えとるた日記

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「ギュスターヴ・フロベール」1884年、翻訳掲載

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 これも1年前に描いたフロベールを恥ずかしながら掲載。

 

モーパッサン 『ギュスターヴ・フロベール』 (I)

モーパッサン 『ギュスターヴ・フロベール』 (II)

 昨日、ようやくのことで仕上げたモーパッサンによるフロベール論(『ジョルジュ・サンド宛書簡集』に序文として書かれたもの)の全訳を掲載。

 ワードの情報だと最初に原稿を起こしたのは2007年11月。なんとまあ。もちろんほとんどの期間は放置されていたのであるけれど、それにしてもずいぶん長くかかったものだ。四百字詰めで約150枚、およそ論文2本分という量は、プロの翻訳家にはもちろん何ほどのものでもないだろうけれど、私としてはよく頑張ったと言いたい。

 このフロベール論は、モーパッサンによる評論文としてはもっともヴォリュームのあるものであり、それだけ思いの詰まった力作である。正直いささか冗長ではないかと思うところもないではないが、それはそれ。1884年の時点でフロベールの人と文学についてこれだけのものを書けたのは恐らくモーパッサンをおいて他になかっただろう。これは弟子による亡き師に対する最上のオマージュであると同時に、当時決して十分に理解されているとは言えない状況にあった特異な作家の才能の最良の弁護であった。

 フロベールって誰? という人にもぜひとも読んでいただきたい文章です。長いけど。

 

 以下、備忘のためのメモ書き。

 本論は先に 『政治文学評論』Revue politique et littéraire の1884年1月19日号(p. 65-70)、1月26日号(p. 115-121)に掲載されたが、ただし『ブヴァール』資料を含む大きな削除があった。

 その第1回目の原稿において、モーパッサンはマキシム・デュ・カンが『ボヴァリー夫人』の雑誌掲載時に大幅な削除をフロベールに提案していた手紙を暴露しているが、これに腹を立てた当時アカデミー会員のデュ・カンは雑誌宛に執達吏経由で通達を送付。以後の自身の手紙の掲載の拒否および、フロベールの遺産相続人の姪夫婦を訴えるつもりだと伝えてきた。

 そこで雑誌主幹のウージェーヌ・ヤングは1月26日号の冒頭にそれについて言及、その上で書簡の権利はそれを受け取った者にあることを明確にし、かつマキシム・デュ・カンは彼の『文学的回想』の中で、彼が受け取ったフロベールの書簡6通を無断で掲載した事実を指摘している。

 

 なお、モーパッサンとデュ・カンとの間の確執はこれに始まったことではなかった。

 デュ・カンは彼の『文学的回想』Souvenirs littéraires の連載の中でフロベールとの交遊について語った際に、青年時代のフロベールがたびたびてんかんの発作に襲われていたという事実を暴露した。その上で、この病気が理由でフロベールの精神的成長が止まってしまったのではないかとし、それによって彼の作家としての特異性を説明づけられると語った。

Ma conviction est inébranlable : Gustave Flaubert a été un écrivain d’un talent exceptionnel ; sans le mal nerveux dont il fut saisi au début même de sa jeunesse, il eût été un homme de génie.

(Maxime Du Camp, « Souvenirs littéraires. Quatrième parie (I), VII. Gustave Flaubert », Revue des Deux Mondes, 1er septembre 1881, p. 21.)

 

私の確信は揺らぐことがない。ギュスターヴ・フロベールは例外的な才能を持つ作家だった。青年時代のはじめに彼が捕われた神経の病がなければ、彼は天才となっていただろう。

(マクシム・デュ・カン「文学的回想」、『両世界評論』、1881年9月1日号、21頁。)

  これに対してモーパッサンは激怒し、反論「友情?……」(『ゴーロワ』紙、1881年10月25日)を執筆し、自分だけでなく、フロベールを直接・間接に知る者の多くがデュ・カンによって傷つけられたと訴えている。フロベールが天才ではなかった? バルザックの後に現代小説を作り上げた者、そのインスピレーションが今日の文学に影響を与えている者、その息吹が今日書かれる作品に認められる者が天才でなかったとは何事かと、モーパッサンの憤りが伝わってくる一文となっている。