えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『死刑囚最後の日』/ミレーヌ・ファルメール「不服従」

『死刑囚最後の日』表紙

 『死刑囚最後の日』と言えば、今は昔、大学生の頃に岩波文庫豊島与志雄訳で読み、結構感動したことを覚えている。若かったなあ。

 当時はフランスについて勉強を始めた頃でもあったから、1981年、ミッテラン政権下に法務大臣ロベール・バダンテールが、民意を押し切って死刑廃止を実現させたという歴史を知って、素朴に感銘を受けたりしていたのでもあった。爾来幾星霜。時は流れる。

 ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』、小倉孝誠訳、光文社古典新訳文庫、2018年

は、当時27歳のユゴーが3週間で一気呵成に書き上げたもので、タイトル通り死刑の判決を受けた男性の語り手が、断頭台に送られる直前までの間に書き綴った手記という体裁の、全49の断章からなる短い小説だ。新訳の訳文はたいへん明朗で読みやすく、一息に読むと一層に、明確に定められた死期を待つという状況に置かれた者の絶望的な苦悩が切迫感を伴って押し寄せてきて、こちらまで息苦しくなってくる。

 末尾に付された「1832年の序文」がはっきりと示しているように、『死刑囚最後の日』は死刑制度の廃止を訴えるという明確な目的をもって書かれたプロパガンダであるが、小説じたいは余計な理屈を差し挟むことなく、語り手の悲嘆と絶望によって読者の感情に直に訴えかけてくる力を持っている。その語り手の緊迫した息づかいにこそ、この小説が今も読まれつづけている理由の一端があるのだろう。

 明晰な訳文もさることながら、本書はその解説が実に素晴らしい。刑罰制度の変遷、作品が書かれた時点における死刑を巡る議論のありよう、そうした(読者が知りたいに違いない)社会史、文化史的背景を十分に説明した上で、本作の持つ特徴とオリジナリティとを詳しく論じて遺漏なく、充実した内容でたいへんに勉強になる。私にとってはこれこそがまさしく文庫本の「解説」の理想の姿だと言いいたいぐらいだ。

 さて、『死刑囚最後の日』を一読すると、この語り手が何の罪を犯したのかは、ほとんど言及されないという事実に誰もが気づくだろう。わずかに目にとまるのは「証拠品となる血だらけのぼろ着」(12頁)、陪審員たちは「きっと予謀罪は除外しただろう」(15頁)という言葉ぐらい。「予謀」はなかったとすれば突発的な犯罪だったということか? また、共和派の陰謀で死刑になった者に対し、「それに比べてまさしく罪を犯し、他人の血を流した非道なこの私」(34頁)という述懐を見ると、テロのような政治犯でもなかったと考えるべきなのだろうか。ではこの語り手は、いったいいかなる罪を犯したのか?

 犯した罪が不明瞭な結果として、この語り手は自らの罪をどれほど反省しているのかよく分からない、ということになる。「私は自分の罪を思い出して恐ろしくなる。しかし私はもっと悔い改めたい」(114頁)という言葉があるにはある。だがそのことと死刑判決の妥当性如何の議論とが結びつくことはない。つまり、この小説においては、犯された罪の軽重や、その罪の自覚と反省の程度などは考慮されることがない。そうしたものとの関係の一切を越えて、とにもかくにも死刑制度はその非人道性ゆえに廃止されなければならないというのが、すなわち著者の断固たる立場なのであり、そうである以上、語り手の犯した罪への具体的言及が避けられているのは、極めて当然かつ正当な選択だったと言えるだろう。

 それはそれでいい。ところが「1832年の序文」において、ユゴーは死刑を廃止すべき論理を整然と語って倦むことがないのだが、そこにおいては、死刑を宣告されるような犯罪は、貧しい者がやむにやまれずに致し方なく犯すものであるという見方がされている。後の『レ・ミゼラブル』で述べられる「無知と貧困」こそが犯罪の源にあるのであれば、日本のことわざに言う「罪を憎んで人を憎まず」式に、正すべきは社会であり、犯罪者は懲罰ではなくいわば救済の対象となるべきだということになるだろう。

 だが、そうだとすると一体どうなるのだろう。『死刑囚最後の日』の語り手は、上流階級に属して教養もあると思しい男性である。その限りで彼は「無知と貧困」の犠牲者ではない。もちろん、この語り手は、社会のマジョリティーたる貴族・ブルジョア階級の読者に向けて語るのであり、彼らを説得することこそが彼の役目である以上、彼自身が上流階級に属する人物であることは、本作の必要条件であるには違いない。それはそうだが、そうするとこの語り手が犯した罪は何なのか、という問いが改めて浮上してくることになるのである。

 恐らくは、そのような人物が犯しうる、そして自らの行為について特段の後悔がついて回らず、しかも死刑に値する大罪として想定しうるものがあるとすれば、それは、共和主義に加担した反体制的な政治的行為以外に無いのではないか。私にはそのように思われる。だがもちろん、復古王政期はもちろん、七月王政期に入ってもなおのこと、それはこのような作品において堂々と掲げられるべきものではありえない(そんなことをしたらマジョリティーの読者の共感は得られまい)。そう考えると、34頁の共和主義者ボリへの言及は、先回って上記のような読解を否定するための予防措置だったのではないかという気もする。

 いずれにしても、名前をもたず、出自や身分も一切不明のこの語り手は、彼の犯した罪の内実もきわめて茫洋として実体を伴わない(伴い得ない)ものでしかない、ということだ(彼に過去が存在しないことは47章に象徴的に示される)。ビセートルの監獄において登場し、コンシエルジュリ監獄を経て、グレーヴ広場とそこに建つ市庁舎でその生を終えるこの匿名の語り手は、いわば純粋な「死刑囚」としてのみ存在していると言ってもいいのかもしれない。

 それはもちろんフィクションである。だがフィクションだからこそ持ちえる最大限の強度をもって、ユゴーは読む者の心を鷲掴みにしようと目論んだ、そんな風に言うことができるだろう。今の私はもう二十歳の時のように素直に心を囚われたりはしない。だがそれでも、「未来の一切を奪われる」ことの絶望に思いを致すことになった。そしていま改めて、若い作家の抱いた意志と熱意に胸打たれる思いでいる。そしてまた、フィクションの持つ可能性について思いを巡らしたりしているという次第だ。

 

 本日もミレーヌ・ファルメール Mylène Farmer のアルバム『不服従Désobéissance (2018) より、タイトル曲。

www.youtube.com

 Désobéissance

A l'audace

Je fais le serment

Des mots d'amour

Plus le temps

D'être à contre-jour

 

Désobéissance

Être soi

Marcher dans le vent

Si le cœur lourd

Détachée

Vent de liberté

("Désobéissance")

 

服従

勇敢さに

私は誓う

愛の言葉で

背に光を受けている

時間はもうないの

 

服従

自分になる

風の中を歩く

もし重たい心が

ほどけて

自由の風

(「不服従」)