えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『赤と黒』について今思うこと

『赤と黒』下巻表紙

 スタンダール赤と黒』、小林正訳、新潮文庫、上下巻、1957-58年(上巻、2017年104刷、下巻、2019年88刷)

 今、「『赤と黒』は本当に傑作なんですか?」と聞かれたら、どう答えよう。

 ひとつ言えることは、スタンダールは職業作家ではなかったということだ。それはつまり、彼にとって「売れる」ことは至上命題ではなかったし、実際問題としても売れなかったわけだ。言い換えると、彼には「読者」がよく見えていなかった。少なくとも読者第一で小説を書いていたわけではなかった。この点で彼はバルザック、ゾラ、モーパッサン型の作家とは明らかに違い、むしろフロベールに近いかもしれない。

 読者第一ではなかったことの結果として、彼はとにかく自分の好きなように小説を書いた。そこにこそ彼が時代を超越できた理由もあるに違いないが、しかし一方で、彼の作品がいわば「商品」としては不完全なものであるのも明確な事実であろう(と、今の私は思う)。端的に言ってムラがあるし、さらに言えば冗長さを免れていない。『赤と黒』でいえば、第2部のマチルドとの恋愛の後半部(フェルバック夫人相手に恋文を送るあたり)は特に、作者が面白がっているのはよく分かるが、いささかやり過ぎだと言っていいのではないか。

 それはそれとして、今の私にとって『赤と黒』の肝は、なんといってもレーナル夫人(と新潮文庫ではなっているのでその表記に従っておくが)狙撃以降の展開、つまりは第2部第35章以降(ちなみに言うと、それはモームが『世界の十大小説』の中で「過ち」と見なして理解しなかった部分)である。レーナル夫人による告発の手紙によって侮辱を受け、また自分の将来が台無しになったと思ったジュリヤンは闇雲に故郷に取って返し、教会で彼女をピストルで撃つ。彼は「牢獄」(原文でも prison と書かれているが留置所であるべきか)に入れられ、死刑を覚悟する。

 それから何が起こるのか? 牢番からレーナル夫人が生きていることを知らされたジュリヤンは、あつい涙を流して喜び、そして「犯した罪を後悔しはじめ」る(下巻、454頁)。同時に、結婚目前だったマチルドに対する関心は一気に冷めてしまう。彼の心の中では「野心が死んで、そのあとからもうひとつ別の感情が生れ」る(482頁)。彼はそれを「後悔」と呼ぶが、すなわち、彼はここに至ってレーナル夫人に対する自分の愛情を(ようやく)自覚するに到るのだ。

 (モームに分かってもらえるように)この展開をもっと噛み砕けば、以下のように理解できるだろう。ジュリヤンは衝動に駆られてレーナル夫人に対して復讐を企てるが、自分がそのように行動してしまったことがつまりは彼女に対する「裏切り」であったことを、彼は事後的に理解するのである。もし彼が彼女を信じていたなら、告発の手紙に裏があることを疑いえたはずだ。そうせずに衝動に身を任せてしまったことが彼の過ちであり、彼が言う「罪」とは、この「裏切り」に、彼女を疑ってしまったということにあるのだと言えるだろう。一方で、レーナル夫人が死んではいなかったことを知った時に湧いて出てきた無上の喜びが、彼に自分の真の心の在り所を教えることになった。その意味では、夫人狙撃の顛末は、ジュリヤンが真の自己認識に到達するために辿らざるをえなかった「試練」なのである。

 そして、そのような認識に達した彼は、死刑の判決を得た後についにレーナル夫人と再会を果たす。そこでは「ジュリヤンは、これまで一度もこんなひとときを味わったことはなかった」(520頁)、「ジュリヤンはこれほど夢中で愛したことはなかった」(521頁)と、最上級の表現が繰り返され、彼の至福が強調されている。

「(略)ふた月といえば、かなりの時間ですよ。これほど幸福なことは今までなかったと思います」

「今までになかったですって!」

「ありませんでしたとも」ジュリヤンは感激の色を見せて、そう繰り返した。「わたしは自分に向かっていうのと同じように、あなたに向って話しているんです。神にかけていいます。誇張などするものか」(523頁)

  場所はじめじめした地下牢であり、2ヶ月後には死刑が待っているという、およそ考えられる限りで最悪に等しい状況である。そこにおいて無上の幸福が成立するという逆説にこそ、まさしくスタンダールの真骨頂があると言うべきだろう(『パルムの僧院』のファブリスが牢獄で幸福を知るのと相似している)。そのような悲惨な状態で幸福に浸りきるということは、冷静に考えるならばおよそ現実には起こり得ないことだ。その現実には起こり得ないはずのことが、ここにおいて実現している。そこに、文学によってしか実現できない、まさしく文学的真実というものがあるのではないか。そして、その奇跡的状況に達するためにこそ、ここまでの(あまりに)長い道のりが必要だったのだ。ジュリヤンと共にその道のりを辿った上で、読者がこの至福の瞬間を共有できるなら、最初に挙げた瑕疵など一切問題ではなくなるに違いない。

