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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

「ロンドリ姉妹」、あるいは南国の女/アブダル・マリック「ダニエル・ダルク」

モーパッサン シャンソン・ヴァリエテ

 「解説」で触れられているように、モーパッサンには長編(新聞連載の後に単行本)と短編(新聞一回読み切り)の間に、中間の長さの作品が複数存在している。その多くは短編集編纂の際に核となる作品(そのタイトルが作品集のタイトルになる)を書き下ろしたものである。「ロンドリ姉妹」は1884年に『エコー・ド・パリ』のフィユトンにまず連載されているが、やはりそのような中編の一つである。

 同じく「解説」に記されているが、かつてアルマン・ラヌーは中編こそ傑作ぞろいだと賞讃した。実際にそこでは作者に自由に筆を動かす余裕があった分、短編よりも人物造形に立体感があり、また随所に挟まれる情景描写は、作品を「生きた」ものにする上で不可欠なものであり、モーパッサン文学の肝とも言える部分になっている。「ロンドリ姉妹」において、南仏を通ってジェノヴァまで行く列車から眺めるオレンジやレモンの森の光景、夜に飛び交う蛍の姿などはその好例であろう。あるいは旅で出会ったイタリア人女性フランチェスカの身体描写を加えてもいいかもしれない。

 この世に、眠っている女ほど美しいものがあるだろうか? 身体の輪郭はどこもかしこもやわらかく、曲線という曲線が目を惹きつけ、ふっくらと盛りあがった部分はことごとく心をかき乱す。女の身体はベッドに横たわるためにできているのではないかと思えるほどだ。波をえがく曲線がわき腹のあたりでくぼみ、腰の近くで盛りあがったかと思うと、脚に向かって優しくなだらかにくだり、じつに艶めかしく足の先までつづいている。女性の身体の線のえも言われぬ魅力を描きつくそうと思ったら、寝台のシーツの上に身を横たえている姿にかぎるな。

(「ロンドリ姉妹」、『脂肪の塊/ロンドリ姉妹』、太田浩一訳、光文社古典新訳文庫、2016年、244頁)

  外界の自然が限りなく官能的に描かれる一方で、人間の身体は自然(動物)に近接する。かくして南国の地は全体として愛の息吹の温床となり、北からの旅人を虜にするのだと言えるだろうか。

 それはそうとしても、正直に言うと、私はこの作品をさほど評価する気にはならない。南国で官能的な美女と後腐れのないアヴァンチュールを楽しむ男の自慢話。いや、モーパッサンもそういう話を書いているということに文句をつける必要はべつにない。ただ、この種の批評性に乏しい作品には、私はあまり関心が向かないというだけのことだ。「異国の女」に対するエキゾチックなファンタスムは、それ自体、当時の新聞の(男性)読者にとっては好個の話題であったに違いない。そうしたものは、今の日本の読者にはどのように受け止められるだろうか。

 

 アブダル・マリックの2015年のアルバム Scarifications(これは民族学用語の「身体瘢痕」のことだと思われる)は、ラップとエレクトロミュージックの融合として、その筋では高く評価されているようだけれど、その分(私のような)一般の聴衆はとまどわされたのではないだろうか。「ダニエル・ダルク」は、文字通り元タクシー・ガールの歌手に捧げたオマージュ。冒頭(および最後)は彼の "La Taille de mon âme" 「俺の魂の大きさ」の歌詞の借用。

www.youtube.com

La vie dure un hennissement d'un cheval galopant

C'est littéralement qu'il faut le prendre, on ne vit pas suffisamment

Précisément, désespérément, je suis le roi du rock

Perfecto tout de noir vêtu

Blanches sont mes vertus

("Daniel Darc")

 

厳しい人生 ギャロップする馬のいななき

それを文字通りに取るべきだ 人は十分に生きていない

正確に、絶望的に、俺はロックの王

革ジャン 真っ黒な身なりでも

俺の美徳は真っ白だ

(「ダニエル・ダルク」)

 まあ正直よく分かってるとは申し上げられませんけども。