この『ニュクスの角灯(ランタン)』は、明治11年1878年に始まる。舞台は長崎。骨董屋「蛮」に奉公に出た美世は、パリ万博で西洋の品を買い付けて帰国した青年、百年と出会う。美世は商売の基礎を学びながら、きらびやかな品々に触れることで、海の向こうの異国の世界に思いを馳せるようになる……。
という感じで物語は始まっていくのだけれど、モモこと百年が、今度は日本の品をパリに売りに行くと決めるところから、話は長崎とパリとで同時に進行してゆくようになる。モモには実は若い時に別れた恋人ジュディットがいて、今では彼女は高級娼婦、そして結核に侵されている、という辺りはいささか『椿姫』的でもある。
それはともかく、4巻において、モモと友人のヴィクトワールは西洋で売れる新しい商品はないかと考え、浮世絵に目をつける。では誰がそれを買ってくれるか、という時に名前が挙がるのが、なんと、と言うべきか、当然、と言うべきか分からないが、とにかくエドモン・ド・ゴンクールなのだ。そこで彼らはゴンクールに出会うべく、「ロンビギュ劇場」で『居酒屋』の初日に狙いを定めるのである!
(1879年)一月十八日 土曜日
『居酒屋』の初日。
作品に共感し、やたらに拍手する観客のなかで、陰にこもった反感はおもてに出てこようとしない。歳月は何と世代を変化させてしまったことだろう。弟のことを思って寂しくなってしまったので、廊下ででくわしたラフォンテーヌに、思わず、「これは『アンリエット・マレシャル』の時の観客とは違うねえ」といわないではいられなかった。あらゆることが受け入れられ、喝采され、そしてただ、最終場面で、おそるおそるの気の弱い口笛が二、三回あった。それだけが、圧倒的な熱狂のなかでの唯一の抗議であった。
ゾラの取巻き連中の打ち明けたところでは、滑稽な箇所をいくつかビュスナックまかせにしたほかは、ゾラ自身が全部脚本を書いたそうだ。してみれば、彼こそがまさしくこの芝居の作者だ。そしてまたもや演劇上の革命を試みようとはしなかったらしい。というのは、――労働者の環境そのものはすでにこれまで何度も芝居になっているのだから、勘定に加えないとして――脚本はタンプル大通りの古めかしいトリックや長広舌、センチメンタルなきまり文句で出来上がっているからだ。
漫画と直接は関係ない引用がつい長くなった。つまりこの1879年1月18日のアンビギュ座が漫画の舞台となり、そこにゴンクールが登場してくるのである。
いやもう、ただ単にそのことに感動したというだけの話なのではある。そして5巻の末尾で、モモたちは、オートイユのゴンクール宅を訪問する。そこで待ち受けるのは、「こちら右からアニエス ギュスターヴ アルフォンス」(208頁)で、なんとフロベールとドーデまでがゴンクールと一緒に浮世絵を見て大喜びをするのである(アニエスが誰なのか分からない。誰だろう)。引き続き6巻にも場面は続き、春画の説明に感心したりしている。
うーん、夢とは麗しいものだ。フロベールもドーデも恐らく浮世絵にさほど関心はなかっただろう、などということはもちろん言うも野暮な話で、この三人が仲良く講釈に聞き入っている場面はなんとも微笑ましい。
とまあ、ごく私的な感慨はともかくとして、『ニュクスの角灯』は、このたび6巻で綺麗に完結。物語をきっちりまとめあげる、作者の技量には実に堂々としたものがある。
思わぬところで出くわしたベル・エポックのパリの情景に、すっかり夢見心地にさせてもらいました。
秋の歌の王道中の王道。セルジュ・ゲンズブール Serge Gainsbourg の「枯葉によせて」"La Chanson de Prévert" (1962)。RTSのアルシーヴ、1962年の映像。
Et chaque fois les feuilles mortes
Te rappellent à mon souvenir
Jour après jour
Les amours mortes
N'en finissent pas de mourir
("La Chanson de Prévert")
そして枯葉がいつも僕の記憶に
君を蘇らせる
来る日も来る日も
過ぎ去った恋が
死に絶えてしまうことはない
(「枯葉によせて」)