えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『林檎の樹』

『林檎の樹』表紙

 ゴールズワージー『林檎の樹』、法村里絵訳、新潮文庫、2018年

 大学を卒業した5月、徒歩旅行に出かけたフランク・アシャーストは、足を痛めて歩けなくなり、近くの農場に泊めてもらうが、そこで出会った娘ミーガンに恋に落ちる。二人は真夜中、花咲く林檎の樹の下で逢引きをし、フランクは彼女に一緒に駆け落ちしようと言い、金を下ろしてくるために一旦、町へと引き返すが……。

 原著は1916年に刊行。下手をすれば鼻持ちならない話になりかねないのに、しっかり最後まで読ませてしまうのは、自然豊かな情景を濃密に描き出せる筆力と、主人公の心理の変化を的確かつ辛辣に辿ってみせる分析力のお蔭だろう。前者については、なんといっても林檎の樹の下での逢引きの場面。動物たちの鳴き声、息づく林檎の花、すべてがあまりにも美しい。

まわりでは、月の魔法にかけられた樹々が枝を震わせている。精霊の存在を感じさせるそんな樹々に囲まれて立っているうちに、アシャーストはすべてに確信が持てなくなってきた! これは、この世の風景ではありえない。ここは現に生きる恋人たちにはそぐわない。この場にふさわしいのは、神と女神、ファウヌスとニンフだけ。アシャーストと田舎育ちの小娘が、こんな場所で忍び会ってはいけないのだ。(71頁)

 まさしく「春と夜と林檎の花」(111頁)の魔法にかかったかのような夢幻的な場面であり、それがあまりに夢のようであるだけに、ひとたび「現実」に立ち返った主人公は、時の流れとともに、自分がそこへ帰ってゆくことが不可能であることを自覚せざるえなくなる。彼は彼として精一杯に誠実であり、彼を追って町に出てきたミーガンの姿を認めた時には、たまらず彼女を追いかけてゆく。しかし、彼女を前にしたところで、その歩みは遅くならざるをえない。結局のところは、身分違いの恋によっては、自分も彼女も幸せになれはしないのだという苦い認識が、彼にミーガンと一緒になることをためらわせ、自責の念に苛まれながらも、アシャーストは彼女を見捨てることになる。「農場に戻らずにいるのは恐ろしかった! しかし、戻るのは……もっと恐ろしかった!」(111頁)という一文に、彼の置かれた状況が見事に要約されている。

 これは幻滅の物語であるが、その幻滅には自分に対するそれも含まれているところがいかにも苦く、この物語を、いたずらに感傷的なものに終わるのを防いでいるだろう。

アシャーストは自分を憎み、ハリディ兄妹を、そして彼らがかもしだす、健全で幸せな、いかにも英国の家庭らしい雰囲気を、憎んだ。なぜ彼らはここに居合わせて、ぼくの初めての恋を台無しにし、自分がありきたりの女たらしにすぎないことを思い知らせてくれたのだ? あの色白の控えめな美しいステラは、どんな権利があって、ミーガンとの結婚はありえないとぼくに知らしめてくれたのだ? 何もかもをくもらせ、ぼくに失ったものを切望するという耐えがたい苦痛を与え、こんなにもみじめな思いをさせる、どんな権利が彼女にあるというのだ?(124頁)

 そのステラと後に結婚することになるのだから、そこには大きな皮肉がある。アシャーストは、いわば人生の門出において大きな挫折を味わうのだ。その経験は、自己の真実を教えることによって、彼の成長に寄与したと言えるかもしれないが、しかしそのために払わされた代償は決して小さくない。ひとたび失われてしまった無垢さは、二度と取り戻すことはできないのである。

 だからこれは青春の喪失の物語であり、主人公の抱く悔恨は、いま青春のただ中にいる者にも、かつて青春を過ごした者にも、等しく胸に迫るものを持っているのではないだろうか。

 

 2019年に書いた記事はぜんぶで36。今年はそれなりにコンスタントには書けて、昨年の19よりは多いが、2017年の40には届かず。来年は40越えを目標としたい。