12月17日(土)、関西マラルメ研究会@京都大学。『イジチュール』草稿。" Il quitte la chambre et se perd dans les escaliers, (au lieu de descendre à cheval sur la rampe)" 途中まで。
初期マラルメの文章は後期のような構文的ねじれはさほど見られないのだが、しかしこのテクストは一段落二十数行が一文で構成されていて、しばし構造が不明(草稿なので仕方ないところではあるが)な上に、内容の抽象度がこれでもかといわんばかりに高くて、一人で読んでいる限りでは本当に何も理解できないことには、ほとんど感動するばかり。
なんにせよ、時を告げる時計の音=心臓の鼓動=扉の開閉音=鳥の羽音の意味的推移と、登場人物としての「夜」と「影」。
とにかく、こんなテクストを読んでいると「言語とは何か」という根源的な問いを突きつけられるような気にはなるのだが、しかしいったい答はどこにあるというのだろうか。
さて、実はミレーヌ・ファルメールが好きだと、ここに公言してしまおう。フランスで「好きな芸能人」の類のアンケートにおいては必ず上位に名の挙がる Mylène Farmer。Monkey Me (2013) や Interstellaires (2015)といった近年のアルバムでは、歌詞の言葉がとても少なく、内容の抽象度がずいぶん高い。硬質な感じ。
「影で」は『モンキー・ミー』に収録の一曲。
À l’ombre
Risquer de n’être personne
L’on se cache et l’on se cogne
À l’ombre
On se coupe de soi-même
On s’arrache ainsi au ciel
À l’ombre
Et sentir que l’on se lâche
Que rien ni personne ne sache
Quand la nuit tombe
Las de cette vie trop brève
On devient l’ombre de soi-même
("À l’ombre")
影で
誰でもないという危険を冒す
人は隠れ、殴りあう
影で
人は自分自身から切断され
そうして天から離れる
影で
感じる 互いに別れるのを
何も誰も知らないと
いつ夜は来るのか
短すぎるこの人生に疲れて
人は自分の影となる
(「影で」)
本日の脈略のない引用はウエルベックの『地図と領土』。一人の前衛芸術家の生涯と作品を通して「現代社会を描く」という意図の明確な本作は、かなり19世紀的なロマンの様相を有しているので、19世紀小説に慣れ親しんだ者にはたいへん馴染みやすく、「バルザック的」と評したくもなる小説である。もちろん、それだけでは古臭いととられかねないから、作中に登場する作家ウエルベックがものすごい惨殺死体となって発見されたりするのであるが、そこのところはまあご愛敬と受け取っておけばいいのではないだろうか。
アーティストであるとは、彼にとっては何よりも、〈従順な〉何者かであるということだった。それは神秘的な、予見できない、それゆえいかなる宗教的信仰も抜きで〈直観〉としか呼びようのない種類のメッセージに対する従順さなのだが、とはいえ、そのメッセージは有無をいわさぬ、絶対的なやり方で命令を下し、それを逃れる術をまったく与えない――さもなければ、完全さの概念も自尊心も、そっくり失われてしまうのである。
(ミシェル・ウエルベック『地図と領土』、野﨑歓訳、ちくま文庫、2015年、109頁)