 疑いようもなく本作のクライマックスはこの場面であり、ここに比べたらこの後のジュリヤンの独白(第44章)など、あらずもがなという気さえする。肝心のレーナル夫人が夫に呼び戻されてあっさり帰ってしまうという展開も(本当の最後の再会への伏線とはいえ)なんとも拍子抜けな感がある(この拍子抜け感は、『パルムの僧院』でファブリスがさんざん苦労して脱獄した後、あっさり自分から牢に帰ってきてしまう時の感じと同等)。端的に言って、山場を過ぎて作者の気が緩んでいる、あるいは早く終えてしまおうと投げやりになっているという感が拭えないところではある。

 その意味で、ジュリヤンの死刑の場面もおそろしくあっさりしているので、なんとなく読み飛ばしてしまって、記憶に残らないということになりかねない。

 地下牢の悪い空気が、ジュリヤンには我慢ならなくなってきた。さいわい、死刑の執行がいい渡された日は、美しい太陽の光を浴びて、自然が若やいでいた。ジュリヤンも元気が出た。長いあいだ海に出ていた船乗りが、陸地を歩くときのように、大気を吸いながら足を運ぶことは、快い感覚だった。《さあ、申し分ない。勇気は十分ある》

 斬られようという瞬間ほど、ジュリヤンの頭が詩的になったことはなかった。かつてヴェルシーの森で過した楽しい日々の思い出が、あとからあとから、まざまざとよみがえってきた。

 すべては簡単に、しきたりどおりに行われた。ジュリヤンの態度にも、なんら気取りが見られなかった。(551-552頁)

 要するに、作者にはこういう場面を一生懸命書く気がなかった、というのが如実に窺えるような簡潔さではあるが、しかしそれでも要点はしっかり書かれている。美しい太陽、若やいだ自然、心地よい大気と、あたかも世界は祝福に満ちているかのようであり、そこにあってジュリヤンは元気と勇気に満ち、いわば生の充溢の中で死を迎えるのだ。彼はすでに出世欲、虚栄心といった、かつて心を捕えていたものの一切から解き放たれている。俗世の欲望を超越した状態で迎える死は、一種の殉教と呼びうるかもしれない。殉教とは自らの信仰のために命を捧げることだが、ジュリヤンにとってはもちろん神への信仰ではない。あえて言えばその対象は真の愛情ということになるだろう(そう言葉にしてしまうといかにも陳腐に聞こえかねないけれど)。

 もっとも、殉教といってもジュリヤンは聖人になるわけではない。彼の幸福はマチルドの犠牲の上に成り立っているが、彼はほとんど彼女を顧みないのである。恬淡とした最期のジュリヤンの姿からは、至上の幸福は無私の領域にあるかのように見えなくもないが、むしろ徹底したエゴイスムによって成り立つものだと、作者は開き直っているのかもしれない。

 いずれにしても、かくしてジュリヤンは最終的に(予想とは違った形で)一つの「自己実現」を成し遂げる。野心という世俗の欲望に捕われていた精神が、長い試練の果てにある種の超越的な境地に到る、その「成長」の記録こそが『赤と黒』という物語の骨子だと言えるだろう。


 『赤と黒』は復古王政という一時代の精神のありようを描いたということで、文学史的にはレアリスムの代表作として取り上げられる。そのことの意義はアウエルバッハの『ミメーシス』を読めばなるほどと深く納得させられる。実際、この物語は復古王政の時代にしか成立しえないという意味で歴史と密接に連関しているし、同時代の社会に対する批評性も明確であり、そうした意味においてフランス小説史において画期的なものであったことは、今から振り返れば疑いようもない。

 一方、産業革命以後の近代社会において、伝統的な身分制度から解放された個人は、各人が自分で自分の未来を切り開き、「自己実現」を目指すことをいわば余儀なくされることになる。地方の材木商の息子ジュリヤン・ソレルが一途に「成り上がる」ことを目指すという『赤と黒』の物語は、まさしく近代社会において個人の背負う「宿命」を、一個の典型として描き出したという意味において普遍的であり、その原型としての意義は今も決して失われていないだろう。その普遍性は『ゴリオ爺さん』や『感情教育』より広いものがあると言えるかもしれない。

 そうしたことはすべてその通りである。しかしそのような物語を通して作者スタンダールが描きたかったことの核心は、真の幸福とは「社会的な秩序から完全に切り離された状態」(野崎歓『フランス文学と愛』、講談社現代新書、2013年、99頁)にありうるということだったのかもしれず、その究極の理想を想像世界において掴み取らんがために、彼は飽くことなくペンを握り続けたのだ。

 そして、今の私にとってはそのことこそが最も意味を持っているように思われるのである(そして、そのことの意味を自問しているのでもある。なんだかややこしいようだけど)。端的に言えば、時代性または歴史的意義を云々するより前に、今の私たちにとって作品が持つ(持ちうる)意味と価値をきちんと言語化することが大事なのではないか、というのがこの2020年時点の私の立ち位置だということになるだろうか。

 スタンダールが考えていた Happy few の中に、今の自分が加えてもらえるか分からないし、あまりその自信もないけれど、とりあえず以上が、今の私が『赤と黒』について言えることのあらましです。

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』/-M-「スーパーシェリ」

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』表紙

 これも「読んだ」という記録に。

 ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、田口俊樹訳、新潮文庫、2014年

 原作発表は1934年。道路沿いの安食堂に飛び込んだ青年フランク(語り手)は、ギリシャ人の店主に店で働かないかと声をかけられる。フランクは妻のコーラに目をつけ、二人はすぐに恋仲になる。不愉快な夫、しがない暮らしに我慢できない二人は、亭主の殺害を計画するが……。

