える機会を楽しみにしております。

 それではこれで。年の瀬も迫ってまいりましたが、どうぞお体お大事に、つつがなく良いお年をお迎えください。敬具。