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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モーパッサン「ディエップの浜辺」

モーパッサン 『ディエップの浜辺』
宿題の残り半分、モーパッサンのこれこそ新発見のテクスト、「ディエップの浜辺」の翻訳を掲載しました。
ご一読頂けましたら嬉しいです。


「豚の市場」の受けが良かったのか、雑誌の編集者からもう一本書いてみるように言われて急いで書き上げたと思しいのがこのテクストである。ディエップが話題でありながら、自身の故郷であるエトルタについて先に話してしまうところなど、いかにもぎこちないように見えなくもない。恐らくはヴァカンスを前にして観光ガイド的な文章を依頼されたのではないかと推察されるが、だとするなら、フロベールの弟子であることをあえて見せようとするかのようにブルジョア避暑客への嫌味が散見されるのは、記事本来の目的と齟齬を来たしているのではないだろうか。そのあたりに、この記事の「次」がなかった理由が窺われるような気がする。
ミュゼ・ユニヴェルセル』への寄稿が新たに分かったことによって、1870年代のモーパッサンが自分の原稿を掲載してもらえる機会を求めて相当に画策・運動していたという事実が、また少し明らかになったと言えるだろう。この二つの記事はとりわけ、これまで発表の分かっていた詩作や文学評論のような力の入ったものとは違い、小遣い稼ぎ的な性格の強い仕事という面を持っていることが興味深い。モーパッサンは果たしてこの二つの記事の件をフロベールに告げていたのだろうか?
 一方で、この時期のモーパッサンが肩ひじを張らないクロニックの執筆にすでに手を染めていたという事実は、『脂肪の塊』の成功直後に彼が時評文執筆に手をつける、その準備が70年代に既にあったということを示してもいる。結局、70年代にモーパッサンは詩・小説(短編・長編)・戯曲にクロニックも加えたあらゆるジャンルを試みていたわけであり、その苦労の甲斐あって、作家の持てる才能は80年以降に一気に花開くことになるのだと言えるだろう。


脈絡のない引用。若い頃は「読書の勧め」の類は大嫌いだったものなのだけれど、しかしいい年になって果たして自分は堂々と読書を勧める言葉を持っているのだろうかと自問すると、いささか心もとないようでもある。
言葉は鍛えなければ育つまい。

古典を読むとは、遠い過去の日本文学と遠い外国の文学の翻訳を愉しむことにほかならない。その愉しみの核心には、古今東西に視野の拡ってゆくということがある。『ギルガメッシュ』から『史記』まで、カーリダーサからガルシア・マルケスまで。それは好奇心の満足でもあるが、大きな距離を超える精神の自由の自覚でもある。また古典を読めば私自身の条件がはっきり見えて来るということもある。何が特殊な、何が普遍的な条件であるか。アンティゴーネは刑場に向かうとき太陽に別れを告げる(ソフォクレス、三幕四場)。おそらく私は刑場に向かわぬだろうが、死に臨んで別れを告げるのは、その場の青空と陽光に対してであるかもしれない。あらゆる特殊な条件のちがいにもかかわらず、古典が私に訴えるのは、すべてのちがいを越えて人間に普遍的な面を啓示するからである。逆に私が古典へ向かうのは、私のなかの普遍性がそこで確認されるからであろう。
加藤周一「翻訳古典文学始末」、『読書のすすめ』、岩波文庫、1997年(2010年第14刷)、86-87頁)

「音楽であれ、恋愛であれ、人間の探求であれ、彼はつねに彼自身感じることを、自分の眼で正確に知るという点に帰ってくる。他人は考慮されない。他人は審判者ではない。」(アラン『スタンダール』)
 わずかこれだけの言葉によってわたしはどれだけ勇気づけられ、自分自身をとり戻すことができたかしれなかった。書物こそ生のよき指標というのは本当のことだ。
 わたしはだからいま電車の中なぞで、中学生や高校生ばかりか大学生や若い社会人までが、粗悪な紙に印刷されたマンガ雑誌に読み耽っているのを見ると、読んでる人が気の毒になるのである。知的咀嚼能力に富む若い時こそ貪婪に人類の遺産と取りくむべき好機なのに、いまそんなやっこいものばかり食べていたんでは物を噛む力は身につかなかろうぜ、と言ってやりたくなる。君がみんなのするとおりに自分もするという並の人生で満足するなら、それでもよかろう。しかしそれではあまりにつまらない、自分は自分だけの独自な人生を生きたいと願っているなら、人類が昔からそれで己れを養ってきた古典を読め、と。
中野孝次「隠れ読みの悦楽から」、同上、204-205頁)