 単線ながら先行きの読めない展開や、地方検事との丁々発止のやり取りといったところが、いかにも映画的に感じられる。もっとも、そもそも作者がハリウッドで映画脚本などを手掛けていたことを考えれば自然なことかもしれず、何度も映画化されるのもさもありなんという気がする。

 基本的にはろくでなしの話でありながら、それでもこの主人公は憎めないように感じられる。それはどうしてかと考えていて思い当たるのは、これは計画犯罪の物語であるが、実は主人公の行動はぜんぜん思い通りに進行していないということだ。最初の計画は通りすがりの猫によって狂わされ、二度目の計画でもフランク自身が予定外の怪我を負ってしまう。そして地方検事や弁護士たちは彼ら自身の勝手な思惑で事件を操り、フランクとコーラは彼らに弄ばれているにも等しい。最後に到るまで二人は外的な要因に左右されるがままであり、それゆえに結末はいわば悲劇的な様相を帯びるのだと言えるだろう。

 言い換えると、本作において個人は無力であり、運命に翻弄されるばかりの存在として描かれている。その人間観に見られる悲観主義が、あるいは30年代アメリカの雰囲気を映し出しているのかもしれないと思う。

 

 -M-こと Matthieu Chedid マチュー・シェディッドの2019年のアルバム『無限の手紙』Lettre infinie より、「スーパーシェリ」"Superchérie"。相変わらずの頭。

 とりあえず最初の2節のみ翻訳。

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Ma muse m'aimante

M'amuse et me hante

Elle est toujours elle-même

C'est bien pour ça que je l'aime

 

Tellement addict

Que je suis accro

Accroché à ses ailes

J'suis pas beau !

Ma super chérie...

("Superchérie")

 

僕のミューズが僕を愛して

僕を楽しませ、取り憑く

彼女はいつも彼女自身で

だから僕は彼女が好きさ

 

あまりにも溺れて

僕は恋している

彼女の翼につかまって

僕は美男子じゃない!

僕の最愛の人……

(「スーパーシェリ」)

『情事の終り』/クリストフ・マエ「魅了されて」

『情事の終り』表紙

 読んだという記録のために。

 グレアム・グリーン『情事の終り』、上岡伸雄訳、新潮文庫、2015年

 この本とジッドの『狭き門』はまだ読まれているようだけれど、そのことは私には不思議に思える。『情事の終り』は決して分かりやすい話ではないように見えるだけに、読まれる理由はどこにあるのだろうと気にかかる。

 言うまでもなく信仰とは難しいもので、信じている/信じていないという二分法は見かけほど単純なものではない。そもそも「私は神を信じていない」という言辞は、それ自体が神の存在を前提としている(本当の無信仰者とはわざわざそういうことを言わない者だろう)。そうである以上、「信じていない」と言い募れば募るほど、その者は神の存在に(言葉は悪いが)呪縛されることになる。そうならざるをえないのである。

 一方で、信じている者にとってはすべての現象は神の意志の表れと解釈される。祈りが通じればそれは神の意志であると捉えられるが、祈りが通じなかった場合にも、それこそが神の意志であると言いうる。「信じない」者は常にその逆のことを考えるかもしれないが、傍目には彼のこだわりは信心者のそれとよく似ている。要するに、ひとたび信じる/信じないの二者択一に捕われた者にとって、この世の事象はすべて解読されるべき記号となり、絶え間のない問答を続けることを余儀なくされるのだ。この物語のヒロインのサラ、そして後に語り手自身はそのような葛藤の中で悩み、苦しむことになるのだと言えよう。

 そして、信じることと信じないことがほとんど表裏一体であるのと同様に、愛することと憎むこととは、見かけほどに対立するものではない、ということを本書は語っている。愛しているから憎むのか、憎むほどに愛しているのか? 根本にあるのは対象に対する強い執着であり、恐らくはそれが愛と映るか、憎しみと映るかの差は紙一重なのだ。

 信じることの困難、愛することの終りのない苦しみ。『情事の終り』は執拗にその二つを語り続ける、決して甘くない物語だ。

 ところで、先に『狭き門』の名を挙げたが、そういえば本書の基本的構成には『狭き門』と共通する点が明確に存在している。もしかしたらそこに、この両作がしぶとく生き続ける理由が存在しているのだろうか。

 もっとも私は、『狭き門』の再読だけはすまいと誓っているのだけれど。

 

 クリストフ・マエ Christophe Maé の続きで、2013年のアルバム『幸せがほしい』 Je veux du bonheur より「魅了されて」"Tombé sous le charme"。

www.youtube.com

Je suis tombé sous le charme

A cause de tes mains tes mots doux

Tournent autour de mon âme

Comme des refrains vaudous

 

Je suis tombé sous le charme

A cause de ton sein sur ma joue

Tourne autour de mon âme

Et jetons-nous dans la bayou

("Tombé sous le charme")

 

僕は魅了された

君の手が理由で 君の優しい言葉が

僕の魂の周りをまわる

ブードゥーのリフレインのように

 

僕は魅了された

頬に触れる君の胸が理由で

僕の魂の周りをまわる

池の中に飛び込もう

(「魅了されて」) 

