えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『ゴリオ爺さん』覚え書き

『ゴリオ爺さん』表紙

「それじゃあ」と、ウージェーヌは、うんざりしたといった顔つきで言った、「あなたたちのパリってのは泥沼じゃないですか」
「しかもへんてこな泥沼でね」と、ヴォートランは言葉をついだ。「馬車に乗ってその泥にまみれる連中は紳士で、徒歩でその泥にまみれる人間は悪人ということになっている。運悪く何かつまらぬものをくすねたりしたら、君は珍しい生き物みたいに、裁判所前の広場でさらしものになるだろう。しかし百万フラン盗んでみたまえ、君はどこのサロンでも人格者として注目される。みんなで憲兵隊や裁判所に三千万フラン払って、そんなモラルを維持させてるってわけだ。結構な話さ」
バルザック、『ゴリオ爺さん』、平岡篤頼訳、新潮文庫、2015年41刷、81-82頁)

 バルザックは、パリの上流社交界が虚栄と欺瞞に満ち溢れる腐敗した世界であるということをはっきりと述べるのだが、しかしその中に敢然と突き進んで出世を目指すラステニャックはやはり英雄でありえるし、その堕落した世界にあっても女性たちは時に真に美しく輝く。

 女性をあれほど偉大に見せる美しい感情と、現代の社会構造が否応なしに彼女たちに犯させる過ちとの、こうした混合は、ウージェーヌを動転させていた。
(同前、257頁)

夫人にとっては、それは計算だったのだろうか。いや、そうではない。女というのは、たとえどんなに極端な嘘をついているときでも、常に真実なのである。なぜならそんなときでも彼女たちは、何らかの自然な感情に動かされているからである。
(同前、273頁)

パリの女はしばしば見せかけばかりで、むやみと虚栄心が強く、自分勝手で、コケットで、冷淡だが、しかしほんとに恋をするとなると、その情熱のために、よその女以上に多くの感情を犠牲にするということも確かなのである。彼女たちのありとあらゆる卑小さが偉大さを生み、崇高な女となる。
(同前、432頁)

 清濁が入り混じって分かち難いアマルガムを描いてみせる時のバルザックは実に見事なものがあるが、なんかんずくはゴリオ爺さんであって、娘の溺愛ぶりが尋常のレベルを超えて身を苛む情念にまで達した時、滑稽さと偉大さは紙一重、コインの表裏さながらであり、愚鈍さと崇高さとがぴたりと重なり合う。一介のみすぼらしい老人が「父性のキリスト」と譬えられるのは、いかにもロマン主義時代の大仰なレトリックには違いないが、しかし激しい情念の燃え上がる様をこれでもかと描き上げることによってその言葉に説得力を持たせることができるところにこそ、この作家の文字通りの「偉大さ」がある。

 それはそうと、『ゴリオ爺さん』において何より素晴らしいのはその構成である。骨格となるラスティニャックの成長物語に、ゴリオとその二人の娘の物語がさながら対位法のごとくに不可分に絡まり合い、そこにヴォートランの反抗哲学の顛末や、ボーセアン子爵夫人の美しい敗北の脇筋が副旋律として並走し、それらが見事に合流する第三部、そしてゴリオの死で迎える絶頂と、結末の先に広く開かれた展望に至るまで、実に間然する所がない。
 すべてのエピソードが青年の社会勉強としての意義を持ち、最後に彼は「青年としての最後の涙を埋め」て、パリの町との勝負に向かって行く。言い換えればそれは「汚れ」を身に引き受ける覚悟であり、それまでこだわってきた美徳とも決別するということであるかもしれないのだが、それが「お人よしとぺてん師の集まり」(139頁)の都会にあっては、成功する唯一の道だということなのである。青春との決別には苦味が伴うものであろう。

 それにしてもこの物語に出てくる四人の貴婦人、ボーセアン子爵夫人、ランジェ公爵夫人、アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人、デルフィーヌ・ド・ニュシンゲン男爵夫人は四人とも愛人を持っていて、しかもその愛人に捨てられるという状況にある。この小説を読んでいるとまるで上流社交界の貴婦人は恋愛しかすることがないがゆえにそれに全身全霊をかけて打ち込むしかなく、結果的に彼女たちは純度の高い恋愛至上主義を奉じているかに見える。これはある程度までは当時の社会の映し絵なのであろうが、やはり究極的にはここに描かれている上流社交界なるものが著者の想像の賜物だということなのではないだろうか。

 ゴリオの二人の娘は五十万以上の持参金をもって結婚したのだが、愛人に相当な金をつぎ込んだ結果として夫との関係が険悪になり、それがために父親の死に目に会えないばかりか、葬式に至るまで顔を見せることがない。裕福な貴婦人でありながら財布には70フランしか入っていない(490頁)ような事態に立ち至るのは、もちろん当時の結婚契約および財産制度が、夫の側に圧倒的に有利に出来上がっていたからなのであろう。
 しかし冷静に考えると、手も足もでなくなっているデルフィーヌのところへ出かけて行っても、この後ラスティニャックが彼女に金銭的に助けられることは望み難いのではないのだろうか。そこのところは果たしてどうなのだろうか。