えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『人間の絆』

『人間の絆』上巻表紙

 モーム『人間の絆』(上中下)、行方昭夫訳、岩波文庫、2001年

 やっとのことで読み終える。3冊は私にとってはずいぶん長かった。原作は1915年刊。

 サマセット・モームには独特の冷静さというか冷淡さがあって、それ故に諷刺は抜群である一方で、どこか物足りなく感じさせる所以にもなるのだけれど、この作品の味わいはぜんぜん違う。作者自ら、「耐え難い思い出から、みずからを解放するために書いていた」(下巻、419頁)と述べている通り、粉飾されない生の感情がむき出しになっているという印象が強い。

 本作は自伝的小説であり、主人公フィリップ・ケアリの辿る道はモーム自身のそれとかなり重なっている。が、決して自伝ではなく虚構も多く含まれている。「作品中のどこが創作で、どこが事実であるか自分でも分からない」(同前)と作者自身が打ち明けている通りだ。

 それはつまりは「私小説」ということであって、実際、読んでいて受ける印象は日本の私小説に近いように思う。驚くのはとにかく全編「暗い」ことだ。フィリップは両親を早くに亡くし、牧師の伯父のもとで育てられるが、愛されずに孤独を抱えている。学校では足の障害を理由にいじめられるが、その情景はかなり陰惨なものだ。その後ドイツで学び、戻って来たところで年上のミス・ウィルキンソン相手に初恋を経験するが、そこには幻滅しかない。ロンドンで会計事務所に勤めるが長続きせず、次にパリに出て絵画の勉強をするが、二年の後に自分には才能がないことを悟って断念する。ここまでの展開、トーンはなんとも鬱々としている。画家になる夢を捨ててイギリスに戻り、医師になることに決めるのだが、医学の勉強をするなかで出会うのが悪名高いミルドレッドである。

 カフェのウェイトレスをしているミルドレッドにフィリップは恋に落ちるが、彼女は冷淡な態度を取り続ける。どうして自分が彼女に惹かれるのか分からないままに、フィリップは彼女の歓心を買おうと必死になる。だが、およそ恋愛において、どれだけ我慢しようと下手に出ようと、そのお蔭で事態が改善することなどありえるものではなかろう。フィリップがさんざんに相手に尽くした後、以前から馴染みの男と結婚するといって、ミルドレッドはさっさと去ってゆく。ここまでがいわば第一幕。

 第二幕は、ミルドレッドが当の男に捨てられたとフィリップに泣きついてくるところから始まる。妊娠中の彼女は出産間近だ。フィリップは入院から里子に出すための費用まで出してやり、ようやく彼女が自分のものになると胸躍らせるが、嬉しさのあまり彼女を自分の友人グリフィスに会わせたのが運の尽き。二人の仲はあっという間に燃え上がる。そこで見栄と意地にがんじがらめになったフィリップが、金を出すから二人で旅行に行けばいいと言い出す場面、その苦いことといったら実になんとも筆舌に尽くしがたい。

「ねえ、あの男と一緒に旅に出たらどうだい?」

「そんなことできるわけがないでしょ? あたしたちにはお金がないし」

「金は出してあげよう」

「え、あなたが出してくれるって?」

 彼女はすわり直して、彼を見上げた。彼女の目はきらきら輝き出し、頬には赤みがさしてきた。

「一番したいことからしてしまうってことさ。その後、きみはぼくのもとに戻って来るだろう」

 この提案をしてしまってから、苦痛に耐えられなくなったが、奇妙なことに、その苦痛が何か不思議な微妙な感覚を生んだ。(中巻、338頁) 

  自虐が昂じてマゾヒスムの域に達している。この一連の場面、切れば血が出るばかりの生々しさに慄然とさせられる。

 が、話はそこで終わらない。旅行から帰ってきたミルドレッドは、当然戻ってくるはずもなく姿を消してしまうが、後にフィリップは彼女に再会する。それも彼女が客引きをしているところを目撃するのである。ここからが第三幕で、フリップは彼女を自分の下宿に住まわせ、料理をしてもらうことに取り決める。この時点で彼女に対してもはや愛情を感じず、生理的嫌悪感すら覚えるのだが、哀れみと道義心に駆られて彼女を救おうとするのである。だが、(当然ながら)そのすべてがミルドレッドにとっては面白くない。彼女は自分からフィリップを誘惑するが、拒絶されたことに怒りを爆発させる。この復讐が実になんとも恐ろしいのだけれど、その内容は記さないでおくとしよう。

