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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モーム「雨」/ミレーヌ・ファルメール「ブルー・ブラック」

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 考えてみるまでもなく、モーパッサン好きがモームを好きにならないはずもない、というものなのだが、これまで読む機会がなかったサマセット・モームをできるだけ読む、というのが私の今年の目標である。

 サマセット・モームは1874年に生まれ(ヴァレリーより3つ下、ジャリの1つ下)、1965年に亡くなっている。長生きだ。戦後の日本ではブームというほどによく読まれたが、その後「煉獄期間」を経て、2000年代より再び読まれるようになってきたという。なるほど。

 モーム『雨・赤毛』、中野好夫訳、新潮文庫、1959年(2012年68刷改版)

 さて、モームの短編の代表作は「雨」ということになっているので、まずはこれから読み直そう(20年ぶりくらいだろうか)。舞台のパゴパゴとはアメリカ領サモアの町だったのか(当時は何にも分かっていなかったに違いない)。そこに足止めされた医師のマクフェイルとその妻、宣教師のデイヴィドソン(と書いてある)が泊まった宿の一階に、ミス・トムソンという女性が泊まり、男を連れ込んでどんちゃん騒ぎをしはじめる。降りやまぬ雨の下、デイヴィドソンと女との戦いが始まる……。

 この作品が有名なのは、その結末の意外性によるところが大きいだろうが、しかしながら、このたびの再読の率直な感想としては、この作品はいささかあざといのではないだろうか、という印象が残った。

 恐らく、意外な結末が優れたものであるためには、その結末が読者にとって予想外であるが、しかし同時に「なるほど」と腑に落ちるものでもある、という条件を満たしていなければならないだろう。その点、この作品では、宣教師ディヴィドソンの頑固一徹な信心ぶりがこれでもかと強調されている(それ故に「落ち」の効果は大きい)のに対し、彼の「弱さ」はほとんど指摘されていないので、伏線が不十分であるように私には思われた。彼の影響下ににわかに回心した娼婦のトムソンは、身だしなみもないがしろにしてひたすら宣教師にすがりつく。

罪と一緒に彼女は一切の身の廻りの虚栄もやめた。櫛も入れない髪を乱して、汚い部屋着のまま、部屋の中を他愛もなく何かしゃべり歩いていた。四日間というもの一度も寝室衣を脱いだこともなければ、靴下を穿いたこともない。部屋は汚く取散らかっていた。

(『雨・赤毛』、新潮文庫、94頁)

  このような彼女に対して、デイヴィドソンはなぜ最後に陥落してしまうのだろうか。しかも宣教師ともあろうものが、その犯した罪のために自殺してしまうのである。その点にも、私はやはり読者を驚かせたいがための作者の作為を感じてしまうのである。

 もちろん、伏線がまったくないわけではない。トムソンの回心に入れ込むあまりに夜も眠れないほど興奮しているデイヴィドソンの姿には常軌を逸したものがあり、狂気に接近していると言ってもいいだろう。そして言うまでもなくタイトルともなっている「雨」の存在がある。先の引用に続く箇所にこうある。

その間も雨は執拗な残忍さで降りつづいていた。もう空の水も種切れだろうという気がするのだが、それでも依然として気も狂い出しそうにナマコ板を鳴らしながら、無二無三に降り注ぐのだ。なにもかもみんなべっとり湿ってしまって、壁にも、床の上に置いた長靴にも黴が生えていた。眠られない晩を、終夜蚊の群が腹立たしい唸りを立てていた。

(同前、94-95頁)

  したがって、デイヴィドソンが最後に過ちを犯すのは、単に彼の精神や信仰心に弱さがあったからというのではない。それよりもむしろ「環境」が人心にもたらす影響の強さに、作者は重きを置いているのだと考えられるだろう。そう考えるならば、デイヴィドソンもまた一人の被害者である、という風に読むことも可能かもしれない。

 もちろん、この作品には一つの信念に凝り固まった人物の見せる独善性、不寛容さに対する諷刺と批判という面が明確にある。死体安置所から帰ってくると、トムソンが元のように着飾り、レコードをかけて騒いでいる。憤慨したマクフェイルが邪魔をしてレコードをはねのけると、女は怒って向き直る。ネタばれになるけれども、末尾を原文とともに引いておきたい。不平を述べてはみたが、この結末の鮮烈さはやはり傑出したものに違いない。

  'Say, doc, you can that stuff with me. What the hell are you doin' in my room?'
   'What do you mean?' he cried. 'What d'you mean?'
   She gathered herself together. No one could describe the scorn of her expression or the contemptuous hatred she put into her answer.
   'You men! You filthy, dirty pigs! You're all the same, all of you. Pigs! Pigs!'
  Dr Macphail gasped. He understood.

(Somerset Maugham, "Rain" (1920), in Collected Short Stories, Vintage Classics, Volume 1, 2000, p. 48.)

 

 「ねえ、先生、馬鹿なことおしでないよ。他人の部屋へ入ってなにするんだい?」

「その口はなんだ? その口はなんだ?」

 だが彼女はぐっとこたえて居直った。そしてそれはなんともいえない嘲笑の表情と侮蔑に充ちた憎悪を浮べて答えたのである。

「男、男がなんだ。豚だ! 汚らわしい豚! みんな同じ穴の貉だよ、お前さんたちは、豚! 豚!」

 マクフェイル博士は息を呑んだ。一切がはっきりしたのだ。

(同前、103頁)

  (「こたえて」は「こらえて」の誤植だろうか?)

 ここに口を開いて、暗い深淵が覗いている。それが絶望的なまでに残酷に人と人とを隔てるのである。若い頃にこれを読んでショックを受けて、モームというのは嫌な作家だと思ったのが、以来これまで彼から遠ざかっていた理由であったかもしれない。

 今の私にもそういう思いが無いわけではない。しかし今はむしろ、その深淵を直視する作家の姿勢に共感を覚えると言っていいだろう。

 モーパッサンとよく似ている? そうかもしれない。でもやはり二人の間には相違もある。どこにその相違があり、その違いが何なのかを見定めることを目標に、これからモームを読んでいきたい。

 

 蛇足ながら、日本におけるモーム移入の嚆矢という歴史的価値を認めるにやぶさかでないとはいえ、中野好夫の訳文が古びているのは否めないと思う。新訳を望みたい。

 

 Mylène Farmer ミレーヌ・ファルメールの昔からのファンは、Laurent Boutonnat ロラン・ブトナあってのミレーヌだと考えるわけであるが、2010年のアルバム Bleu noir 『ブルー・ブラック』は初めてブトナ抜きで作られた。ちなみに『モンキー・ミー』で彼は戻ってきたが、最新作『星間』はまたしてもブトナ抜き。二人の間は決裂したとも噂される(らしく)、だとすればそれは悲しい。

 それはともかく、タイトル曲の"Bleu noir"

www.youtube.com

La bataille est belle

Celle de l’amour

Disperse tout

La bataille est celle

De longs, longs jours

Mon amour

("Bleu noir")

 

戦いは美しい

愛の戦いが

すべてを追い払う

戦いは

長い、長い時間のかかるもの

愛する人

(「ブルー・ブラック」)