えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

学習のツボ/「羊飼いの娘がいました」

「羊飼いの娘がいました」挿絵

 ご縁あって、

第27回 大人も使える「子どもの歌」(1)(中級) | 仏検のAPEF/公益財団法人フランス語教育振興協会

第28回 大人も使える「子どもの歌」(2)(中級) | 仏検のAPEF/公益財団法人フランス語教育振興協会

を書かせていただく。タイトル通り「子どもの歌」は大人の外国語学習にも有効ですよという内容の記事。少しでも誰かのお役に立てば嬉しいです。

(上の絵はそこでも紹介した Chansons de France pour les petits Français 『小さなフランス人のためのフランスの歌』より。Source Gallica.bnf.fr / BnF

 ところで、その原稿の最後に、「一見無害な「子どもの歌」の背後に、大人の世界が透けて見えることもあるでしょう」と記した。

 実際、そういう話はいろいろあるわけで、たとえば「澄んだ泉へ」"A la claire fontaine" の「バラの花束」(あるいは「バラのつぼみ」)とは何の象徴か、とか、「月明かりの下で」"Au clair de la lune" の3・4番の歌詞はなんだか怪しい、とかはとても有名なものである。

 あるいはまた、一見無害どころか、そもそもどう見てもひどいのではないかと思われる歌もある。「羊飼いの娘がいました」"Il était une bergère" などはその筆頭に挙がるだろう。

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 はなはだ無粋ではあるが、繰り返しを省略して、意味だけを訳出するとこうなる。

Il était une bergère
Qui gardait ses moutons
Elle fit un fromage
Du lait de ses moutons
Le chat qui la regarde
D'un petit air fripon
Si tu y mets la patte
Tu auras du bâton
Il n'y mit pas la patte
Il y mit le menton
La bergère en colère
Tua son p'tit chaton
Elle fut à confesse
Pour demander pardon
Mon père je m'accuse
D'avoir tué mon chaton
Ma fille pour pénitence
Nous nous embrasserons
La peine étant si douce
Nous recommencerons

(Il était une bergère)

 

羊飼いの娘がいました

羊を見張っていました

彼女はチーズを作りました

羊のミルクで作りました

あんたが脚を出したら

杖でぶったたくからね

彼女を見ていた猫は

いたずらっ子な様子で

脚は出さなかったけど

顎を出しました

羊飼いの娘は怒って

子猫を殺しました

彼女は神父のところへ行き

許しを乞い願いました

神父さま、罪を認めます

子猫を殺してしまいました

わが娘よ、改悛のために

キスしあいましょう

改悛っていいものね

もう一度繰り返しましょう

(「羊飼いの娘がいました」)

  ずいぶん無茶苦茶な歌詞だ。猫を殺しちゃうのもひどいが、最後の落ちにもけっこう驚かされる。子どもの世界はフリーダムだということなのか。

 動画に付されたコメントを見ると、フランス人の大人も怒ったりしているのである。

 ところが、話はそれだけで終わらない。そこでもちゃんとコメントしている人がいるけれども、フランス語の辞書を引くと "laisser aller le chat au fromage"「猫をチーズの方へ行かせる」という表現は、古くは「(女が男に)体を許す」という意味だったと書いてあるではありませんか。

 なるほど、ふむふむ。すると一体何がどうなるのだろうか?

 というような話は、さすがあちらに記すのもはばかられたので、ここにこっそり(なのかしら)記してみた次第です。

『ニュクスの角灯』第6巻/セルジュ・ゲンズブール「枯葉によせて」

『ニュクスの角灯』第6巻表紙

 高浜寛『ニュクスの角灯』第6巻、リイド社、2019年

 この『ニュクスの角灯(ランタン)』は、明治11年1878年に始まる。舞台は長崎。骨董屋「蛮」に奉公に出た美世は、パリ万博で西洋の品を買い付けて帰国した青年、百年と出会う。美世は商売の基礎を学びながら、きらびやかな品々に触れることで、海の向こうの異国の世界に思いを馳せるようになる……。

 という感じで物語は始まっていくのだけれど、モモこと百年が、今度は日本の品をパリに売りに行くと決めるところから、話は長崎とパリとで同時に進行してゆくようになる。モモには実は若い時に分かれた恋人ジュディットがいて、今では彼女は高級娼婦、そして結核に侵されている、という辺りはいささか『椿姫』的でもある。

 それはともかく、4巻において、モモと友人のヴィクトワールは西洋で売れる新しい商品はないかと考え、浮世絵に目をつける。では誰がそれを買ってくれるか、という時に名前が挙がるのが、なんと、と言うべきか、当然、と言うべきか分からないが、とにかくエドモン・ド・ゴンクールなのだ。そこで彼らはゴンクールに出会うべく、「ロンビギュ劇場」で『居酒屋』の初日に狙いを定めるのである!