『文学入門』/クリストフ・マエ「キャスティング」

『文学入門』表紙

 推薦書リストの話の続き。

 最近、巷の書店で出会って、おおまだ現役だったのかと驚いた本。

 桑原武夫『文学入門』、岩波新書、1950年1刷(63年31刷改版、2016年87刷)

 「文学は人生に必要である」と堂々と述べるその言葉がなんとも眩しい。1950年にはまだテレビ放送も始まっていなかった。外国文学研究者が胸を張って生きていられた時代が、今となってはなんともよい時代だったように見えなくもない。

 という個人的感慨はともかくとして、「第一章 なぜ文学は人生に必要か」の著者の論理を少し辿っておこう。小説を読むことによって、読者は著者から「人生そのものへのインタレスト」(20頁)を受け取る。それによって読者の心には、「行動直前的心的態度」(21頁)が蓄積され、それは現実の我々の行動にも影響を及ぼすことになる。

 それと同時に、読書によって「人間についての知識」(22頁)の獲得があることは言うまでもない。「現実に生きて行動する人間についての知識、を供給するものが、ほかならぬ文学なのである。」(23頁)

 人生をもっとも充実した仕方で生きるとは、理性も悟性も感性も身体もを含めて全的に行動することである。「人生に強いインタレストをもち感動しうる心なくしては、よき行動はなく、したがってよき人生のありえないことは、明らかであろう。」(24頁)

 人は理性の増強と知識の増加については、つねにこれを力説するが、そしてそれはいかに力説しても十分とはいえないが、しかも、この二者のみをもってしては、人間はついに行動に出ることは不可能なのである。よき行動とよき人生を生み出すためには、さらに人生にインタレストをもち、感動しうる心と、つねに新しい経験を作り出す構想力とが必要である。ところが人はこの二者の重要性を忘れ、その正しい養成をややともすれば怠りがちである。しかもこの二つのものなくしては、明日のよき生活の建設は決してありえないのである。そしてこれらに糧を与え、これを養成するものが、ほかならぬ文学である。これ以上人生に必要なものが、又とあるだろうか?(24頁)

 桑原がここで語っている「文学」は、主に「物語」のことであるように思われるのだが、そうであれば現代の日本人にとって「人生へのインタレスト」を与えてくれるものとしては、たとえばNHK大河ドラマのほうがはるかに身近でありえるだろうし、それはまた、ここで述べられている役割を十分に果たしうるのではないだろうか。というような疑問が、今の私にとって桑原武夫の断言が羨ましくも思われる所以となる。以上が私の気になることの一点目。

 もう一点は、桑原がこのような小説(読書)論を展開したのは、彼が想定しているのが主に19世紀から20世紀初頭のリアリズム小説であるという「前提」があってのことだった、というのが今となってはよく分かるということである。もちろん、桑原がこれを書いたのは1950年であり、彼の述べていることが、その時点における小説の一般的理解として妥当なものだったことは疑うべくもない(後に挙げる彼のリストにはまだカフカジョイスも登場していない)。しかし、今の我々が振り返る20世紀の文学史が、その近代リアリズムの形式をいかに超克するかという問いを巡って書き記されるものであるとすれば、21世紀初頭現在の「読書」論もまた、このように素朴にリアリズム作品だけを対象にすることはできないかもしれない。

 さて、そうした留保はともかくとして、「第四章 文学は何を―どう読めばよいか」において、著者は「読書の基準化の必要」を訴えている。

(略)新しいデモクラシーとヒューマニズムの精神による、読書の基準化は今日もっとも緊急を要する仕事であろう。(略)日本でも、各部門ごとにこうした必読書のリストを作成することが、新制大学の教養課程においてなさるべき、第一の仕事と思われる。もちろんその書目の選定にあたっては、あまりに難解なものをさけること、あまりに多くの冊数をあげてかえって不可能化しないこと、等々、慎重を要するが、さしあたり各大学で、それぞれリストをつくり、それを比較研究して、数年後には全国共通リストのできることを理想としたい。文化国家の教育者は、それくらいの労を惜しんではならないのである。(118頁)

  いやはや。なんのことはない、入門者向けの推薦図書リストが欲しいという私の願望は、70年も前に桑原武夫によってこのように「文化国家の教育者」の使命として掲げられていたのであった。果たしてこの時代に「全国共通リスト」は作られたのだろうか。存在するならぜひ見てみたいものだ。

 さて、本書で桑原武夫は「友人諸君の協力をえて」(120頁)、世界近代小説五十選というリストを作成し、これを掲載している。それをまた例によって、以下に引用させていただくことにする(桑原がこれを共有財産としたがったことを考えれば、このように公表することは著者の意に背くまいという判断です。ご了承願います)。なお原文には文庫名が指定されているが、古い情報なのでその部分は割愛している。

世界近代小説五十選(桑原武夫『文学入門』、岩波新書、1950年(1963年改版)、175-177頁)

 

イタリー

  1. ボッカチオ『デカメロン』(1350-53)

スペイン

  1. セルバンテスドン・キホーテ』(1605)

