えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

モーム「赤毛」/イェール「子どものように」

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 「雨」の次は「赤毛」である。これまた嫌な話ではあるのだが、しかし完成度という点では、私は「雨」よりもこちらを取りたいと思う。

 舞台はサモアの小さな島。まず、語りの順序とは無関係に話の要点を簡略に記せば、おおよそ次のようになるだろう。

 アメリカ海軍から逃亡した「レッド」と呼ばれる二十歳の水兵がこの島にやって来て、そこで土地の十六歳の美しい娘と出会い、二人は恋に落ちる。二人は一緒になり、楽園のように美しい島で無上の幸福の時を過ごすが、二年後、出来心を起こした青年は、だまされてイギリスの捕鯨船に連れ去らてしまう。残された女は涙に明け暮れ、四カ月後に子どもを死産する。男の音沙汰はない。

 三年が経った頃、スウェーデン人のニールソン、二十五歳の青年が、病気の療養のために島にやって来て、その美しい娘に見惚れる。周囲も彼との結婚を勧めるが、レッドのことが忘れられない彼女は拒絶する。しかしやがて観念し、ニールソンと結婚するに至る。二―ルソンははじめ、自分の愛情によって娘を幸福にすることができると信じるが、やがてそれが無理なことを理解する。彼女から愛されることのないことを悟った彼は、やがて胸の内で彼女を憎むようになる。そして二十五年の月日が流れた。

 ある日、二―ルソンのところに一人の船長がやって来る。禿げ上がった赤毛の頭、酒ぶくれでぶよぶよに太った醜い男は、何故か知らずニールソンに不快感を催させる。その船長を相手に自分の過去を語り終えたニールソンは、ふと戦慄を覚え、船長に名を尋ねる……。

 失った最愛の男を思いつづける女と、愛する女に愛されることのないままに年を取った男。二人の人間の間に見られるこの絶対的な「相互不理解」は、おそらくモームの文学にとって主要なテーマの一つと言えるだろう。だが、本作の肝はなんといっても、老いぼれた船長こそがレッドその人だったと発覚する場面にある。それが劇的なドラマにはならず、反対に一切ドラマが生起しないままに終わるという点こそが、人生の残酷さを一層に鋭く照らし出すのである。英語の練習を兼ねて原文を引用したい。

  Neilson gave a gasp, for at that moment a woman came in. She was a native, a woman of somewhat commanding presence, stout without being corpulent, dark, for the natives grow darker with age, with very grey hair. She wore a black Mother Hubbard, and its thinness showed her heavy breasts. The moment had come.

  She made an observation to Neilson about some household matter and he answered. He wondered if his voice sounded as unnatural to her as it did to himself. She gave the man who was sitting in the chair by the window an indifferent glance, and went out of the room. The moment had come and gone.

(W. Somerset Maugham, "Red" (1921), in Collected Short Stories, Volume 4, Vintage Books, 2000, p. 509.)

 

  二―ルソンは思わず息を呑んだ。というのはちょうどその時一人の女が入って来たからだ。土地の女だった。どこか犯し難いような、肥満とはいえないが、がっしりした、色の黒い、――土地のものは老衰とともに色が黒くなるのだ――真白な髪の毛をした女だった。黒のマザー・ハバードを着ているのだが、薄い生地を透して、重たげな二つの乳房が見えていた。その時が来たのだ。

 女は家事上のことらしい、二―ルソンに何か言った。彼は答えた。われながら落着かない声の調子が彼女にも気取られはしないかと彼は思った。だが女は、窓際の椅子に座っている男に興味も無さそうに一瞥を与えたきりで、部屋を出て行った。その時は来て、そのまま去ってしまったのだ。

モーム「赤毛」、『雨・赤毛』中野好夫訳、新潮文庫、2012年68刷改版、149-150頁)

  卑しい姿で登場したレッドの存在によって、痛ましくも惨めな悲劇であったはずのものが、一瞬にしてグロテスクな喜劇に変わり果ててしまう。ここに、作者が人生に投げかける、皮肉とも冷酷とも呼びうる視線が冴え冴えと際立っている。

 その上、この作品の含み持つ残酷さはそこに留まるものではない(かもしれない)。結末まで読み終えた読者は、振り返ってみた時に、青年と娘の間の「ただもう生一本な、純粋の愛」(129頁)、アダムとイブの間のような汚れなき愛の物語(と思われていたもの)が、実は二―ルソンの想像の内に育まれた「幻想」でしかなかったのではないかと疑問を抱くことだろう。実際、そう思って読み返せば、彼が「センチメンタリスト」であることが初めに述べられていたのでもある。

 我々は誰しも人生を一つの物語として解釈し、理解するものであるとすれば、この作品は、その「物語」が本質的にフィクションであるという、その〈真実〉を否応なく読者に突きつける。だからこそこの作品は、その嫌な読後感にもかかわらず(あるいはそれ故に一層に)、鋭く我々の心を打つ何かを秘めているのではないだろうか。そんな風に私には思われた次第である。

 

 いつものように話は変わって。

 Yelle イェールの2011年の2枚目のアルバムは、Safari Disco Club 『サファリ・ディスコ・クラブ』。その中の一曲、"Comme un enfant" 「子どものように」。なんだか色々と変なのだけれど、本人が恰好いいからぜんぶ許されてしまう、という感じだろうか。

www.youtube.com

Je chante et je pleure, comme un enfant

Je joue à me faire peur, comme un enfant

Je pense tout et son contraire, comme un enfant

Je danse, j'ai le cœur à l'envers, comme un enfant

("Comme un enfant")

 

私は歌って泣く 子どものように

私は怖がらせて遊ぶ 子どものように

何でも その反対も考える 子どものように

私は踊る 吐き気がする 子どものように

(「子どものように」)