えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

愛の根の深さ

『マイ・マザー』 
 学会の行き帰りにピエール・ルメートルの『傷だらけのカミーユ』を読む。いやはや暗いにもほどがあるのではないか、ピエール・ルメートル。ヴェルーヴェンが可哀相すぎる。思えば『その女アレックス』には、最後のところでヒロインに対するぎりぎりの同情のようなものが見られたからこそ、稀に見る佳作となっていたのではなかっただろうか。


 本日グザヴィエ・ドランの『マイ・マザー』を鑑賞。冒頭にモーパッサンの引用が掲げられていておやと思う。

On aime sa mère presque sans le savoir, et on ne prend conscience de toute la profondeur des racines de cet amour qu'au moment de la séparation dernière. - GUY DE MAUPASSANT
母親への愛は無意識であり 親離れの時 初めてその根の深さを知る モーパッサン

へー。
 出典は『死の如く強し』であった。第二部第一章、アニーの手紙の文面より。言葉に変更が加えられているので原文を参照しておこう。

On aime sa mère presque sans le savoir, sans le sentir, car cela est naturel comme de vivre ; et on ne s'aperçoit de toute la profondeur des racines de cet amour qu'au moment de la séparation dernière.
ひとはほとんど自分では知らずに、気がつかずに母親を愛しているものです。それは生きているのと同じくらい自然なことだからです。この愛の根の深さには最後の訣別の時でなければ気がつきません。
モーパッサン『死の如く強し』杉捷夫訳、岩波文庫、1950年(1992年第18刷)、164頁)

 それはそうと思春期の面倒な葛藤をこれでもかと執拗かつ丹念に描く、19歳にしてこの冷静さとこの胆力とそしてどこまでも冴えるこのセンス、まこと神童とは恐るべきものだ。できることなら(できないが)十代で観たかった。観たら救われていただろうか?


岩波文庫別冊12『世界文学のすすめ』を読んで、頁を折ったのは以下の三ヶ所であった。

ただ『ヴェニスに死す』のみが、堅実なリアリズム小説の書き方で進められながら、その枠を越えて永遠と神秘を夢みさせるのに成功している。この成功を、あえて奇蹟と呼びたい気持がある。
(川村二郎「永遠と神秘」、『世界文学のすすめ』、岩波文庫、1997年、204頁)

やはりこの『トリスタン・イズー物語』には、私共に問い掛け、問題をそれとなく出して考えさせるものがあるような気がしてならない。向うから問い掛けるのか、それとも私達読者が読み進みながら問題を拾い集めるのか、それはどちらでもいい。またそれをわざわざ公表する必要もない。それによって人間として美しく富まされて行くのなら、それでいいと思う。
串田孫一「幸福の虚無」、同上、219-220頁)

 ランボオは彼の言葉に触れる人に、絶えず必ず――新しい私を発見せよ、新しい私として行動せよ、と駆り立てる。それがランボオの絶対的な力だ。
(秋山駿「新しい私を発見せよ、という」、同上、262頁)

それにしても本との出会いは一期一会だとしみじみ思う。そして絶対的だと信じられるような幸運な出会いは若い時にしか訪れないのだろうということを、今の私は諦めの気持ちとともに思わずにはいられない。年を取るとは嘆かわしいことだと呟くのも、凡庸なことではあるけれど。