(1879年)一月十八日 土曜日

 『居酒屋』の初日。

 作品に共感し、やたらに拍手する観客のなかで、陰にこもった反感はおもてに出てこようとしない。歳月は何と世代を変化させてしまったことだろう。弟のことを思って寂しくなってしまったので、廊下ででくわしたラフォンテーヌに、思わず、「これは『アンリエット・マレシャル』の時の観客とは違うねえ」といわないではいられなかった。あらゆることが受け入れられ、喝采され、そしてただ、最終場面で、おそるおそるの気の弱い口笛が二、三回あった。それだけが、圧倒的な熱狂のなかでの唯一の抗議であった。

 ゾラの取巻き連中の打ち明けたところでは、滑稽な箇所をいくつかビュスナックまかせにしたほかは、ゾラ自身が全部脚本を書いたそうだ。してみれば、彼こそがまさしくこの芝居の作者だ。そしてまたもや演劇上の革命を試みようとはしなかったらしい。というのは、――労働者の環境そのものはすでにこれまで何度も芝居になっているのだから、勘定に加えないとして――脚本はタンプル大通りの古めかしいトリックや長広舌、センチメンタルなきまり文句で出来上がっているからだ。

(『ゴンクールの日記』(下)、斎藤一郎編訳、岩波文庫、2010年、93-94頁)

 漫画と直接は関係ない引用がつい長くなった。つまりこの1879年1月18日のアンビギュ座が漫画の舞台となり、そこにゴンクールが登場してくるのである。

 いやもう、ただ単にそのことに感動したというだけの話なのではある。そして5巻の末尾で、モモたちは、オートイユのゴンクール宅を訪問する。そこで待ち受けるのは、「こちら右からアニエス ギュスターヴ アルフォンス」(208頁)で、なんとフロベールとドーデまでがゴンクールと一緒に浮世絵を見て大喜びをするのである(アニエスが誰なのか分からない。誰だろう)。引き続き6巻にも場面は続き、春画の説明に感心したりしている。

  うーん、夢とは麗しいものだ。フロベールもドーデも恐らく浮世絵にさほど関心はなかっただろう、などということはもちろん言うも野暮な話で、この三人が仲良く講釈に聞き入っている場面はなんとも微笑ましい。

 とまあ、ごく私的な感慨はともかくとして、『ニュクスの角灯』は、このたび6巻で綺麗に完結。物語をきっちりまとめあげる、作者の技量には実に堂々としたものがある。

 思わぬところで出くわしたベル・エポックのパリの情景に、すっかり夢見心地にさせてもらいました。

 

 秋の歌の王道中の王道。セルジュ・ゲンズブール Serge Gainsbourg の「枯葉によせて」"La Chanson de Prévert" (1962)。RTSのアルシーヴ、1962年の映像。

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Et chaque fois les feuilles mortes

Te rappellent à mon souvenir

Jour après jour

Les amours mortes

N'en finissent pas de mourir

("La Chanson de Prévert")

 

そして枯葉がいつも僕の記憶に

君を蘇らせる

来る日も来る日も

過ぎ去った恋が

死に絶えてしまうことはない

(「枯葉によせて」)

BD『年上のひと』/クリストフ・マエ「秋」

『年上のひと』表紙

 バスティアン・ヴィヴェス『年上のひと』、原正人訳、リイド社、2019年

BD『ポリーナ』/ザジ「愛の前に」 - えとるた日記

にも書いたけれど、この人はとにかく絵が上手い。デッサン力が不動の安定感を保っており、省略を利かせた描写はとても洗練されている。また、彼のカット割りはとても映画的だ。