イギリス

  1. デフォオ『ロビンソン漂流記』(1719)
  2. スウィフト『ガリヴァー旅行記』(1726)
  3. フィールディング『トム・ジョウンズ』(1749)
  4. ジェーン・オースティン高慢と偏見』(1813)
  5. スコット『アイヴァンホー』(1820)
  6. エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(1847)
  7. ディケンズ『デイヴィット・コパーフィールド』(1849)
  8. ティーヴンスン『宝島』(1883)
  9. トマス・ハーディ『テス』(1891)
  10. サマセット・モーム『人間の絆』(1916)

フランス

  1. ラファイエット夫人クレーヴの奥方』(1678)
  2. レヴォマノン・レスコー』(1731)
  3. ルソー『告白』(1770)
  4. スタンダール赤と黒』(1830)
  5. バルザック『従妹ベット』(1848)
  6. フロベールボヴァリー夫人』(1857)
  7. ユゴーレ・ミゼラブル』(1862)
  8. モーパッサン女の一生』(1883)
  9. ゾラ『ジェルミナール』(1885)
  10. ロラン『ジャン・クリストフ』(1904-12)
  11. マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』(1922-39)
  12. ジイド『贋金つくり』(1926)
  13. マルロオ『人間の条件』(1933)

ドイツ

  1. ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(1774)
  2. ノヴァーリス青い花』(1802)
  3. ホフマン『黄金宝壺』(1813)
  4. ケラー『緑のハインリヒ』(1854-55、改作1879-80)
  5. ニーチェ『ツアラトストラかく語りき』(1883-84)
  6. リルケ『マルテの手記』(1910)
  7. トオマス・マン『魔の山』(1924)

スカンディナヴィア

  1. ヤコブセン『死と愛』(ニイルス・リイネ)(1880)
  2. ビョルンソン『アルネ』(1858-59)

ロシア

  1. プーシキン『大尉の娘』(1836)
  2. レールモントフ『現代の英雄』(1839-40)
  3. ゴーゴリ『死せる魂』(1842-55)
  4. ツルゲーネフ『父と子』(1862)
  5. ドストエーフスキイ罪と罰』(1866)
  6. トルストイアンナ・カレーニナ』(1875-77)
  7. ゴーリキー『母』(1907)
  8. ショーロホフ『静かなドン』(1906-40)

アメリ

  1. ポオ短篇集『黒猫』『モルグ街の殺人事件・盗まれた手紙他』(1838-45)
  2. ホーソン『緋文字』(1850)
  3. メルヴィル『白鯨』(1851)
  4. マーク・トゥエーン『ハックルベリィフィンの冒険』(1883)
  5. ミッチェル『風と共に去りぬ』(1925-29)
  6. ヘミングウェイ武器よさらば』(1929)
  7. ジョン・スタインベック『怒りのぶどう』(1939)

中国

  1. 魯迅『阿Q正伝・狂人日記他』(1921)

  なるほど、なるほどと、眺めているだけでいろいろ思わされて、たいへん興味深い歴史的資料である。「なぜあれが入っていないのか」式の不満は、この種のリストには不可避なので、あまり言っても仕方ないかと思う。それにしてもスカンディナヴィアの2作には驚かされる。当時はよく読まれていたのだろうか?

 さて、ここではひとまずフランスについてだけ見よう。挙げられているのは13作品。『クレーヴの奥方』と『マノン・レスコー』はそれぞれ17世紀、18世紀を代表する問答無用の傑作ということで、『告白』は桑原自身による岩波文庫が近刊だったという事情もないではない(小説に限定するなら『新エロイーズ』のほうが順当な選択かもしれない)。そして19世紀が6作、20世紀が4作となっている。

 19世紀の6人(スタンダールバルザックフロベールユゴーモーパッサン、ゾラ)は、今でも(小説家限定なら)ほぼ同様の名前が挙がるだろう。『従妹ベット』と『ジェルミナール』が現在品切れ(前から言っているがぜひ新訳を出してほしい)。1950年にはすでに評価が動かし難く定まっていた、ということがここから分かる。

 問題は20世紀の4作だ。白水社の『チボー家の人々』はまだ現役のようだが、それ以外の3作は 品切れして久しい。この4人のなかで、(フランスおよび日本で)今現在かろうじで生き残り、また復活しつつあるのはアンドレ・ジッド一人だろう。ロマン・ロラン、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、アンドレ・マルローの名前は今の時点ではいかにも古色蒼然という感が拭えない。もちろん、私には(近い将来であってさえ)未来の予測はまったくできないのだけれども、「現代の作品」の評価はやはり難しいということを思い知らされる。

 そこで、今の私なら20世紀前半の4作品に何を挙げるか、と考えてみた結果は以下のとおり。

22' プルースト失われた時を求めて』(1913-1927)

23' アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1927)

24' アルベール・カミュ『異邦人』(1942)

25' ボリス・ヴィアン『日々の泡(うたかたの日々)』(1947)

  そう、1950年時点ではまだ『失われた時』の全訳は出ていなかったし、日本で『異邦人』が知られるようになるのももう少し後のことだったのだ。今ならこの2作が外れることはありえないだろう。『ナジャ』が小説かどうか知らないが、シュールレアリスムのない20世紀前半というのも想像し難い。そして昨年が死後60年だったヴィアンのこの作も、その人気は衰えていないはずだ。

 と、置き換えてみたら何がどうなるのか自分でもよく分かっていないのだが、これらの作品は今の読者に十分に「人生へのインタレスト」を掻き立ててくれるだろうか、と改めて思いながら、繰り返しリストを眺めている次第だ(その暇があったら本を読むべきなのだけど)。

