ミッシェル・オスロの話の続き。
高畑勲に私がもっとも感謝していることは、ミッシェル・オスロの作品を日本へ紹介してくれたことだ。
高畑勲『アニメーション、折りにふれて』、岩波現代文庫、2019年
に収録されている「『キリクの魔女』の世界を語る」という2003年のインタヴューの中で、この作品について語られているのを読んで、なるほどと思うことが多かった。
ここで高畑は、「思いやり」の映画と「思い入れ」の映画という二分法を使って、アニメ映画を語っている。
観客が能動的に、想像力を働かせて「思いやる」必要があるタイプの映画では、観客は主人公を待ち受けている危険が分かっていて、「ハラハラ」しながらその行く末を見守る。それに対して、観客を主人公と一体化させ、「思い入れ」させるタイプの映画では、観客は、何が起こるか分からない展開を「ドキドキ」しながら待ち受ける。巻き込まれた観客は受け身のままで、ものを考えなくても済む。
高畑自身は一貫して、見る側の思考する余地を残す「思いやり」タイプの映画を心がけてきたとして、彼は続けて述べている。
日本のアニメーションは、娯楽としては超一流になり、見終わって「よかった!」という快楽を与えるけれども、現実を生きていくうえでは、それはなんの力も持っていないと思うんですね。役に立っていないと思う。いま流行りの「癒し」とかいうものにしかならない。現実を生きていくときに、もしもドキドキしながら進んでいても、それでは結局足が前へ出なくなって進めなくなる。だって、次に何が出てくるか何も分かっていないわけだから。現実に生きていくためには、自分で考えなくちゃいけない。たとえばこの穴はどうなっているのだろうか、とか。もし分からなければキリクのように「どうして?」と聞いたり探求したりせざるを得ない。そして今度はどのようにやらなくちゃいけないかを考えて、そして行動する。それが現実を打開する方向ですよね。生きていく方法です。
とても誠実で、とても真面目な人の言葉だ。真面目すぎると思わずにはいられないくらいに。ここには宮崎駿に対する批判がはっきりと窺われるという点でも、興味深い言葉だと思う。もう一か所、引用。
ところで今、現実世界は複雑怪奇なんて言いましたが、アニメの作品世界のほうもやたら複雑怪奇なものになっているんです。リアリティを実感させるための目くらましですね。それに対してこの『キリク』は見事に単純です。しかし、ファンタジーでもあるにもかかわらず、現実を生きていくうえでの、イメージトレーニングになるように作ってある。キリクは小さくて力もない。走るのが速いだけ。それでできることを探すんです。分からないことがあれば聞くし、「なぜ、どうして?」というのがこの作品の惹句になっていますが、それだけじゃなくて、どうしていくかということをいつも考えている。そうやって一歩一歩やっているから、僕としては見終わったあと、非常にすっきりした映画だったんです。本当の喜びがあった。
(同前、269-270頁)
いかにも、『キリクと魔女』の素晴らしさは、作品に投影された監督の人間観、人生観の、深みと確かさに多くを負っているだろう。大げさな言葉かもしれないが、そこには確かに叡智がある。
そして、ミッシェル・オスロ監督は、まさしく高畑勲にこそ見いだされるべきだったのだということを、このインタヴューを読んでしみじみと納得した。その幸運な出会いを、改めて有難いことだと思ったことだった。
この十年、秋になると一度は聴く曲。テテ Tété の「秋がやってきたから」"A la faveur de l'automne"は、2003年の曲。2013年の演奏。
A la faveur de l'automne
Revient cette douce mélancolie
Un, deux, trois, quatre
Un peu comme on fredonne
De vieilles mélodies
A la faveur de l'autome
Tu redonnes
A ma mélancolie
Ses couleurs de super-scopitone
A la faveur de l'automne
(A la faveur de l'automne)
秋がやってきたから
あの甘いメランコリーが戻ってくる
1、2、3、4と
ハミングするように
古びたメロディーを
秋がやってきたから
君がまた与えてくれる
僕のメランコリーに
古びたその色合いを
秋がやってきたから
(秋がやってきたから)