えとるた日記

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『小説の技巧』/ヴァネッサ・パラディの感謝の歌

『小説の技巧』表紙

 デイヴィッド・ロッジ『小説の技巧』、柴田元幸斎藤兆史訳、白水社、1997年(2016年24刷)

 とても売れているこの本も、つい最近に知って読んだ次第。

 本書は新聞日曜版の連載をまとめ直したもの。各回、小説の技法に関するテーマを一つ取り上げ、作品からのやや長めの引用と解説とからなっている。テーマは「書き出し」に始まり、「作者の介入」「サスペンス」と続き、「内的独白」、「人物紹介」「描写と語り」「象徴性」「アイロニー」「題名」等々を経て、「結末」までの計50章。解説は、技法についての一般的な説明と、引用テクストの読解とからなっている。両者のバランスがいいのはもとより、後者は西欧流のテクスト分析のお手本と言ってもいいもので、実に切れよく作品の特徴を鮮やかに浮かび上がらせてみせる。挙げられている引用も多種多用で、いやあこんな風な読解ができたら理想的なんだけど、とため息でるような書でありました。

 テクスト分析はそれぞれを読むしかないが、一般的説明の部分で特になるほどと思った箇所を幾つか拾っておこう。

 文章というものは、厳密にいえば、他の文章を忠実に模倣することしかできない。喋り言葉を再現することも、いわんや言語ではなく出来事を再現することも、きわめて人工的な営みにほかならない。けれども、虚構の手紙は本物の手紙と区別不可能である。そこが強みなのだ。小説が書かれているその状況について、テクスト自体のなかで言及することは、普通ならテクストの背後にひそむ「真の」作者の存在に注意を喚起してしまい、虚構の現実感を損ねてしまうわけだが、書簡体小説の場合にはそれがむしろ現実感を高めてくれる。

(「書簡体小説」、42頁)

 

  謎の解決は、シャーロック・ホームズの物語であれ、これと妙に似ているジークムント・フロイト精神分析であれ、本能に対する理性の勝利、無秩序に対する秩序の勝利を高らかに宣言して読者に最終的な安心感を与える。ミステリーが大衆向けの物語――小説、映画、あるいはテレビのメロドラマなど、形式は何であれ――の定番となっているのはこのためである。

(「ミステリー」、51頁)

 

 ある本が「独創的」であるというのは――よく用いられる賛辞ではあるが――いったいどういう意味なのだろう? たいていの場合、それは作家が前例のない何ものかを創造したということではなく、現実の慣例的、慣習的描写法から逸脱することにより、我々がすでに観念的な「知識」として持っているものを「感触」として伝えたということだ。「異化」とは、つまるところ「独創性」の同義語である。

(「異化」、81頁)

 

 登場人物は、おそらく小説中の単一の構成要素としては最も重要なものである。たとえば叙事詩のような他の形式の語りや、映画のような他のメディアも、物語を伝える上では劣らないが、人間の本性を描くときの豊かな色合い、心理的洞察の深さにおいて小説に勝るものはない。

(「人物紹介」、97頁)

 

 労働階級の生活を小説で忠実に描くことの困難のひとつは(そしてこれはヴィクトリア朝に書かれた、善意あふれる産業小説にとりわけはっきり露呈している)、小説というジャンル自体が本来的に中産階級的な形式であって、したがってその語りの声も、言い回し一つひとつに中産階級的な偏向を露呈してしまいがちだということである。

(「実験小説」、148頁) 

 

ある状況に関する事実と、その状況についての登場人物の理解が食い違っていることに読者が気づくとき、「劇的アイロニー」と呼ばれる効果が生まれる。あらゆる小説は、本質的に無垢から経験への移行を描いたもの、あるいは見かけ上の世界の裏にひそむ現実の発見を描いたものだと言われている。とすれば、この文学形式の至るところに文体的、あるいは劇的アイロニーが見られるのは驚くに当たらない。

(「アイロニー」、243頁) 

  こういう明晰な人が小説を書いてうまくいくのだろうか、と思ってみたりもするのだが、言わずと知れたこと、著者は「イギリスにおけるコミック・ノベルの第一人者」(「訳者あとがき」310頁)である。コミック・ノベルの、というところに「なるほど」と思わずにいられない。いずれ読んでみたいと思う。なお、著者によれば、コミック・ノベルとは「英国=アイルランド的な小説」(153頁)であるとのことだ。

 「序」において著者は小説が「本質的に修辞的な芸術」だと述べている。「すなわち小説家や短編作家は、読書をしている間だけある世界観を共有してほしいと説得を行っていると考えられる」(11頁)。「説得」するための弁論術=レトリックがどのように駆使されているかに正しく目が向けられれば、その作品をその作品たらしめている核心とも言うべきものを掴まえることができる。そのことを鮮やかに示してみせている本書は、実のところは「読書行為の技巧」とはどういうものかを教えてくれているのでもあるだろう。

 

 4月2日、Vanessa Paradis ヴァネッサ・パラディも動画を投稿し、医療従事者への感謝を表明した。"Merci pour tout"「すべてのことにありがとう」。

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