えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『自負と偏見』/ミレーヌ・ファルメール「モンキー・ミー」

『自負と偏見』表紙

 ジェイン・オースティン自負と偏見』、小山太一訳、新潮文庫、2014年

 以前から読みたいと思っていた本を読む。初読。原作が匿名で刊行されたのは1813年。

 オースティンがどれほど上手かも(冒頭のベネット夫妻の会話から、人物が鮮やかに立ち上がってくる見事さよ)、彼女のどこに限界があるのかも(その世界はいかにも狭く限定的だ)、いまさらのように言い立てる必要を認めない。それでもここに一言残しておきたいのは、長らく19世紀フランス文学ばかりに目を向けていた者にとっては、本当にこれが同時代の話なのだろうかと驚くぐらいに新鮮だったからだ。

 驚くことはいろいろあるが、とりあえず一点だけに絞るなら、ここでは結婚における当事者の意志が十分に尊重されている、ということが挙げられる。

 19世紀までのフランスの中上流社会にあっては、結婚とは完全に家と家の結びつきの問題だったらから、縁談をまとめるのは親であり、そこでは身分(家柄)と財産(持参金)が何よりも重要だった。娘は修道院の寄宿学校で大事に育てられ、16、17歳くらいで年の離れた男性と結婚させられるので、恋愛の入り込む余地もない。女性は結婚して初めて一人前と認められるのであり、子どもの一人も出来た後から、社交界の場で初めて恋愛に目覚めることになる。そこに、年上の既婚夫人と独身青年との恋愛が生まれる下地があった。というのが、スタンダール赤と黒』、バルザック谷間の百合』、フロベール感情教育』などを通して、我々が「そうであった」と教えられる19世紀のフランス社会のイメージだ。

 しかるにその同じ時代に、彼の地において、当の若い女性であるエリザベスは、決して家柄がよくなく財産も乏しい家庭の娘でありながら、意に沿わない相手からのプロポーズをあっさり退け、身分も財産もはるかに格上の男性ミスター・ダーシーとの結婚を、当事者同士の意志一つで決めてしまう。唯一の障害は、二人の結婚を認めないという、ダーシーの親戚にあたるレディ・キャサリンの介入であるが、エリザベスはまったくひるむこともなく、相手の批判を受け付けない。

「どうしても甥と結婚するというのね?」

「そんなことは申し上げておりません。わたしはただ、自分の幸せは自分で選ぼうと決心しているだけです。あなたにも誰にも、気がねするつもりはありません。関係のない人たちなんですから」(563頁) 

  この二人の対決部分が本作のクライマックスであり、エリザベスの毅然とした態度は実にすがすがしく拍手を送りたくなる。しかしそれにしても二つの国の間では結婚に到る過程がずいぶん違うものではないか。ああ、レナール夫人、モルソフ夫人にアルヌー夫人よ、あなた方はイギリスに生まれるべきだったとさぞ後悔していることだろう……。

 と、思わず感慨に浸ってしまうが、はたして本当のところ、この差は何を意味しているのだろうか? 確かに『自負と偏見』においても、身分と財産が結婚にあって重要なファクターであることには変わりはない。しかしながら、19世紀初頭のイギリスとフランスの家族制度においては、家父長の権威のあり方に一定の相違が見られたのだろうか? だとすればその理由はどこにあるのか?

 思いつきの仮説① フランスほどに中央集権体制が進まなかったイギリス社会においては、家父長の権威はフランスほど絶対的なものではなかった?

 思いつきの仮説② ここに描かれているのは作者オースティンの、そうであってほしい理想の世界であり、現実の社会とはいささかずれている?

 そもそも、ミセス・ベネットと5人の娘を前にミスター・ベネットは家長としての存在感に欠けるし、エリザベスの結婚を阻止しようとするのが一人レディ・キャサリンという女性であることからして、『自負と偏見』の世界においては明らかに男性の権威が薄い。とことん紳士のダーシーやビングリーにやはり男性性が乏しいように見える点からして、そこにオースティン個人の性向が表れていることは確かなように思われる。

 だがそういうことを言うなら、翻ってスタンダールバルザックフロベールはなんといっても男性作家であり、彼らの描いた世界は根本的に男性の視点によって見られた社会の姿ではないか、という疑念も生まれてくる。結果として偏ったイメージが広く流布することになったという面も否定できないだろう。だとすれば、真実はいったいどのあたりにあるのだろうか……。

 とりあえずここまで。そもそも『自負と偏見』一冊だけで答えの出るような話ではなく、また、以上はまったく素人の感想に過ぎないことをお断りしておきたい。そのうえで、同時代の英仏の互いに近いところ、遠いところに、これから気長に目を向けていきたいと思う。

 いや、小説は小説なのだ。芸術はすべてまやかしである。フロベールの世界も、すべての大作家の作品と同じく、それみずからの論理と約束事と、偶然の一致をもった空想の世界にはちがいないのである。

ウラジミール・ナボコフナボコフの文学講義』、野島秀勝訳、河出文庫、上巻、2013年、345頁)

 

 しつこくMylène Farmer ミレーヌ・ファルメール。2012年のアルバム Monkey Me『モンキー・ミー』のタイトル曲。ほとんど翻訳不可能かと。

www.youtube.com

C’est un autre moi

C’est Monkey Me

C’est Monkey Me

L’animal

 

C’est bien ici-bas

Je manque ici

Je manque ici

De facéties

 

C’est un autre moi

C’est Monkey Me

C’est Monkey Me

L’animal

 

Je connais ces pas

Un Monkey Moi

Je suis Monkey... Me

("Monkey Me")

 

そこに

もう一人の私

それがモンキー・ミー

それがモンキー・ミー

アニマル

 

そこに

まさしくこの地上で

私には欠いている

私には欠いている

冗談が

 

そこに

もう一人の私

それがモンキー・ミー

それがモンキー・ミー

アニマル

 

そこで

私はその足跡を知っている

一匹のモンキー、私

私はモンキー、ミー

(「モンキー・ミー」)