 

 クリストフ・マエ Christophe Maé のアルバム『芸術家の人生』La Vie d'artiste より「キャスティング」"Casting"。分かりやすい歌詞。

www.youtube.com

Mesdames, Messieurs, emmenez-moi

Je ne veux pas rentrer chez moi

Y'a rien à faire là-bas

Y'a rien à faire là-bas

Medames, Messieurs, me laissez pas

Je ne veux pas rentrer chez moi

Y'a rien à faire là-bas

J'ai rien à faire là-bas

("Casting")

 

紳士淑女の皆さま、僕を連れていってください

家に帰りたくはありません

あそこですることはありません

あそこですることはありません

紳士淑女の皆さま、僕を見捨てないでください

家に帰りたくはありません

あそこですることはありません

僕にはすることがありません

(「キャスティング」) 

『教養のためのブックガイド』/クリストフ・マエ「人々」

『教養のためのブックガイド』表紙

 以前より、推薦図書リストのようなものを探しているわけだが、そうした類のものが難しいのは、そもそもからして多分に教育的意図をもったものである上に、ややもすると威圧的なものになってしまうという理由があるように思われる。

 『教養のためのブックガイド』、小林康夫/山本泰編、東京大学出版、2005年

の中に、たとえば、英語圏における「教養のブックガイド」として、ハーバード大教授のヤン・ツィオルコフスキーによって35点、ロマンス語圏としてローマ大教授のピエロ・ボイターニによって41点(冊数ではない)が挙げられている。前者は『聖書』とホメロス(当然『イリアス』と『オデュッセイア』両方)に始まり、独仏英伊西色とりどり、カザンスキ『その男ゾルバ』まで、豪勢なラインナップ。後者もやはりホメロスから始まり、コーランも含めて多様な顔ぶれが並び、最後はプルースト失われた時を求めて』となっている。

 いかにも西洋のハイパー・インテリのご意見はかくもあろうし、彼方にはこれらすべてを読んだと言える教養人が(今でも)いるかもしれないが、しかし幾らなんでもこれでは取り付く島がないというものだ。ここに挙がっている本、『アエネーイス』、『デカメロン』、『神曲』、『ドン・キホーテ』から、『魔の山』、『戦争と平和』、『ユリシーズ』まで、全部を本気で読もうと思ったら、いったい何時間必要なのだろう。これでは「教養」を身につけるだけで一生かかってしまうかもしれない。もちろん、こういう網羅的で模範的なリストに意味がないと言うつもりはないけれど、普通の人のほうを向いたリストでないとははっきり言えるだろう。

 もっとも、私は本書を批判するつもりで書き出したわけではなく、本題はここからである。まず、「座談会 ”教養と本”」の中から、小林康夫の言葉を引用しておきたい。「本でなくてはいけない理由」という見出しの後。

小林 ビジュアルな情報はあっという間に感覚に入る。脳は瞬時のうちにそれを享受することができるわけですけど、文字言語はイメージとは違って、すぐには像が結ばれない。イマジネーションを働かして自分で像をつくり上げなくちゃいけないわけです。実はこれがすごく重要です。効率という意味では非常に悪い。文字から像までには時間的なラグがあって、そこで考えたり想像しないといけない。これはわずかな時間なんですけど、ずれているその間に自分の脳が想像力と思考力を働かせる。そこではじめて言語の運用能力が出てくる。本じゃなくちゃいけない最大の理由がそこにある。それは本以外に考えられません。本はある意味では時代おくれの遅いメディアなんだけど、その遅さのなかに途方もなく重要な精神の形成力がある。

 だから、本を読まないといつまでたっても自分のなかに思考や想像力が育っていかない。最終的には想像する、思考することができなくなる。この二つの重要な能力を失えば、まさに人間は弱体化するので、私はこのまどろっこしさに耐えてもらいたいんですよ。感覚できないものを感覚しようと努力し、よくわからないものを理解しようとして文脈を自分で構成する。この文脈を自分で構成することが、多分知的能力の最大の訓練だと思います。(100-101頁)

 だんだんと私も思うようになってきた。真の読書人たるもの、このご時世にもはや映画や漫画に遠慮している場合ではないのであって、「本でなくてはいけない理由」が存在することを、もっと喧伝するべきなのではなかろうか。これが一点。

 二点目。私が本書でもっとも面白く読んだのは、野崎歓「読む快楽と技術」、187-201頁であり、石井洋二郎「読んではいけない15冊」、203-216頁である。もちろん、ともに仏文の先生であってみれば、私個人の趣向にもっとも近いのは当然のことかもしれないが、贔屓目を抜きにしても、この二つの文章は魅力的だと思う。

 ここではとくに後者について触れるに留めるが、「読んではいけない15冊」のリストがなんとも魅惑的であり、私の探し求めているものの理想の形の一つはここにあるように思う。それはそうと、「もしかすると取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれない」(204頁)と言われれば、いよいよ気になる危険な書籍とは何か。以下に、ここに挙げられている15冊をリストして引用させていただきたい。

