モーパッサンの短編を漫画化した作品というのは、いろいろあってもよさそうだと思うのだけれど、これまでお目にかかる機会がなかった(ご存知の方がいらしたら、教えて頂けると嬉しいです)。このたび初めて目にすることができたのが、Iさんに教えてもらった
長崎訓子『Marble Ramble(マーブル・ランブル) 名作文学漫画集』、パイ インターナショナル、2015年
である。この作品集、選ばれている作品がどれも異色で、作者は相当の読書家かと想像される。収録作は以下のとおり。
佐藤春夫「蝗の大旅行」
夏目漱石「変な音」
梅崎春生「猫の話」
向田邦子「鮒」
蒲松齢「桃どろぼう」
曹雪芹「夢の中の宝玉さん」
海野十三「空気男」
モーパッサン「墓」
モーパッサン「髪」
ペロー「青ひげ」
横光利一「頭ならびに腹」
うむ、見事に変な作品ばっかりだ。のほほんとした佐藤春夫みたいなのもあるが、漱石といい梅崎春生といい、なんとも居心地の悪い読後感の残る作品であることよ。かつての愛人がこっそり家へやって来て、飼っていたフナを置いて行くという「鮒」は、いかにも向田邦子らしいどんよりした感じで一際気持ち悪い(もちろん誉め言葉ですよ)。中国ものは人を食ったような怪異譚で、海野十三はなんだかとぼけた味わいだ。そしてモーパッサンの2作、および「青ひげ」がフランスもので、これまたなんだか訳の分からない横光利一で締められている。
モーパッサンの2作品は、広い意味で「幻想小説」の枠に入れられる作品。「墓」は、最愛の恋人を失くした男が、彼女の墓を暴いて今一度だけその顔を見ようとして捕まり、裁判の場で真実を告白する話。「髪」は古物のコレクターが、古い家具の中に見つけた女性の髪の毛を熱愛し、やがてその髪の内に女性の幻影を見るに至る話(男は捕えられ、今は病院に収容されている)。どちらの作品にも死と喪失、過ぎ去る時間の哀惜といったテーマが共通していると言えるだろう。
両作品とも、大げさにならずに淡々と語られているところが好ましい。「墓」では、各ページの下部に裁判を傍聴している人たちの顔が並び、初めは憤っていた人たちが、次第に被告の話に胸打たれていく変化が描かれている。モーパッサンのテクストが読者の理解と共感を求めて遂行的に語られているということを、明確に視覚化してみせるよい演出と言えるだろう。
一方の「髪」だが、髪(男性名詞 les cheveux ではなく女性名詞 la chevelure であることがとても重要)の内に女性の幻を見るに至るという展開は、文字だけしかない文学だからこそ、読者に説得的に訴えかけることができるのではないか、という気もするのだが、果たしてどうだろうか。漫画では髪の束を手に町を歩く男の姿が客体として捉えられることになり、彼の「異常さ」がはっきりと視覚化されるという効果はある一方、彼に対する共感的な感情は、いささか抱きにくくなっているかもしれない。もっとも、こういうのは原作を知っている人間の贔屓目な見方の可能性はあり、原作を知らない人が読めば印象は大きく違うだろうか。
落ち着いたトーンの、穏やかな語り口の中にしみじみ「変さ」がにじみ出ている本作品集、その味わいはゆっくりじわじわと効いてくるようである。
Pomme ポムさんのアルバム À peu près 『だいたい』(2017) より、"On brûlera" 。どう訳していいのか分からないのでとりあえず「火に焼かれて」としておく。冒頭は "On brûlera toutes les deux / En enfer mon ange" 「私の天使よ、地獄で/二人とも焼かれるでしょう」。この「二人」はともに女性ということか。
それはともかくこのクリップをご覧いただきたい。ああ、ぞわぞわする。
Que la mer nous mange le corps, ah
Que le sel nous lave le cœur, ah
Je t’aimerai encore (x 4)
("On brûlera")
海が私たちの体を食べてしまいますように、ああ
塩が私たちの心を洗ってくれますように、ああ
私はまだあなたを愛するでしょう(x 4)
(「火に焼かれて」)
なぜエスカルゴかといえば、不快な存在で、多くの人に嫌われているから、それはある種の人々に、ある種の国に、ある種の文化や宗教に受け入れられなかったり、断固として拒絶されたりする愛の象徴だから、とビデオの下に説明として書かれている。うむうむ。
ああ、このカタツムリ、本物なんでしょうか。違うのかな?