 『年上のひと』の主人公はアントワーヌ、13歳、三歳下の弟がいる。家族は夏のヴァカンスに別荘にやって来るが、そこで、16歳の少女エレーヌと一週間、一緒に過ごすことになる。二人は次第に仲良くなってゆき、その過程で年上のエレーヌは、飲酒や夜遊びにはじまり、性的な事柄にいたるまで、アントワーヌを青年の世界に導いていく……。

 これはいわゆる、一夏の甘くも苦い初恋の物語。いやもう、十代でこんなのを読んだら悶絶してただろうなあ、と、そいういうお話であった。ごく個人的には、『ポリーナ』で世界がぐっと広がったのに比べると、やや物足りなく思うところがないでもない。しかしながら、語りの技術とセンスの良さには一層磨きがかかったかのようで、まったく惚れ惚れするような出来栄えだと思う。ここには、リアリティとファンタスムの絶妙にして強固な結合があり、そのあまりの自然さにすべてを説得されてしまう。

 バスティアン・ヴィヴェス、まったく怖い物なしの才能だ。

 

 秋の歌をもう一曲。クリストフ・マエ Chrsitophe Maé の「秋」"L'Automne"は、アルバム『幸福がほしい』 Je veux du bonheur (2013) に収録。動画はないので音声のみ。

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Quand vient la saison de l'automne

Tout me rappelle que je l'aime encore

Alors je laisse mon amour à l'automne

Et dans ses dentelles tous mes remords

("L'Automne")

 

秋という季節がやって来る時

すべてが思い出させる 僕がまだ彼女を愛していることを

それで 僕は自分の恋を秋に置き去りにする

そして そのレースの中に 僕の後悔のすべてを

(「秋」) 

『アニメーション、折りにふれて』/テテ「秋がやってきたから」

高畑勲『アニメーション、折りにふれて』

 ミッシェル・オスロの話の続き。

 高畑勲に私がもっとも感謝していることは、ミッシェル・オスロの作品を日本へ紹介してくれたことだ。

 高畑勲『アニメーション、折りにふれて』、岩波現代文庫、2019年

に収録されている「『キリクの魔女』の世界を語る」という2003年のインタヴューの中で、この作品について語られているのを読んで、なるほどと思うことが多かった。

 ここで高畑は、「思いやり」の映画と「思い入れ」の映画という二分法を使って、アニメ映画を語っている。

 観客が能動的に、想像力を働かせて「思いやる」必要があるタイプの映画では、観客は主人公を待ち受けている危険が分かっていて、「ハラハラ」しながらその行く末を見守る。それに対して、観客を主人公と一体化させ、「思い入れ」させるタイプの映画では、観客は、何が起こるか分からない展開を「ドキドキ」しながら待ち受ける。巻き込まれた観客は受け身のままで、ものを考えなくても済む。

 高畑自身は一貫して、見る側の思考する余地を残す「思いやり」タイプの映画を心がけてきたとして、彼は続けて述べている。

  日本のアニメーションは、娯楽としては超一流になり、見終わって「よかった!」という快楽を与えるけれども、現実を生きていくうえでは、それはなんの力も持っていないと思うんですね。役に立っていないと思う。いま流行りの「癒し」とかいうものにしかならない。現実を生きていくときに、もしもドキドキしながら進んでいても、それでは結局足が前へ出なくなって進めなくなる。だって、次に何が出てくるか何も分かっていないわけだから。現実に生きていくためには、自分で考えなくちゃいけない。たとえばこの穴はどうなっているのだろうか、とか。もし分からなければキリクのように「どうして?」と聞いたり探求したりせざるを得ない。そして今度はどのようにやらなくちゃいけないかを考えて、そして行動する。それが現実を打開する方向ですよね。生きていく方法です。

(高田勲『アニメーション、折りにふれて』、岩波原題文庫、2019年、268頁

  とても誠実で、とても真面目な人の言葉だ。真面目すぎると思わずにはいられないくらいに。ここには宮崎駿に対する批判がはっきりと窺われるという点でも、興味深い言葉だと思う。もう一か所、引用。