 なお、便宜上番号をふったが、これは原文にはないもので、特に順位を表すものではないことをお断りしておく。

  1. 大江健三郎『われらの時代』、新潮文庫
  2. ヘンリー・ミラー『北回帰線』、大久保康雄訳、新潮文庫
  3. ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』(上下巻)、生田耕作訳、中公文庫
  4. フョードル・ドストエフスキー地下室の手記』、江川卓訳、新潮文庫
  5. 埴谷雄高『死霊』(I-III巻)、講談社文芸文庫
  6. フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラ』(上下巻)、吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫
  7. マルキ・ド・サド悪徳の栄え』(上下巻)、澁澤龍彦訳、河出文庫
  8. ジョルジュ・バタイユ眼球譚』、生田耕作訳、河出文庫
  9. 谷崎潤一郎『鍵』、中公文庫
  10. ウィリアム・フォークナーサンクチュアリ』、加島祥造訳、新潮文庫
  11. ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』、澁澤龍彦訳、河出文庫
  12. アルチュール・ランボー『地獄の季節』、小林秀雄訳、岩波文庫
  13. 原口銃三『二十歳のエチュード』、角川文庫/ちくま文庫
  14. トーマス・マンヴェニスに死す』、高橋義孝訳、新潮文庫(『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』)
  15. ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』、石井洋二郎訳、ちくま文庫

(『教養のためのブックガイド』、小林康夫/山本泰編、東京大学出版会、2005年、203-216頁より作成)

 それぞれの書籍についての解説が気になる方には、ぜひとも本文をあたってほしい。

 個人的な話をすれば、私自身も若い頃には刺激と衝撃を求めて本を探したものだけれど、結局、ここに挙げられている作品の多くを読み逃したまま今に至ってしまった。リストを眺めていると、自分の読書遍歴の「健全さ」が気恥ずかしいような、残念なような気分になる。二十歳の頃に出会っていればよかったのにと思う一方、もしそうだったらと想像すると、やはりなんだか心配にもなってくる。はたして無事に生き残れただろうか?

 それを読んでしまったために今ある自分を揺さぶられ、突き崩され、解体され、その結果多少なりとも以前の自分とは異なる自分を発見するのでなければ、いったい人は何のために本を読むのでしょう? ここで紹介したかったのは、もっぱらそういった「美しき惑い」へと読者をいざなう反・啓蒙的な書物なのです。(215頁)

 もちろん読書に遅すぎることはないはずで、今からでも読めばいいのだ。今ならもう大丈夫と油断していると、「自分がそれまで進んできた道を踏み外してしまうきっかけになるかもしれない」(204頁)。そう考えると、決して余裕をもって笑っていられるようなリストではない(かもしれない)。

 

 Christophe Maé クリストフ・マエが2019年10月にアルバム La Vie d'artiste 『芸術家の人生』を発表。その中から "Les Gens"「人々」。

www.youtube.com

Et y'a des gens heureux

Des vies tristes qui dorment dehors

Et y'a des gens heureux

Et d'autres qui brassent de l'or

("Les Gens")

 

そして幸せな人たちがいる

外で眠る悲しい人生がある

そして幸せな人たちがいる

富をあやつる者たちもいる

(「人々」) 

『危機に立つ東大』/ガエル・ファイユ「僕は旅立つ」

『危機に立つ東大』表紙
 タイトルを見て最初は「石井先生がそんな本書いちゃだめー」と思ったが、ファンなので黙って購読。

 石井洋二郎『危機に立つ東大 ――入試制度改革をめぐる葛藤と迷走』、ちくま新書、2020年

 実際に読んでみれば、もちろんこれは時流に乗った浅薄な煽り本などではまったくなく、その正反対に位置する、明晰で確固たる批評の書であった。この著者によってこそ書かれるべき、またこの著者によってしか書かれえなかった本だと言うべきかもしれない。

 本書は、「秋入学問題」、「文系学部廃止問題」、「英語民間試験問題」、「国語記述式問題」という、近年に大学業界を揺るがした事件を題材にしてはいるが、いたずらに「悪役」を突き止めて溜飲を下げることを目的としていない。それぞれの事件の背後に潜む誤謬を剔抉して分析した上で、より全体的で深刻な問題として、今の社会に「人文知」軽視の風潮が見られるのではないかと問うものである。

 したがって、本書第2章において、従来の文系(人文科学・社会科学)と理系(自然科学)という広く行きわたっていながら、実際は恣意的で不正確な分類を改め、「人文知」(人文学)と「科学知」(人間科学・社会科学・自然科学)とに分類し直すこと(79頁)、その上で「人文知」を「人間のあらゆる知的な営みを貫く普遍的な基層のようなもの」(106頁)と捉えるべきではないかという著者の提言はとくに重要だ。この分類が普及すればいいと、私は心から思う。そしてここでいう「人文知」は、ヨーロッパの伝統的な「リベラルアーツ」と同種のものと位置付けられる。今日の大学教育に求められるリベラルアーツは、「獲得したさまざまな知識や技能を具体的な個々の課題に応じて動員し、それらを有機的に関連させながら、既成の限界や制約を乗り越える能力、さらには自由な発想で新たな展望を切り拓く能力」(110頁)だと著者は述べている。

 「人間の知的営為を支える普遍原理としての人文知を教育の場に定着させることに努めなければならない」(111頁)という言葉を、私も大学人の端くれとしてしっかり胸に留めなければと思う。私にはなんとも力不足な大きな課題かもしれないが、それを新年の誓いとしたい。

 

