昨日はうっかり「冷たいココはいかが!」を飛ばしてしまった。
1878年発表のこの作品は、これも習作の色が濃いのであるが、さて、この話はいったい何なのだろうか。
語り手のおじのオリヴィエは生涯の節目となる出来事の起こる時に、必ず道を行くココ売り(ココは当時の清涼飲料水)に出会ったという。誕生、衝突事故、初の狩猟、妻となる女性との出会い、知事就任のかかった重要な面談、そして臨終の場。
人生において何が偶然で、何が必然であるかは我々にとって永遠に解きがたい謎である。ときに偶然が大きな意味を持つということは、後のモーパッサンの作品の一つのモチーフであるだろうが、しかし、ここで問題となっているのはそういうことでもないようである。そもそも、肝心の語り手のおじの言葉がよく分からない。
というのも、わたしは事物や生き物のおよぼす神秘的な影響などは信じていないが、純然たる偶然というものには信をおいているからだ。彗星がわれわれの天空を訪れているあいだ、偶然によって、さまざまな重大事件がひきおこされることは確かだ。往々にしてそうした事件がうるう年に発生していること、しばしば大きな不幸が金曜日に起きたり、数字の十三となんらかの符号を見せること、特定の人たちと会うときまって同じような出来事が再発することなどもね。そうしたことがあるから、迷信が生まれるのではないだろうか。迷信というものは、その原因を偶然の符号のうちに見るだけで、それ以上追及しようとはしない、不十分で、表面的な観察から生まれるのだ。
モーパッサンはここで無学な人の妄信をからかっている(つもり)なのかもしれない。だがそれなら、現に六度にわたるココ売りの出現はいったい何を意味するのだろうか。二度や三度ならず六度となれば、そこにはやはり因果関係があるというべきであろうが、しかし人生がココ売りと宿命的に結ばれているとは、つまり何事なのか。
モーパッサンが言いたいのは、無意味な宿命というものがあるということなのか? あるいは宿命とはそもそも不条理なものなのか?
もしかしたら、モーパッサンの脳裏にはフロベール『ボヴァリー夫人』の盲人や、トゥルゲーネフの「三つの出会い」の印象が残っていて、「重なる偶然」という主題の着想に至ったのかもしれない。そしてそれをむしろ喜劇的に扱うことを面白いと感じたのかもしれない。・・・だがしかし、もう一つすっきりしない話ではないだろうか。
ところで、モーパッサンは二十代の初めにホフマンやポーを読んだに違いなく、彼の短編小説執筆は、怪奇趣味に実体験をまじえた「剥製の手」や「水の上」から始まったのだった。この「ココ売り」もその延長にあることは確かだろう。ところが、「脂肪の塊」の成功の後、レアリスムに根を下ろしたモーパッサンの短編作品群においては、この種の怪奇趣味はいったんは表面から姿を消す。が、しばらくするとそれがいわば「実証主義、合理主義を経由する形で」回帰してくるとことになるのである(その先に「オルラ」が生まれるだろう)。
そのように考えるなら、70年代にモーパッサンが「ココ売り」のような作品も書いていたという事実は、彼の作家としての経歴を通覧するにあたっては何がしかの意味のあるものである、ということは確かに言えるだろう。
例によって話はヴァリエテへ移る。
実のところ、私のヴァリエテ・フランセーズに関する知識は、カストール爺こと向風三郎氏に負うこと甚だ大であり、クリスチーヌ&ザ・クイーンズも、ディオニゾスも、そしてFeu ! Chatterton フー!チャタートンも(さらにはストロマエも、クロ・ペルガグも、アメリー・レ・クレヨンも、バビックスも)、最初に教えてもらったのは、
でありました。唐突ながらこの場で心よりの感謝を申し上げておきたい。
さて、半ば時代錯誤的に暑苦しい、もとい情熱的なこのグループの2015年のデビュー・アルバムが Ici le jour (a tout ensevli) 。収録曲はどれもインパクトがあって粒ぞろいだけれども、その歌詞はけっこう難解で、私には理解しきれないところが色々ある(のが悲しい)。そんな中で比較的分かりやすいのは「ボーイング」。ボーイング(のジャンボ・ジェット)礼賛という、別のレベルでよく分からない歌ではありますが。
Boeing, Boeing !
Et tes mouvements lents sont de majesté
Est-ce la faute de tes passagers indigestes
Si tu penches ?(Boeing)
お前のゆっくりとした動きには威厳がある
消化しにくい乗客たちのせいだろうか、
お前が傾いたとしたら?
(「ボーイング」)