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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

映画『マドモワゼル・フィフィ』/クリスチーヌ&ザ・クイーンズ「サン・クロード」

 本日、映画『マドモワゼル・フィフィ』を(フランス版のDVDで)鑑賞。1944年、ロバート・ワイズ監督。シモーヌ・シモン主演。

 「脂肪の塊」と「マドモワゼル・フィフィ」をくっつけて一本の作品にするという発想は、クリスチャン=ジャックの『脂肪の塊』(1945)と同じものであって、当然のごとく、どちらもナチス・ドイツに対するレジスタンを称える意図を明確に持った作品である。はて、これは偶然の一致ということなのか? なんにしてもフランス版はわりと単純に両作品をくっつけただけなのに対して、このハリウッド版の脚本ははるかに手が込んでいて、一体感があってよく出来ている。

 大きな改変の1は、主人公エリザベート・ルーセが娼婦ではなく洗濯女であり、彼女はトートとディエップの間にある Cleresville クレールヴィルなる町に帰るために馬車に乗り合わせることになった、という設定。

 第2に、このクレールヴィルの司祭が抵抗の印として教会の鐘を鳴らさないでいるのだが(それ自体は原作「マドモワゼル・フィフィ」と同じ)、彼の後任となる若い司祭が(原作「脂肪の塊」の二人の修道女の代わりに)同じく馬車に乗っている。

 第3に、トートの宿屋にいるプロシア将校が、〈マドモワゼル・フィフィ〉その人となっている。

 第4に、ここが興味深いところであるが、〈マドモワゼル・フィフィ〉は洗濯女エリザベート(彼女は愛国心が強く、決してドイツ人の言うことを聞かないことで知られている)に、文字通りに「一緒に夕食を取ること」を強要する(そして彼女はそれを拒絶する)のである。これは当時のハリウッドの倫理コード上必然的な変更点なのだろうが、いかにも苦肉の策の感は否めない。しかしその代わりに、プロシア将校があくまで彼女を「精神的に屈服させる」ことに固執するという状況は、なんとなく原作よりも高尚な感じを抱かせる変更であって、それはそれとして面白くもある。

 第5に、コルニュデはいったんは他の乗客たちの陰謀に加担し、エリザベートの説得に一役買うのであるが、後にそれを反省して、ここからだんだんといい役に変わってゆく。このあたりの工夫はうまいと思う。

 第6に、エリザベートはクレールヴィルでおばの洗濯場での仕事に戻るのだが、プロシア将校たちが宴会を企て、(娼婦ならぬ)洗濯女たちを占拠している城館へと連れてくることになる。

 第7に、コルニュデは新しい神父と一緒に教会の鐘を守ることを決意し、見回りにやってきたプロシア兵を銃で狙撃し、逃亡する。まさしくレジスタンになるわけである。

 第8に、〈マドモワゼル・フィフィ〉を刺殺して逃亡したエリザベートは、コルニュデと合流し、ともに司祭によって教会にかくまわれる。コルニュデはレジスタンに加わることを決意し、エリザベートの隠れる鐘楼で、司祭が〈マドモワゼル・フィフィ〉の弔鐘を鳴らすところで幕となる。

 以上がおおよその原作との変更点であり、二作品の融合という点ではわりとよく出来ているように思われた。主人公エリザベートは周囲の人物のためにやむなくドイツ将校に屈するも、最後には自尊心を守って身をもって抵抗し、その心意気にうたれてコルニュデも回心して一人の闘士となるのであるから、実に一貫したレジスタンス称揚の物語になっていると言えるだろう。もちろん自己の経済的利益しか考慮しないブルジョア市民(それはつまり時代状況において考えればヴィシー政権に加担するコラボということになるだろう)への諷刺も含まれているので、当時のフランスの観客にどう受け止められたかは想像しにくいところもある。

 ごく個人的には、原作「マドモワゼル・フィフィ」はやはり素直に対独抵抗(を称える)物語として読まれうるし、現にそう読まれてきたという事実を粛々と受け止めるしかない。いや、そんなに単純な話ではないだろうと、心の底の思いはなかなか消し去れないけれども。

 

  おおよそ一周して、クリスチーヌ&ザ・クイーンズに戻ってくる。赤の「サン・クロード」。美しい。

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