読んだという記録のために。
グレアム・グリーン『情事の終り』、上岡伸雄訳、新潮文庫、2015年
この本とジッドの『狭き門』はまだ読まれているようだけれど、そのことは私には不思議に思える。『情事の終り』は決して分かりやすい話ではないように見えるだけに、読まれる理由はどこにあるのだろうと気にかかる。
言うまでもなく信仰とは難しいもので、信じている/信じていないという二分法は見かけほど単純なものではない。そもそも「私は神を信じていない」という言辞は、それ自体が神の存在を前提としている(本当の無信仰者とはわざわざそういうことを言わない者だろう)。そうである以上、「信じていない」と言い募れば募るほど、その者は神の存在に(言葉は悪いが)呪縛されることになる。そうならざるをえないのである。
一方で、信じている者にとってはすべての現象は神の意志の表れと解釈される。祈りが通じればそれは神の意志であると捉えられるが、祈りが通じなかった場合にも、それこそが神の意志であると言いうる。「信じない」者は常にその逆のことを考えるかもしれないが、傍目には彼のこだわりは信心者のそれとよく似ている。要するに、ひとたび信じる/信じないの二者択一に捕われた者にとって、この世の事象はすべて解読されるべき記号となり、絶え間のない問答を続けることを余儀なくされるのだ。この物語のヒロインのサラ、そして後に語り手自身はそのような葛藤の中で悩み、苦しむことになるのだと言えよう。
そして、信じることと信じないことがほとんど表裏一体であるのと同様に、愛することと憎むこととは、見かけほどに対立するものではない、ということを本書は語っている。愛しているから憎むのか、憎むほどに愛しているのか? 根本にあるのは対象に対する強い執着であり、恐らくはそれが愛と映るか、憎しみと映るかの差は紙一重なのだ。
信じることの困難、愛することの終りのない苦しみ。『情事の終り』は執拗にその二つを語り続ける、決して甘くない物語だ。
ところで、先に『狭き門』の名を挙げたが、そういえば本書の基本的構成には『狭き門』と共通する点が明確に存在している。もしかしたらそこに、この両作がしぶとく生き続ける理由が存在しているのだろうか。
もっとも私は、『狭き門』の再読だけはすまいと誓っているのだけれど。
クリストフ・マエ Christophe Maé の続きで、2013年のアルバム『幸せがほしい』 Je veux du bonheur より「魅了されて」"Tombé sous le charme"。
Je suis tombé sous le charme
A cause de tes mains tes mots doux
Tournent autour de mon âme
Comme des refrains vaudous
Je suis tombé sous le charme
A cause de ton sein sur ma joue
Tourne autour de mon âme
Et jetons-nous dans la bayou
("Tombé sous le charme")
僕は魅了された
君の手が理由で 君の優しい言葉が
僕の魂の周りをまわる
ブードゥーのリフレインのように
僕は魅了された
頬に触れる君の胸が理由で
僕の魂の周りをまわる
池の中に飛び込もう
(「魅了されて」)