 新年なので、旅立ちの歌を。Gaël Faye ガエル・ファイユの "Je pars" 「僕は出発する」。2013年のアルバム Pili pili sur un croissant au beurre 『バター付きクロワッサンの上のピリーナッツ』所収。

 ガエル・ファイユはブルンジ出身。13歳の時、内戦を逃れてフランスに渡ってきた。ウィキペディアによれば今はルワンダ在住とか。ちょっと訳に自信が持てません。

www.youtube.com

Je pars, parti pour la vie
Je pars, viens avec moi si t'as envie
Je pars pour la saison des pluies
Je pars, hier demain et aujourd'hui

 

Je pars, parti pour la vie
Je pars, viens avec moi si t'as envie
Je pars, pour un rayon d'ombre
Viens retrouver Colombe mon cœur mort sous les décombres

("Je pars")

 

人生に向けて僕は旅立つ 旅立った

僕は旅立つ その気があるなら一緒に来いよ

僕は雨季に向けて旅立つ

僕は旅立つ 昨日、明日、今日と

 

人生に向けて僕は旅立つ 旅立った

僕は旅立つ その気があるなら一緒に来いよ

僕は陰った光に向けて旅立つ

〈ハト〉を見つけに来いよ 瓦礫の下で死んだ僕の心

(「僕は旅立つ」)

『林檎の樹』

『林檎の樹』表紙

 ゴールズワージー『林檎の樹』、法村里絵訳、新潮文庫、2018年

 大学を卒業した5月、徒歩旅行に出かけたフランク・アシャーストは、足を痛めて歩けなくなり、近くの農場に泊めてもらうが、そこで出会った娘ミーガンに恋に落ちる。二人は真夜中、花咲く林檎の樹の下で逢引きをし、フランクは彼女に一緒に駆け落ちしようと言い、金を下ろしてくるために一旦、町へと引き返すが……。

 原著は1916年に刊行。下手をすれば鼻持ちならない話になりかねないのに、しっかり最後まで読ませてしまうのは、自然豊かな情景を濃密に描き出せる筆力と、主人公の心理の変化を的確かつ辛辣に辿ってみせる分析力のお蔭だろう。前者については、なんといっても林檎の樹の下での逢引きの場面。動物たちの鳴き声、息づく林檎の花、すべてがあまりにも美しい。

まわりでは、月の魔法にかけられた樹々が枝を震わせている。精霊の存在を感じさせるそんな樹々に囲まれて立っているうちに、アシャーストはすべてに確信が持てなくなってきた! これは、この世の風景ではありえない。ここは現に生きる恋人たちにはそぐわない。この場にふさわしいのは、神と女神、ファウヌスとニンフだけ。アシャーストと田舎育ちの小娘が、こんな場所で忍び会ってはいけないのだ。(71頁)

 まさしく「春と夜と林檎の花」(111頁)の魔法にかかったかのような夢幻的な場面であり、それがあまりに夢のようであるだけに、ひとたび「現実」に立ち返った主人公は、時の流れとともに、自分がそこへ帰ってゆくことが不可能であることを自覚せざるえなくなる。彼は彼として精一杯に誠実であり、彼を追って町に出てきたミーガンの姿を認めた時には、たまらず彼女を追いかけてゆく。しかし、彼女を前にしたところで、その歩みは遅くならざるをえない。結局のところは、身分違いの恋によっては、自分も彼女も幸せになれはしないのだという苦い認識が、彼にミーガンと一緒になることをためらわせ、自責の念に苛まれながらも、アシャーストは彼女を見捨てることになる。「農場に戻らずにいるのは恐ろしかった! しかし、戻るのは……もっと恐ろしかった!」(111頁)という一文に、彼の置かれた状況が見事に要約されている。

 これは幻滅の物語であるが、その幻滅には自分に対するそれも含まれているところがいかにも苦く、この物語を、いたずらに感傷的なものに終わるのを防いでいるだろう。

アシャーストは自分を憎み、ハリディ兄妹を、そして彼らがかもしだす、健全で幸せな、いかにも英国の家庭らしい雰囲気を、憎んだ。なぜ彼らはここに居合わせて、ぼくの初めての恋を台無しにし、自分がありきたりの女たらしにすぎないことを思い知らせてくれたのだ? あの色白の控えめな美しいステラは、どんな権利があって、ミーガンとの結婚はありえないとぼくに知らしめてくれたのだ? 何もかもをくもらせ、ぼくに失ったものを切望するという耐えがたい苦痛を与え、こんなにもみじめな思いをさせる、どんな権利が彼女にあるというのだ?(124頁)

 そのステラと後に結婚することになるのだから、そこには大きな皮肉がある。アシャーストは、いわば人生の門出において大きな挫折を味わうのだ。その経験は、自己の真実を教えることによって、彼の成長に寄与したと言えるかもしれないが、しかしそのために払わされた代償は決して小さくない。ひとたび失われてしまった無垢さは、二度と取り戻すことはできないのである。

 だからこれは青春の喪失の物語であり、主人公の抱く悔恨は、いま青春のただ中にいる者にも、かつて青春を過ごした者にも、等しく胸に迫るものを持っているのではないだろうか。

 

 2019年に書いた記事はぜんぶで36。今年はそれなりにコンスタントには書けて、昨年の19よりは多いが、2017年の40には届かず。来年は40越えを目標としたい。