 ところで今、現実世界は複雑怪奇なんて言いましたが、アニメの作品世界のほうもやたら複雑怪奇なものになっているんです。リアリティを実感させるための目くらましですね。それに対してこの『キリク』は見事に単純です。しかし、ファンタジーでもあるにもかかわらず、現実を生きていくうえでの、イメージトレーニングになるように作ってある。キリクは小さくて力もない。走るのが速いだけ。それでできることを探すんです。分からないことがあれば聞くし、「なぜ、どうして?」というのがこの作品の惹句になっていますが、それだけじゃなくて、どうしていくかということをいつも考えている。そうやって一歩一歩やっているから、僕としては見終わったあと、非常にすっきりした映画だったんです。本当の喜びがあった。

(同前、269-270頁) 

  いかにも、『キリクと魔女』の素晴らしさは、作品に投影された監督の人間観、人生観の、深みと確かさに多くを負っているだろう。大げさな言葉かもしれないが、そこには確かに叡智がある。

 そして、ミッシェル・オスロ監督は、まさしく高畑勲にこそ見いだされるべきだったのだということを、このインタヴューを読んでしみじみと納得した。その幸運な出会いを、改めて有難いことだと思ったことだった。

 

 この十年、秋になると一度は聴く曲。テテ Tété の「秋がやってきたから」"A la faveur de l'automne"は、2003年の曲。2013年の演奏。

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A la faveur de l'automne

Revient cette douce mélancolie

Un, deux, trois, quatre

Un peu comme on fredonne

De vieilles mélodies

 

A la faveur de l'autome

Tu redonnes

A ma mélancolie

Ses couleurs de super-scopitone

A la faveur de l'automne

(A la faveur de l'automne)

 

秋がやってきたから

あの甘いメランコリーが戻ってくる

1、2、3、4と

ハミングするように

古びたメロディーを

 

秋がやってきたから

君がまた与えてくれる

僕のメランコリーに

古びたその色合いを

秋がやってきたから

(秋がやってきたから)

『ディリリとパリの時間旅行』

『ディリリとパリの時間旅行』

『ディリリとパリの時間旅行』、ミッシェル・オスロ監督、2018年

 待望のオスロ監督の新作を映画館にて鑑賞、感無量。

 時は1900年、万国博覧会の「人間動物園」に出演していた、ニューカレドニアからやってきたカナカ族の少女ディリリは、なんと故国で(当時、流罪中だった)ルイーズ・ミシェルに習っていたのでフランス語を話せる。彼女は、三輪車の配達人オレルとともに、少女たちを誘拐する「男性支配団」の謎の解明に乗り出す……。

 ディリリとオレルは三輪車でパリの町を駆け巡るのだが、そこで凱旋門ヴァンドーム広場、ルーヴル、ノートル=ダム、といったモニュメントを次々と巡ってゆく。監督が4年かけて撮り貯めた写真に基づくというその背景画が、とにかく美しくて逐一驚かされっぱなし、それが本作の第一の見どころだ。「夢のような」とか「目を瞠る」とかいう言葉は、すり切れた紋切型でしかないけれど、本当に文字通りに茫然と見惚れるばかりの画面が、次から次にと現われてきて、休む暇もないほどだ。

 そして二人は行く先々で、当時存命だった著名人に出会ってゆくのだが、これが凄い。ルナンに始まり、ピカソマチスルノワール、モネ、マリー・キュリーコレット、サティ、トゥールーズロートレック、まだ無名なプルーストロダンカミーユ・クローデルサラ・ベルナール……、と、これだけでもすでに錚々たる面々だが、それどころの話ではなくて、その数、総勢100名にもなるというから大変だ(気がつかなかった人物が色々いて悔しい)。いや、もう、これは19世紀、ベル・エポック期のフランスに関心を持っている人間には、まさしく「夢」そのもの、興奮と悦楽に満ち満ちた、奇跡のような時間が流れつづける、そういう稀有な映画である。

 もっとも、ミッシェル・オスロが素晴らしいのは、決してその絵だけではない。『キリクと魔女』、『アズールとアスマール』から『夜のとばりの物語』まで、この監督は常に、物語を勧善懲悪に落とし込むことがなかった。善悪二元論を解体し、異なる解決の道がありうると示すこと。一方的な見方から解放された先に、他者に対する理解と共感が存在すること。そうしたことを、説教臭くなることを回避しながら、なおかつ雄弁に語ってみせることができたところに、この監督の類まれな誠実さと、子どもに向けたアニメーション製作者としての揺るぎない信念が存在していた。

