「雨傘」は1884年の作。かつて岩波文庫に杉捷夫訳で入っていたので、日本でもよく知られた短編の一つであろう。吝嗇はノルマンディー人の特徴の一つとして農民を扱った作品に見られるテーマであるが、ここではそれが、都会に住む小市民の心性として描かれている。
オレイユ夫人はしまり屋だった。わずかな金のありがたみをよく知っていたし、金をふやす秘訣もあれこれ心得ていた。女中がなかなか買い物の金をちょろまかせなかったのはむろんのこと、夫のオレイユ氏にしても、小遣いをもらうのがひと苦労だった。とはいえ、暮らし向きが逼迫しているわけではないし、子どもがいるわけではもなかった。にもかかわらず、手もとから現金が出ていくのを見るのが、オレイユ夫人にはたまらなくつらいのだ。まるで胸が引き裂かれるような思いがした。大きな出費があったりすると、それがやむを得ない物入りであるにせよ、その晩はおちおち眠ることができない始末だった。
モーパッサンはしばしば人間の性癖を生理的な次元で語ってみせるが、それによって、その性質がいかにも抑えがたく不可避のものであることを効果的に印象づける。「十八フランを惜しむ気持ちが生傷のようにうずいた」(173頁)というような表現も同様であろう。オレイユ夫人が我々に見せるのは、確かに卑小で笑うべき欲望ではあるのだが、そうは言っても、それが彼女の生に根源的に結びついていることを、我々は疑うことはきない。この作品は決して内容の重たくない笑劇的なものであるが、その滑稽さの裏には一抹の悲哀のようなものが隠れていないだろうか。
それはともかく、小心なオレイユ夫人がなんとか雨傘の修理代を引き出そうと保険会社に出かけてゆくと、そこでは男たちが数十万フランの金額をやりとりしているという場面はしみじみおかしい。確かにこの短編には、最良のモーパッサンが認められるだろう。
日本ではイエイエ時代のみが知られているフランス・ギャルは、フランスではミッシェル・ベルジェと一緒になってからこそが重視されている云々。1987年『ババカール』所収の一曲、"Évidemment"「もちろん」。ダニエル・バラヴォワーヌ追悼の思いを込めて作られた曲という。
Évidemment
Évidemment
On danse encore
Sur les accords
Qu'on aimait tant
Évidemment
Évidemment
On rit encore
Pour les bêtises
Comme des enfants
Mais pas comme avant
("Évidemment")もちろんもちろんまだ踊るわあんなに好きだった和音に乗せてもちろんもちろんまだ笑うわおかしなことを子どもたちのようにでも以前のようにではなく(「もちろん」)
今日も脈略のない引用を一つ。
都会にいるときに不快を減じるためにできるだけ切り縮めようとするのとはちょうど逆に、自然の中にいるとき、私たちは空間的現象を時間の流れの中で賞味することからできる限りの愉悦を引き出そうとする。
私たちが雲を観て飽きることがないのは、それが風に流れて、形を変えて、一瞬も同じものにとどまらないにもかかわらず、それが「今まで作っていた形」と「これから作る形」の間に律動があり、旋律があり、諧調があり、秩序があることを感知するからである。雲を観る人間は、空間的現象としての雲の動きを一種の「音楽」として、つまり時間的な表象形式の中に読んでいるのである。
海の波をみつめるのも、沈む夕日をみつめるのも、嵐に揺れる竹のしなりをみつめるのも、雪が降り積むのをみつめるのも、すべてはそこにある種の「音楽」を私たちが聴き取るからである。
その「音楽」は時間の中を生きる術を知っている人間にしか聞こえない。
(内田樹『態度が悪くてすみません ――内なる「他者」との出会い』、角川oneテーマ21、2006年、29-30頁)