えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『大学教授のように小説を読む方法』/-M-「セラピー」

『大学教授のように小説を読む方法』表紙

 トーマス・C・フォスター『大学教授のように小説を読む方法 増補新版』、矢倉尚子訳、白水社、2019年

 恥ずかしながらこの本の存在をずっと知らずにいた。仏文だからというのは言い訳にもなるまい。ま、そんなことはどうでもよく、この本はたいへん面白く読めるので、日本でもよく読まれてきたというのも、おおいに納得される次第だ。本書は想定読者からの問いに答える形の気さくな会話体で書かれているが、調子を切らさずに読ませるのには、淀みない訳文の上手さが大いに貢献している。

 本書で著者が示してみせるのは、大きく言って象徴読解と間テクスト性である。そのことは章題にはっきり表れている。幾つか拾ってみよう。「旅はみな探求の冒険である(そうでないときを除いて)」「疑わしきはシェイクスピアと思え……」「……さもなければ聖書だ」「ただの雨や雪じゃない」「すべてセックス」「セックスシーンだけは例外」「地理は重要だ……」「季節も……」といった具合だ。

 文学作品に書かれている多くの事柄は、それを何かの象徴として読むことができる。人物や物語はいつでも個別的で具体的なものだけれども、その人物や行為を我々が「理解」し、それに「意味」を与える時には、それを象徴として解釈していることになる。本書では英米の作品が中心に扱われているので、あえてフランス文学にひきつけて、誤解を恐れずに煎じ詰めるなら、たとえばカルメンは自由の、ラスティニャックは野心の、ボヴァリー夫人は反抗の、ナナは退廃の、『女の一生』のジャンヌは忍従の象徴だと言いうるだろう。そうした大きな話だけではなく、個別の場面や行為もたえず、本来の意味とは別の次元の解釈を喚起しうるだろう。

 ただし象徴の解釈は一つに限定されることはない。一元的な意味に還元されるならそれはアレゴリー(寓話)だと著者は言う。「象徴によって示されたものはひとつの主張にはまとめにくく、さまざまな意味や解釈を含んだ一定の領域を指していると考えたほうがいいだろう」(140頁)。本書では冒険、食事、飛行、怪物、地理、季節などの象徴的解釈が、具体的事例に即して解説されている。

 間テクスト性に関しては、教養のない私にはなかなか実践できないものだけれど、著者の主張は明確である。その要点は「この世にストーリーはひとつしかない」(55頁)にまとめられる。「そのストーリーは昔から存在し、どちらを向いてもまわりにあふれていて、われわれが読んだり聞いたり見たりする話はすべて、その一部なのだ。」作者が無意識的に反復している場合もあれば、意識的に過去の作品を下敷きにしている場合もあるだろう。いずれにしても、「今読んでいるテクストが他のテクストと呼応する可能性を意識すればするほど、私たちは多くの類似点や関連に注目するようになり、テクストは生気を増していく」(58頁)。特に英米の作家にとって主要な源泉となるのは、言うまでもなく聖書であり、ギリシャローマ神話であり、あるいは童話であり、そしてなかんずくはシェークスピアであるだろう。

 象徴にしても過去のテクストとの関連にしても、読者が気づかなかったとしても何ら問題はない。ただ、そうした要素に気づくことができれば、「小説の理解が深まり、より複雑な意味を愉しめるようになるはずだ」(59頁)。そう述べて、著者は読者に能動的な読解を薦めるのである。

 この、読書は能動的な行為であるということを、著者は繰り返し述べて強調している。「登場人物は作家の空想の産物であり――読者の空想の産物でもある。文学上の登場人物は、この二つの強い原動力によって造られている」(116頁)。「意義、シンボリズム、テーマ、意味など、登場人物とプロット以外に私たちが物語から引き出すものはすべて、私たちのイマジネーションが作家のそれと呼応して初めて気づくものばかりだ」(165頁)。

私たちはとかく作家の業績だけを称賛しがちだが、じつは読むという行為も多大な想像力を要するのだ。私たちの創造力や独創性が作家のそれと出会ったとき、私たちは作家の意図を読み取り、作家が与えた意味を理解し、その作品を自分でどう使おうかと考える。(略)だから、創造的な知性と交感してみよう。本能の声に耳を傾けて。あなたがテクストから何を感じるかに注意を払おう。きっと何か意味があるのだから。(148-149頁)

 だから読書という行為は個人的なもの、個別的なものである。当たり前のことだけれど、誰も他人に代わりに読んでもらうわけにはいかないし、十年前と今とでは同じ本でも読み方は大きく異なるだろう。唯一正しい読み方があるわけではない。だから、著者は最後に、自分の読解に自信を持つようにと読者を励ましている。

(前略)私はあなたではないし、あなたにとって大変幸運なことに、あなたも私ではない。『パイの物語』や『嵐が丘』や『ハンガーゲーム』をあなたと同じ読み方で読む人間は、この世にほかにひとりもいない。残念ながら学生たちには、文学作品について自分の考えを言う前に弁解したがる者が多すぎる。「これってっただの私の意見なんですけど、でも」とか、「たぶん僕が間違っていると思うけど、でも」とか、やたらに言いわけをするのだ。謝るのはやめなさい! なんの役にも立たないばかりか、見くびられるだけだ。知的に、大胆に、自分の読解に自信を持とう。それがあなたの意見なのだし(ただの、ではない)、読解が間違っている可能性がないわけではないが、学生たちが思うよりはるかに少ないものだ。というわけで、私の最後のアドバイスはこれである。自分が読む本を自分のものにしなさい。(343-344頁) 

 いい先生だ。こんな風に学生に語りかけられたらと思う。

 この本はアメリカの多くの高校で課題図書として使われたというが(そのことに著者自身が驚いたらしいが)、十分に納得できることだ。ここには古臭い教養主義的な、あるいは(もっと悪い)道徳教育的な鬱陶しさはまったく存在していない。そうしたものを抜きにしながら、ただの娯楽として以上に実り豊かな体験として読書という行為があることを、実に説得的かつ軽快に語ることに成功している。そこに本書の一番の魅力があるだろう。

 読書は、読み手の想像力によって成り立つ創造的な行為であること。そのことを、私も非力ながらに訴え続けていきたいと思う。

 

 引き続き、-M- こと Matthieu Chédid のアルバム 『無限の手紙』 Lettre infinie (2019) より、"Thérapie"。thérapie と terre Happy が掛詞になっている。

www.youtube.com

Souris à la vie

Quand tu croises le Bonheur

Si vite arrivé, si vite reparti

Joue plus au chat, à la souris

Cours plus après le bonheur

Quand il est devant toi

Qu'il te sourit

Voilà ma seule thérapie !

("Thérapie")

 

人生にほほ笑め

〈幸福〉とすれ違う時に

急いでやって来て、すぐに去っていくから

もっと追いかけろ

幸福を求めて駆けるんだ

そいつが目の前にあって

あんたにほほ笑んでいる時に

それが俺の唯一のセラピーさ! 

(「セラピー」)