 実のところ、その観点からすると、本作はどうなのだろうかという一抹の思いがないではない。確かにこの作品でも、監督は敵を「退治」する場面によって物語を終わらせはしなかった。また、ルブフという人物が変化する様には、人間を一元的に捉えない監督の思想がはっきりと投影されている。それでも、これまでの作品に比べると、いささか物足りない思いが残るように感じたのではある。 

 だが、そんな繰り言は、あの圧倒的な陶酔感に比べれば何ほどの意義も持ちはしない。まったくもって、このあまりにも美しい夢に、いつまでも浸っていたいと思わずにはいられない。

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『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』/バルバラ「褐色の髪の女性」

『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』

 『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』、バンジャマン・レネール、ステファン・オビエ&ヴァンサン・パタール監督、2012年

 これについては以前からぜひ一言記しておきたかった。

 「くまのアーネストおじさん」は、ガブリエル・バンサンによる絵本のシリーズで、アーネストとねずみのセレスティーヌの温かい交流の様が愛おしい作品。それが2012年にフランス=ベルギー=ルクセンブルクでアニメーション映画になった。もっとも、映画化といっても原作をなぞったものではなく、脚本は人気作家のダニエル・ペナックによる。主人公の造形も絵本とは実はだいぶ違っている。

 それはそれ、この映画はとてもよく出来ているので、ぜひこの素晴らしさをもっと多くの人に知ってほしいと思わずにいられない。

 まずは、なんといっても絵がいい。原作にあわせて、動物たちと背景は水彩画タッチで描かれているが、その絵柄が、ノスタルジックな感じも漂わせつつ、上品で、優しく、あたたかみに溢れている。

フランスの伝統的なアニメーションは絵柄に力を入れる分、動きには乏しいことが多かったように思うが、本作は動的なシーンも多く、その動きはしなやかで、実に生き生きしている。そこにはジブリをはじめ、日本のアニメーションの影響がはっきりと窺われるが、絵柄と動きがとてもよく融合している。画面の切り取り方にもその都度工夫が見られ、飽きさせずに物語が進行してゆく。

 そして物語が素晴らしい。世界は地上と地下に二分されており、地上はくまが住み、地下にねずみが住み、両者は敵対している。そこで、それぞれの世界において、はみだし者で居場所のない、くまのアーネストと、ねずみのセレスティーヌが出会う。ふたりはやがて仲良くなるが、両方の世界の警察がふたりの行方を追いかけていた……。

 ペナックの脚本は模範的なまでに律儀に、地上と地下とを対比させ、交互に物語を語ってゆく。そのシンメトリーの構図が、とてもよく考えられていて見事だ。そして、それぞれの世界で居場所を持てないふたりが、互いを大事に思うようになってゆく。その様子がいじらしくも、微笑ましいのである。なんとも模範的な構成なので、大人の鑑賞者が感涙にむせんだりはしないだろうけれども、十分に納得し、満足して観終えること疑いないと思う。構図、シーンの構成から、表情や声優の配役を経て、エンディングのトマ・フェルセンの歌に至るまで、これは、実にまったく非のつけどころのない佳作だと断言したい。

 くまはくま、ねずみはねずみ。互いに相容れることはできないと思われている「社会」に対し、アーネストとセレスティーヌは抗議の声を上げ、そして言う。自分たちは一緒にいたいのだと。異なる者どうしの共生という本作のメッセージは、紛れもなく今の世界にとって最も重要なものの一つに他ならない。

 そもそも、なぜくまとねずみなのか。その問いに答えるのは、さして難しいことではない。最も大きなものと最も小さなもの。くまとねずみとは、まったく異なるもの、正反対のものの象徴に他なるまい。だから、他者とのあたたかい共生という主題は、もちろんガブリエル・バンサンの原作の根幹に根づいているものだ。ペナックの脚本はそれを作品の中心に置くことで、原作者の思いをきちんと掬い上げてみせたのである。

 

 実はその後、2017年に「くまのアーネストおじさん」は、短いテレビアニメ(1話13分)のシリーズが制作され、今年、日本版のDVD(6巻)が発売された。絵柄は多少異なっており、アーネストおじさんの声優も替わっている(品が良くなったと言おうか)が、全体としてなかなかよく出来ているので、こちらも広く知られるといいなと思っている。

