えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『シェリ』/バルバラ「ゲッティンゲン」

『シェリ』表紙

 コレットシェリ』、河野万里子訳、光文社古典新訳文庫、2019年

 私は個人的にはコレットにも『シェリ』にもなんの関心もないのだけれど、そういう人間の言うことだからぜひ信じていただきたいと思う。

 コレットは本物だ。骨の髄からの小説家だ。『シェリ』はまぎれもない傑作だ。

 小説は頭(だけ)で書けるものではないということを、これほどしみじみ感じることはなかなかない。49歳の高級娼婦レアに、25歳の美青年、愛称シェリが「くれよ、これ、この真珠のネックレス!」と声をかける冒頭から、二人の人物の姿がありありと立ち現れてくる様に圧倒される。むき出しのレアの腕のなまめかしさ、ネックレスをかけてふざける絶世の美青年の肌や、歯並びの艶。身体を捉える感性の細やかさと、そこから溢れ出る官能性に、冒頭の数ページだけでくらくらする思いだ。少しばかり引用しよう。

 彼は、横たわっている女の上にかがみ込むようにしながら、小さく並んだ歯と唇の濡れた裏側も見せて、挑発的に笑った。レアは起き上がると、ベッドの上にすわった。

「いいえ、言わない。だって言っても信じないでしょ。ねえ、そういうふうに鼻に皺を寄せて笑うの、やめられない? 鼻の脇に三本皺ができたら、さぞうれしいんでしょうね」

 たちまち彼は笑うのをやめ、肌を気づかう熟女のような巧妙さで額の皺を伸ばしながら、顎の下にもぐっと力を入れた。それからふたりは、敵意をにじませるように見つめ合った。彼女は下着やレースの間に肘をついて、彼はベッドの端に横ずわりして。

〈ぼくに皺ができる話をするなんて、まったく、このひとにお似合いだ〉と彼は思い、〈どうしてこの子は笑うと醜くなるのかしら? ふだんはほんとうに美しいのに〉と彼女は思った。(9頁) 

 意外性に富みながらも人物像をしっかり捉えた台詞は、二人の関係性をも見事に浮き彫りにする。姿勢や仕草の描写にも隙がなく、まったく違うことを考えている二人の思いのコントラストが、それぞれのキャラクターをさらに鮮明にしている。明晰かつ繊細、簡潔にして情感に溢れた文章は、見事というよりない。

 『シェリ』は、50歳を目前にした高級娼婦レアと、ライヴァルだった女性の息子シェリとの関係を描いた恋愛小説。シェリを子どもの時から知っていたレアだが、彼が20歳の時から恋愛関係を続けてきた。しかしシェリと大金持ちの娘エドメとの結婚が決まり、二人の関係が終わりになることは、双方にとって自明のことだった。

 そのはずだったのだが、実はそうではなかった、というところから物語は進んでいく。新婚旅行から帰ってきたシェリは、やがて喪失感に耐えられずに、妻を捨てて家を出る。一方、レアもまた心の空白を紛らすために旅に出る。長旅から帰ったレアは、新しい生活を切り開こうという意志を持っているが、しかしシェリを失った寂しさを拭い去ることができないでいる……。

 この小説においては、コレットはすべての登場人物に対して「客観的」な立ち位置に立っており、その意味では19世紀小説的(フロベール的と言うべきか)である。主人公はレアに違いないだろうが、新婚のシェリエドマの関係(レアへの嫉妬)や、レアを失ったことに実は耐えられなかったシェリの煩悶にも焦点が当てられる。それぞれの場面が人物を立体的に浮き彫りにしているのはもちろんのこと、この作者の立ち位置と冷静な批評的視点が、この物語を感傷的な恋愛小説にせず、むしろ古典主義的と言いたいくらいに節度を保った美しいドラマに仕上げている。

 これが仮に五幕のドラマであれば、おおよそ次のように分けられるだろう。第一幕、結婚前のシェリとレア、第二幕、新婚夫婦、そしてレアの孤独、第三幕、シェリの彷徨、第四幕、レアの帰還、第五幕、二人の再会。こうしてみると、実に簡潔で、すべてが必然的に展開することがよく分かるのではないだろうか。二人がともに別れは何でもないことと思っていながら、実は互いにとって相手はかけがえのない存在であったことを思い知らされる。そのことに耐えられずにじたばたする青年と、気丈にじっと耐え続ける大人の女性。諦めきれない青年は、彼女の帰還を知って喜び、ついに彼女の元へやって来る……。ここからのいわば最終幕の展開の素晴らしさについては、もはや筆舌に尽くしがたいと言うよりない。

 シェリとの再会の喜びのあまりに、レアは彼女の「弱さ」を、初めてシェリに対して見せてしまう。そしてそのことが二人の関係に決定的な楔を打ち込むことになる。その彼女の失敗を招くのは、最初から常にテーマとして存在していた、レアに忍び寄る「老い」の自覚だ。いかに美貌を誇った高級娼婦といえども打ち勝つことのできない「老い」とは、神ならぬ人間には避けられない「宿命」であるだろう。その「宿命」にヒロインが打ち負かされるという意味において、この疑似五幕のドラマは、まさしく古典主義的な「悲劇」の様相を帯びるのである。もちろんレアが死んだりするわけではないが、しかしこの結末のなんと残酷で、そしてなんと美しいことだろう。いわばそこで、彼女の心は死を迎えるのだと言ってもいいかもしれない。

 コレットは『シェリ』において、驚異的なまでに瑞々しい感性と、厳格と言っていいまでの様式美とを見事に結合させることによって、フランス文学の伝統の上に堂々とその地位を主張する傑作を実現してみせた。と、こういう仰々しい物言いがまったく似つかわしくないような洗練と優雅さを振りまきながらに。

 どこまでも美しく、どこまでも聡明なレアに見惚れるように、『シェリ』とコレットの天才ぶりに、ほれぼれと魅了されずにはいられない。

 

  問答無用の名作ということで、バルバラ Barbaraの「ゲッティンゲン」"Göettingen" を挙げよう。INAのアルシーヴから、1967年の映像。最後の2節のみ拙訳。

 対立よりも融和を。敵意よりも寛容を。価値があるのはそれだけだ。

www.youtube.com

 O faites que jamais ne revienne

Le temps du sang et de la haine

Car il y a des gens que j’aime

À Göttingen, à Göttingen.

 

Et lorsque sonnerait l’alarme

S’il fallait reprendre les armes

Mon cœur verserait une larme

Pour Göttingen, pour Göttingen.

("Göettingen")

 

おお、二度と戻って来させないで

血と憎しみの時を

だって愛する人がいるのだから

ゲッティンゲンには、ゲッティンゲンには

 

そして警報が鳴るとき

武器を取らなければならないなら

わたしの心は涙を流すでしょう

ゲッティンゲンのために、ゲッティンゲンのために

(「ゲッティンゲン」)