えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モーパッサン「豚の市場」

「豚の市場」挿絵

まる5ケ月を経て、誓いの半分を実現にこぎつけ、モーパッサンの新発見のテクスト1編を翻訳しました。
モーパッサン 『豚の市場』
ご一読いただけましたら幸いです。
青年モーパッサンによる豚の擁護と顕彰。そして「聖アントワーヌと豚はいかにして結びつくことになったか」のお話です。出典は未詳。
豚を無理やり連れて行く時には、尻尾を手に巻きつけて後ろ向きにぐいぐい引っ張る。すると豚はぶーぶーと叫び声をあげるも成すすべなくずるずると引きずられていくらしい。これをして悲喜劇と呼んでよいものだろうか。


脈略のない引用を二つ。

 小説の精神とは複雑性の精神であり、それぞれの小説は読者に「物事はきみが思っているより複雑なのだ」と言う。これが小説の永遠の真実なのだが、この真実は問いに先立ち、問いを排除する単純で迅速な答えの喧噪の中ではだんだん聞かれなくなる。私たちの時代精神にとっては、正しいのはアンナなのかカレーニンなのかであり、知ることの困難さと真実の捉え難さを語るセルバンテスの古い知恵などは迷惑で無益に思われるのだ。
ミラン・クンデラ、『小説の技法』、西永良成訳、岩波文庫、2016年、31-32頁)

イロニー ironie だれが正しく、だれが間違っているのか? エンマ・ボヴァリーは不愉快な女性なのか? あるいは、勇敢で感動的な女性なのか? またヴェルテルはどうか? 彼は多感で高邁な青年なのか? あるいはじぶんにぞっこん惚れこんで、これみよがしに感傷を見せびらかす男性なのか? 小説を注意深く読めば読むほど、答えられなくなってくる。というのも、そもそも小説はイロニーの芸術だからだ。つまり、小説の「真実」とは隠され、明言されず、また明言できないものなのだ。(中略)イロニーはひとを苛立たせる。だがそれは、イロニーがひとを愚弄し、攻撃するからではなくて、世界を曖昧なものとして暴きだすことによって、私たちから確信を奪うからなのだ。レオナルド・シャーシャの言葉、「イロニーほど理解しがたく、解読できないものはない」。気取った文体によって小説を「晦渋」にしようとしても無駄である。いくら清澄なものだろうと、小説という言葉に値する小説はそれぞれ、小説と不可分のイロニーによって充分に晦渋なのである。
(同上、183-184頁)