えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『ドルジェル伯の舞踏会』/ヴァネッサ・パラディ「その単純な言葉」

『ドルジェル伯の舞踏会』表紙

 二十歳の貴族の青年フランソワは、ドルジェル伯爵夫妻に気に入られ、足繁く出かけて行っては二人と時間を過ごす。彼は妻のマオに恋しているが、しかし夫のアンヌのことも好きであり、嫉妬の感情などを抱いたりはしない。彼はいわば現状に満足しているのだが、夫を愛していると信じて疑わなかったマオが、自分がフランソワに恋をしていると気づくことで、事態に変化が生じる。彼女はフランソワの母に手紙を書き、その中で自分の気持ちを打ち明け、二度と自分がフランソワと出会うことのないようにしてほしいと頼む……。

 レーモン・ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』、渋谷豊訳、光文社古典新訳文庫、2019年

は、神童と謳われたラディゲが二十歳で腸チフスで亡くなったために、遺作として残された恋愛心理小説であるが、実は死後に出版された初版には、ラディゲの庇護者だったジャン・コクトーらによって大幅に手が入れられていたことが、後に判明する。

部数限定版と比べた場合、初版は全体の分量が一割弱減っていますし、手を加えられた箇所はじつに七〇〇箇所以上、その内、約六〇〇箇所で明らかに「純粋に物理的、文法的な訂正」の域を超えた加筆修正が行われています。(渋谷豊「解説」、264頁)

というから驚きである。帯にある「作家自らの定めた"最終形"からの翻訳」というのは、このコクトーらによる加筆以前の形の翻訳ということで、この版の翻訳は初めてというのにもいささか驚いた。なんと、そうだったのか。

 このあられもない事実が示すのは、つまり、コクトーはラディゲをまだ一人前の自立した作家と認めていなかった、ということだろう。だからといって700箇所も推敲するというのは、オリジナルが尊ばれる現在の風潮からするといかにも傲慢な所作なように思われる。あえて胸の内を推測すれば、コクトーは、愛弟子の「未完成」の作品を「完成」へと導くのが、いわば「保護者」としての自分の責任だと考えたのかもしれない。あるいは、彼とその周囲の者たちは、自分たちの「理想」のラディゲの姿を、この遺作の内に夢み、それを実現しようとしたのだろうか。

 と、死後の加筆修正についても興味は尽きないが、しかし現在の趨勢からすれば、今後『ドルジェル伯』は、この著者自身の残した形で読まれることになるのだろう。

 さて『ドルジェル伯』。『クレーヴの奥方』を下敷きにした高純度の恋愛心理小説であり、実際、ここには情景描写はほとんど存在しないし、ひたすらぷらぷら浮かれ騒いでいるだけの主人公とドルジェル夫妻の存在に、はっきり言ってリアリティーは乏しい。もっと言えば三人の人物造形が、特別にうまくいっているかどうかも疑問に思う。だが、そのあたりに作者の若さが透けて見えると言っても、それは大して批判にならないだろう。というのは、この小説が面白くなるのは、なんといってもマオが自分の恋心を自覚してからの後半部だからである。

 マオの告白を聞いたフランソワの母親は感銘を受けて、あわてて息子に会いに行くが、そこで自分の軽率さに気づいた彼女は、マオの手紙をあっさりと息子に読ませてしまう。マオが来させないでと頼んだ甲斐なく、フランソワはドルジェル伯の家に赴く。ここから先、夜会の場面では、各人の思いがことごとく他人の思惑とすれ違いながら、物事が展開していく。あたかも、人は人の心の内側を絶対に知ることができないかの如くであるが、そこに、静かにも激しいドラマが存在しているのである。表面上は些細な出来事が続く中、とりわけマオの心の中は激しく動揺し、その頂点がナルモフの帽子を巡るエピソードとなる。

そこで彼女は英雄的な行動に打って出た。それは誰もその偉大さに気がつかないだけに、なおさら英雄的な行動だった。人は思い込みに流されがちで、まさかフェルトのチロリヤンハットが一つの悲劇の核になろうとは考えてもみない。だから、こういう行為の偉大さに気がつかないのだ。(226-227頁)

  早熟な青年として、恐らくは人一倍鋭敏な自意識を持ち合わせていただろう作者なればの、繊細にして犀利な心理分析がそこにはある。この後、マオは観念して、自分の恋を夫にも打ち明ける(ここがまさに『クレーヴの奥方』を踏まえているところ)が、そこでも決定的な心理のすれ違いが起こる……。したがってこの後半部の主人公はまさしくマオであって、もはやフランソワではない。この若妻の内面のドラマこそ、この作品で一番成功している部分であろう。

 ラディゲが、かように繊細で七面倒な心理分析を重んじるに至ったのは、彼の周囲を取り巻く社交界というものが、何よりも体面を重んじる場であったからだろう。そこでは外面と内面は一致しない。仮面をかぶったような人の心は容易に窺い知れないが、それでいて、それを洞察することが要求されるような世界。にこやかな笑顔の奥で、心が七転八倒しているような人々の有り様を、ラディゲは見抜いていたのか。あるいは彼自身が誰よりも、そうしたことに苦しんだのだろうか。

 いずれにしても、そうした特殊な世界からこそ生まれえたこの小説が、現代の日本に受け入れられるものだろうか、と疑問に思わないでもない。

 いや、そんなことは杞憂かもしれない。いつの世にあっても、我々は、忖度と邪推の間、思いやりと偽善の間で、いじましくさ迷っているのではないだろうか。いつも人の心を読もうとしながら、読み誤り、思い過しを繰り返す。だとすれば、ラディゲが描いてみせる心の有り様は、今も我々の興味を惹かずにはおかないだろう。明瞭な新訳で蘇った『ドルジェル伯の舞踏会』で、ラディゲを発見する人の多くいることを望みたい。

 

 Vanessa Paradis ヴァネッサ・パラディ、2018年のアルバム Les Sources より、"Ces mots simples"「その単純な言葉」。ルフランがないので、最初の2節を。その単純な言葉は、もちろん "Je t'aime"。

www.youtube.com

J'ai quelques mots à te dire

Des mots simples à te dire

   On les entend souvent

Dans les films chez les gens

 

J'ai déjà dit ces mots simples

  En y croyant ou en feinte

   La première fois enfant

A moi-même de temps en temps

("Ces mots simples")

 

あなたに言うべき言葉があるの

あなたに言うべき単純な言葉

それはしばしば耳にする

映画の中で 人々のあいだで

 

その単純な言葉を言ったことがある

それを信じて その振りをして

最初は 子どものときに

自分自身に 時々は

(「その単純な言葉」)