『くまのアーネストおじさんとセレスティーヌ』DVD発売!|DVD公式サイトーGAGA

 

 バルバラの話をしていると、隔世の感があってくらくらするやら、気恥ずかしいやらではある。これも目まいがしそうに懐かしいジョルジュ・ムスタキとのデュエット「褐色の髪の女性」"La Dame brune" は、1967年の作。この映像もその頃か。

 バルバラくらい人間ばなれしていると、こんな歌でも歌えてしまう。彼女以外でこの歌が歌える歌手をとても思いつかない。いやもう大変。最初の2節だけ拙訳。

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Pour une longue dame brune

J’ai inventé

Une chanson au clair de la lune

Quelques couplets

Si jamais elle l’entend, un jour

Elle saura

Que c’est une chanson d’amour

Pour elle et moi

 

Je suis la longue dame brune

Que tu attends

Je suis la longue dame brune

Et je t’entends

Chante encore au clair de la lune

Je viens vers toi.

Ta guitare, orgue de fortune

Guide mes pas

("La Dame brune")

 

長身の褐色の髪の女性のために

僕は作った

月明かりの下の歌

いくつかの節

いつか彼女が聴いてくれたら

分かるだろう

それが愛の歌だと

彼女と僕のための

 

私は長身の褐色の髪の女性

あなたが待っている

私は長身の褐色の髪の女性

私は待っているの

月明かりの下でもっと歌って

あなたのもとへ行くわ

あなたのギター、間に合わせのオルガン

道を教えて

(「褐色の髪の女性」)

『シェリ』/バルバラ「ゲッティンゲン」

『シェリ』表紙

 コレットシェリ』、河野万里子訳、光文社古典新訳文庫、2019年

 私は個人的にはコレットにも『シェリ』にもなんの関心もないのだけれど、そういう人間の言うことだからぜひ信じていただきたいと思う。

 コレットは本物だ。骨の髄からの小説家だ。『シェリ』はまぎれもない傑作だ。

 小説は頭(だけ)で書けるものではないということを、これほどしみじみ感じることはなかなかない。49歳の高級娼婦レアに、25歳の美青年、愛称シェリが「くれよ、これ、この真珠のネックレス!」と声をかける冒頭から、二人の人物の姿がありありと立ち現れてくる様に圧倒される。むき出しのレアの腕のなまめかしさ、ネックレスをかけてふざける絶世の美青年の肌や、歯並びの艶。身体を捉える感性の細やかさと、そこから溢れ出る官能性に、冒頭の数ページだけでくらくらする思いだ。少しばかり引用しよう。

 彼は、横たわっている女の上にかがみ込むようにしながら、小さく並んだ歯と唇の濡れた裏側も見せて、挑発的に笑った。レアは起き上がると、ベッドの上にすわった。

「いいえ、言わない。だって言っても信じないでしょ。ねえ、そういうふうに鼻に皺を寄せて笑うの、やめられない? 鼻の脇に三本皺ができたら、さぞうれしいんでしょうね」

 たちまち彼は笑うのをやめ、肌を気づかう熟女のような巧妙さで額の皺を伸ばしながら、顎の下にもぐっと力を入れた。それからふたりは、敵意をにじませるように見つめ合った。彼女は下着やレースの間に肘をついて、彼はベッドの端に横ずわりして。

〈ぼくに皺ができる話をするなんて、まったく、このひとにお似合いだ〉と彼は思い、〈どうしてこの子は笑うと醜くなるのかしら? ふだんはほんとうに美しいのに〉と彼女は思った。(9頁) 

 意外性に富みながらも人物像をしっかり捉えた台詞は、二人の関係性をも見事に浮き彫りにする。姿勢や仕草の描写にも隙がなく、まったく違うことを考えている二人の思いのコントラストが、それぞれのキャラクターをさらに鮮明にしている。明晰かつ繊細、簡潔にして情感に溢れた文章は、見事というよりない。

 『シェリ』は、50歳を目前にした高級娼婦レアと、ライヴァルだった女性の息子シェリとの関係を描いた恋愛小説。シェリを子どもの時から知っていたレアだが、彼が20歳の時から恋愛関係を続けてきた。しかしシェリと大金持ちの娘エドメとの結婚が決まり、二人の関係が終わりになることは、双方にとって自明のことだった。

