えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

映画『女の一生』の中の詩

映画『女の一生』チラシ


 ステファヌ・ブリゼ監督『女の一生』(2016)の中には詩が朗読される箇所があるのだが、その詩がモーパッサン自身のものであると、パンフレットの永田千奈氏の解説に書かれていて「おお、そうだったか」と思う。そりゃあ、もちろん気がつきませんでした。

 実際には詩は三ヶ所で出てくるので、それをまとめて確認してみよう。

 一つ目は冒頭近く、ジャンヌはまだ結婚前、ノルマンディーの海辺のシーンで読まれる。これは16世紀の詩人ピエール・ド・ロンサールの「夏の賛歌」であった。

 豊穣の神ケレスが「夏」に向かって語る言葉。該当箇所のみを引く。括弧の中の2行は映画では省略されている。綴りは現代のものに直してある。

Je ne viens pas ici, tant pour me secourir

Du mal de trop aimer, dont tu me fais mourir,

Que pour garder ce monde, et lui donner puissance,

Vertu, force et pouvoir, lequel n’est qu’en enfance

Débile, sans effet, et sans maturité

Par faute de sentir notre Divinité.

Depuis que le Printemps, cette garce virile,

Aime la Terre en vain, la Terre est inutile,

(Qui ne porte que fleurs, et l’humeur qui l’époint

Languit toujours en sève, et ne se mûrit point.)

De quoi servent les fleurs, si les fruits ne murissent ?

De quoi servent les blés, si les grains ne jaunissent ?

Toute chose a sa fin et tend à quelque but,

Le destin l’a voulu, lors que ce Monde fut

En ordre comme il est : telle est la convenance

De Nature et de Dieu par fatale ordonnance.

(Pierre de Ronsard, "Hymne de l'été")

 

私がここに来たのは、あなたが私を死なせようとする

愛しすぎる苦しみから、自らを救おうとするのではなく

この世界を守り、可能性と、精神と体の力、

能力を与えるため。世界はまだ幼年時代

ひ弱で、力を持たず、成熟していない

我らの神性を感じることができぬゆえ。

春、あのたくましい娘が

大地を愛しても空しく、大地は無益

(花しかもたらさず、掻き立てられる気質は

つねに生気に倦み、熟することがない。)

花が何の役に立とう、果物が熟さないなら?

麦が何の役に立とう、穂が黄色くならないなら?

すべてのものには目的があり、何かを目指している

運命がそう望んだのだから、この世界が

現にあるように秩序だてられた時に。それが

運命の命令による自然と神の調和。 

(ピエール・ド・ロンサール「夏の賛歌」)

 人生への希望に胸膨らませるジャンヌの心境に適ったものであるが、より直接的に結婚に対する期待の投影とも取れるかもしれない。なるほど、ロンサールかあ。教養だ。

 二つ目は結婚後。ジュリアンの吝嗇かつ横暴な性格が明るみに出た後、冬の海辺に佇むジャンヌのシーン。これがモーパッサンの「創造神」。高校生の頃に書かれた詩篇だ。

Seigneur, Dieu tout-puissant, quand je veux te comprendre,
Ta grandeur m’éblouit et vient me le défendre.
Quand ma raison s’élève à ton infinité
Dans le doute et la nuit je suis précipité,
Et je ne puis saisir, dans l’ombre qui m’enlace
Qu’un éclair passager qui brille et qui s’efface.
Mais j’espère pourtant, car là-haut tu souris !
Car souvent, quand un jour se lève triste et gris,
Quand on ne voit partout que de sombres images,
Un rayon de soleil glisse entre deux nuages
Qui nous montre là-bas un petit coin d’azur ;
Quand l’homme doute et que tout lui paraît obscur,
Il a toujours à l’âme un rayon d’espérance ;
Car il reste toujours, même dans la souffrance,
Au plus désespéré, par le temps le plus noir,
Un peu d’azur au ciel, au cœur un peu d’espoir.
(Guy de Maupassant, "Dieu créateur")
 

主よ、全能の神よ、あなたを理解したいと望むとき

あなたの偉大さが目をくらませ、私にそれを禁じる。

私の理性があなたの無限へと昇ってゆくとき

私は疑いと闇の中へと投げ落とされる

そして私にからみつく影の中で、私が掴みうるのは

瞬いては消える束の間の稲光のみ。

だがそれでも私は望む、なぜならあなたは彼方でほほ笑むから!

なぜならしばしば、悲しい灰色の太陽が昇るとき

いたる所に暗いイメージしか見えないときにも

雲の隙間に一筋の日光が注いで

彼方に青空の切れ端を見せてくれるから。

人が疑い、すべてが暗く見えるときにも

魂には一筋の希望の光がさしている。

なぜなら、苦悩の中にあっても

最も絶望する者にも、最も暗い天気のときにも

空にはいくらか青空があり、心にはいくらか希望があるのだから。

(ギ・ド・モーパッサン「創造神」)

 なお、全文の拙訳はこちらに掲載。

モーパッサン「創造神」

 この時点でのジャンヌの心境を映すものとして選ばれたものと思えるが、この朗読の後すぐにジュリヤンの浮気が発覚することを思えば残酷でもある。それにしてもモーパッサンが18歳の頃のこんな詩にまで目を通していたとは恐れ入るばかり(脚本はステファヌ・ブリゼとフロランス・ヴィニョン)。

 そして三つ目は終盤に近く。学校を辞めてレ・プープルに帰って来ていた息子のポールが出奔した後のシーン。詩はマルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールの「私は渇いていた」。これも該当箇所のみの引用。

Je t’aime comme un pauvre enfant

Soumis au ciel quand le ciel change ;

Je veux ce que tu veux, mon ange,

Je rends les fleurs qu’on me défend.

Couvre de larmes et de cendre,

Tout le ciel de mon avenir :

Tu m’élevas, fais-moi descendre ;

Dieu n’ôte pas le souvenir !

(Marceline Desbordes-Valmore, "J’avais soif")

 

私はあなたを愛する、空が変わる時には

空に従う哀れな子どものように。

あなたの望むものを私も望む、我が天使よ

禁じられた花をあなたにあげよう。

涙と灰で覆ってほしい

私の未来の空全体を。

あなたが私を持ち上げたから、私を下ろしてほしい。

神は思い出を奪いはしないでしょう!

マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール「私は渇いていた」)

  盲目的に息子を愛する母の心境にあうものとして選ばれたものか。正直に言うともう一つよく分からない詩ではある。

 モーパッサンはロンサールは愛好していたが、デボルド=ヴァルモールは知っていたかどうかも疑わしい。だからこれは純粋に脚本家の好みで選ばれたものだろう。いずれにしても手抜きのない丁寧な仕事がされていることが、これらの詩の選択にも窺われるようである。