毎年、6月はバカロレアのシーズンで、今年はどんな問題が出たかとニュースになるが、その時に、ふと読みだしたら止まらずに、一気に読んでしまったのが、
中島さおり『哲学する子どもたち バカロレアの国フランスの教育事情』、河出書房新社、2016年
だった。著者はフランス在住で、本書は、二人の子どもを育てる中で著者が知ることになった、日本とは大きく異なる学校事情について綴られている。学校の中というのは当事者の子どもでないとなかなか知ることのできない所であり、なるほどそんな風になっているのか、と学ぶことが多かった。たいへん合理的に設計してあるわりに、現場の人間が自由気ままなために色々と問題を起こしながら、全体としてはなんとか回っている、というところがいかにもフランスらしい。フランスの良いところ、日本のほうが良いと思えるところ、双方に目配りが届いており、記述のバランスが取れているのが、本書が読みやすい大きな理由だろう。
フランス型システムの特色の中では、哲学の授業、多言語教育などは特に、日本も取り入れてほしいものだと思う。フランスでは未成年の飲酒、喫煙じたいが禁止されていない(販売は禁止)ために、「中学生でも放課後や家で吸っている分には別にかまわない」(135頁)というのは知らなかったので、驚き、また納得した。その他、生徒代表を含めての成績会議、飛び級や留年の実情、修学旅行は先生しだい、停学や放校が稀ではないこと、ラテン語の行方、等々……、いや本当に知らないことばかりだった。
ところで、本書にモーパッサンが登場するのだけれど、その箇所がとても興味深いので、長めに引用させていただきます。
実は中学校になると、フランス語教育は突然、文学教育になる。教養課程でフランス語の初歩を習ったかと思うと、いきなりスタンダールとかカミュとか読まされる、昔の仏文科のようだ。仏文というのは、本国のフランス語の学び方を真似していたのかしら。
そんなわけで、中学初年の第六学級では古典と中世文学がカリキュラムだとかで、ホメロスとかラブレーを現代語訳で読んでいた。
第四学級(中二相当)では学年のテーマが一九世紀のリアリズム小説と幻想小説だったので、モーパッサンとかメリメとかテオフィル・ゴーティエとか、私にも馴染みのある作家の作品のことを子どもたちと話す楽しみが生まれた。
モーパッサンは、永井荷風始め、日本の近代文学を作った作家たちがお手本にした作家だけれど、今日ただいま、日本でどれほどの若者が読むのだろうか。それはちょっと心もとないが、本家フランスでは、中学生が必ず読まされる作家だ。そしてモーパッサンがスゴイと私が思うのは、決して文学好きでもなければ優等生でもない現代の子どもの心を捉えて離さないことである。
冬休みの宿題に『首飾り』を読まされて、うちのムスメは夢中になったのだが、もっと面白かったのは、宿題をやって来なかったシャルル君の話だ。読んで来なかったのでテストされる前になんとかしなければと、彼は授業を聞かずにこっそり本を読んでいたのだが、『首飾り』のオチに「C'est pas vrai !(ありえねー!)」と大きな声を上げてしまって教室中の注目を浴び、もちろん内職はバレてしまったのだった。きっとモーパッサンは墓の中で大満足でシャルル君をかわいく思っただろう。
Vanessa Paradis ヴァネッサ・パラディのアルバム『泉』Les Sources (2018) より、「キエフ」"Kiev"。
Il faudra se survoler
Apprendre à garder les rêves
Jusqu'à la nuit tombée
Pour nous retrouver à Kiev
("Kiev")
上を飛んでいかなければ
夢を守ることを学ばなければ
夜がやって来るまで
キエフで私たちが再会するために
(「キエフ」)