 そのはずだったのだが、実はそうではなかった、というところから物語は進んでいく。新婚旅行から帰ってきたシェリは、やがて喪失感に耐えられずに、妻を捨てて家を出る。一方、レアもまた心の空白を紛らすために旅に出る。長旅から帰ったレアは、新しい生活を切り開こうという意志を持っているが、しかしシェリを失った寂しさを拭い去ることができないでいる……。

 この小説においては、コレットはすべての登場人物に対して「客観的」な立ち位置に立っており、その意味では19世紀小説的(フロベール的と言うべきか)である。主人公はレアに違いないだろうが、新婚のシェリエドマの関係(レアへの嫉妬)や、レアを失ったことに実は耐えられなかったシェリの煩悶にも焦点が当てられる。それぞれの場面が人物を立体的に浮き彫りにしているのはもちろんのこと、この作者の立ち位置と冷静な批評的視点が、この物語を感傷的な恋愛小説にせず、むしろ古典主義的と言いたいくらいに節度を保った美しいドラマに仕上げている。

 これが仮に五幕のドラマであれば、おおよそ次のように分けられるだろう。第一幕、結婚前のシェリとレア、第二幕、新婚夫婦、そしてレアの孤独、第三幕、シェリの彷徨、第四幕、レアの帰還、第五幕、二人の再会。こうしてみると、実に簡潔で、すべてが必然的に展開することがよく分かるのではないだろうか。二人がともに別れは何でもないことと思っていながら、実は互いにとって相手はかけがえのない存在であったことを思い知らされる。そのことに耐えられずにじたばたする青年と、気丈にじっと耐え続ける大人の女性。諦めきれない青年は、彼女の帰還を知って喜び、ついに彼女の元へやって来る……。ここからのいわば最終幕の展開の素晴らしさについては、もはや筆舌に尽くしがたいと言うよりない。

 シェリとの再会の喜びのあまりに、レアは彼女の「弱さ」を、初めてシェリに対して見せてしまう。そしてそのことが二人の関係に決定的な楔を打ち込むことになる。その彼女の失敗を招くのは、最初から常にテーマとして存在していた、レアに忍び寄る「老い」の自覚だ。いかに美貌を誇った高級娼婦といえども打ち勝つことのできない「老い」とは、神ならぬ人間には避けられない「宿命」であるだろう。その「宿命」にヒロインが打ち負かされるという意味において、この疑似五幕のドラマは、まさしく古典主義的な「悲劇」の様相を帯びるのである。もちろんレアが死んだりするわけではないが、しかしこの結末のなんと残酷で、そしてなんと美しいことだろう。いわばそこで、彼女の心は死を迎えるのだと言ってもいいかもしれない。

 コレットは『シェリ』において、驚異的なまでに瑞々しい感性と、厳格と言っていいまでの様式美とを見事に結合させることによって、フランス文学の伝統の上に堂々とその地位を主張する傑作を実現してみせた。と、こういう仰々しい物言いがまったく似つかわしくないような洗練と優雅さを振りまきながらに。

 どこまでも美しく、どこまでも聡明なレアに見惚れるように、『シェリ』とコレットの天才ぶりに、ほれぼれと魅了されずにはいられない。

 

  問答無用の名作ということで、バルバラ Barbaraの「ゲッティンゲン」"Göettingen" を挙げよう。INAのアルシーヴから、1967年の映像。最後の2節のみ拙訳。

 対立よりも融和を。敵意よりも寛容を。価値があるのはそれだけだ。

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 O faites que jamais ne revienne

Le temps du sang et de la haine

Car il y a des gens que j’aime

À Göttingen, à Göttingen.

 

Et lorsque sonnerait l’alarme

S’il fallait reprendre les armes

Mon cœur verserait une larme

Pour Göttingen, pour Göttingen.

("Göettingen")

 

おお、二度と戻って来させないで

血と憎しみの時を

だって愛する人がいるのだから

ゲッティンゲンには、ゲッティンゲンには

 

そして警報が鳴るとき

武器を取らなければならないなら

わたしの心は涙を流すでしょう

ゲッティンゲンのために、ゲッティンゲンのために

(「ゲッティンゲン」)