えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『嵐が丘』/-M- 「モジョ」

『嵐が丘』表紙

 読んだという記録に。

 エミリー・ブロンテ嵐が丘』、鴻巣友季子訳、新潮文庫、2016年

 いやー、こんな話だったんだ『嵐が丘』ってー。これは驚きました。原作は1847年に発表。

 煎じ詰めるとこの物語は、ヒースクリフというどこの馬の骨とも分からぬ捨て子を拾ってしまったがために、アーンショウ家とリントン家の二家族が、二代にわたって破滅に追い込まれるという話である。凄いのは、出てくる人物がみんな揃っていかれていることだ。何を考えているのか分からないヒースクリフは言うまでもなく、ヒンドリー・キャサリンの兄妹も、エドガー・イザベラの兄妹も、二代目になるヘアトンもキャシーもリントン・ヒースクリフもみんな揃ってどうしようもない人たちであり、なかんずくは頼りのはずの語り手二人(「わたし」とネリー)までもがズレているんだから、実にまったく逃げ場がない。690ページ、全編タガが外れかかった人たちの狂騒曲であった。

 一言でいってこれは元祖少女マンガである、という意見にさして異論はないと思う。ここにはどろどろに淀んだ愛憎劇があり、ほとんどそれだけが溢れるほどにある。登場人物は二家族のみ。場所は郊外で、周囲に他に人が住んでいるようにも見えない。ヒンドリーもエドガーも何をして暮らしているのか分からないし、ヒースクリフはどこかで財をなして帰って来たということになっているが、その経歴は最後まで一切不明なままだ。およそここには「社会」が存在していない。ただもう、しがらみにがんじがらめの濃密なメロドラマが続くのである。

 これはエミリーという一人の「少女」の育んだ夢の形象だ。発表時に作者が30に近かったということは問題にはならない。この完全な没社会性は大人の心象ではありえないからだ。非社会的な登場人物とはつまりは「子ども」であり、彼らは子ども特有のまがまがしさを発散している。少女マンガ的というのはそのような意味においてのことだ。

 一方で、夢の形象であるということは、言葉を換えればファンタスティック(幻想)である。ヒースクリフという男は存在そのものが謎の塊だし、彼が結局何をしたかったのかも曖昧で、最後に衰弱して死んでゆく展開にも不明な点がある。この全体によく分からない何かは、恐らくはフロイトのいう「不気味なもの」の具象化とでも言えるだろう。その点で、ヒースクリフは『フランケンシュタイン』の怪物と一脈通じるものがある、と私は思う。執拗に回帰して主体に取り憑いて離れない忌まわしきものとは、「私」が抑圧せんとする「私」の一部に他なるまい。

 私にとって一番の驚きは、この作品が古典としてたくさんの人に読まれ続けて今に至るというその事実である(そんなことに今さら驚くのも愚かなことだけれど)。「一世紀半にわたって世界の女性を虜にしてきた恋愛小説」という裏表紙の言葉はその通りに違いなかろうが、いや本当にそれってどういうことなんだろうか。

 もちろん、この禍々しくも怪しい世界が異様な魅力を持って読む者の胸に迫ってくるのはよく分かる。なんというか、これほど「古典」という言葉がしっくりこない古典というのも珍しい。本作はそもそもからリアリズムを超越しているがゆえに、時代に捕われることなく、生々しい生命力を失っていないと言えるのかもしれない。が、それにしても……。

 本書も「はじめてのガイブン」リスト作成の一環で読んだが、「大人になるための」という基準に照らしてこの作品は入れなかった。その理由は概略、以上の通りであります。

 

 脈略はなし。「平時」を思い出させてくれる曲はないかと思い、-M- こと Matthieu Chédid マチュー・シェディッド。アルバム Îl (2012) より"Mojo"「モジョ」を聴く。mojoとは男性の性的魅力を指すらしい。ああ、平和だ。

www.youtube.com

Pourquoi toutes ces caresses inégales

Quand elles ressentent

Mes ondes animales ?

Est-ce que c'est bien ?

Est-ce que c'est mal ?

Laisse-toi aller, c'est qu'ça c'est le Mojo.

("Mojo")

 

どうしてこんなにばらばらな愛撫なんだい

彼女たちが俺の動物波を

感じとるときには?

いいかい?

悪いかい?

身を任せなよ、それがモジョなのさ。

(「モジョ」)