 一方的に惚れたほうが悪いと言えば悪いのには違いない。しかしフィリップ自身にとっても恋心はいかんともしがたいのであり、理性も理屈も役には立たない。ひたすらにすれ違い、屈従の先には不幸しか待っていないという地獄の状況が延々と続くが、これをモームスピノザから借りてhuman bondage「人間の束縛」と呼んだのだ。いやはや、なんとも暗いことだ。

 読んでいてなにが辛いといって、ミルドレッドという女性はどっからどう見てもぜんぜん魅力的ではないのである。彼女はロウアー・ミドル・クラスの出身で、上品ぶっているが実のところは低俗で愚かで身勝手で酷薄。どうしてフィリップがそこまで彼女に尽くすのか分からないが、当人さえ分からないことだから、これはこれで仕方がないのだろうか。しかしこうも繰り返し彼女の下劣な姿を見せられると、こちらとしてはどうしても「ミゾジニー」という言葉を思い浮かべざるをえなくなってくる。

 最終的にフィリップはサリーという女性と結ばれる。サリーは身体面では健康で肉感的、階級は低いが愚かではなく、慎み深くしとやかである。申し分ないといえばそうかもしれないが、要するにミルドレッドの正反対の女性像であり、それが男性にとって無害で癒しをもたらしてくれる母性に溢れたもの、ということになると、ここにあるのはあからさまに19世紀的な二分法だと認めざるをえない。聖女か娼婦か、母性か性愛か、どちらかのタイプに女性を分断する、典型的な男性中心主義的な女性観だ。別に私はモームを批判したいわけではないのだけれども、この点はどうにも見過ごせないように思われるのである。

 階級意識と女性観。この作品が商業性をある程度度外視して書かれた「私的」なものであるがゆえに、作者の根本的な人間観がよりよく見えてしまっているのではないか、と言えば意地悪に過ぎるだろうか。

 ともあれ、「報われない恋」の苦しみをここまで述べ尽くした作品は他に類を見ないのではないかと思う。後のモームの作品に見られる冷徹さとある種のさばけ具合の背後には、たくさんの経験をへて到達した諦念と達観があったのだ。『人間の絆』を読み終えて、今そのことをしみじみ思う。

 書かれなければならなかった作品だけが持ちうる迫力は、確かに古びずに今も脈づいている。

『若い人のための10冊の本』/ジェニファー「なんて素敵なの」

『若い人のための10冊の本』

 小林康夫『若い人のための10冊の本』、ちくまプリマー新書、2019年

 この本は、文字通りに青少年に向けて10冊の本を薦める、というのとはちょっと趣が違っている。ここで挙げられるのは著者自身が人生の中で出会ってきた本たちだ。「本と出会うとはどういうことか」、「人は本から何を得ることができるのか」といった問いについて、著者は自身の実体験を通して若い読者に訴えかける。その姿勢はどこまでも真摯であり、誠実であり、それゆえに「若い人」に対しても妥協がない。二三か所、引用してみよう。

 孤独、これが鍵。なぜなら、現実的に君が何歳なのかはわたしは知らないのだけど、人生で君がいるこの時期こそ、まさに孤独を学ぶ時期であるからです。「孤独を学ぶ」、なかなかすごい表現で、書いたわたし自身もすこしびっくり。でも、そう思いますね。およそ一〇代のころ、誰もが孤独を学ぶ。学校で知識として学ぶのではありませんよ。誰かに教えてもらうのでもありません。赤ちゃんのときからずっと続いてきた心身の成長のプロセスの最後に、まるで仕上げであるかのように、孤独であることを学ぶ。

(「第1章 孤独を学ぶ」、42-43頁)

 

 学校という場にいると、いつもあらかじめ用意されている「正解」に辿り着くように強要されるわけですが、人にとっていちばん大事なことは、「正解」が与えられていない、あるいは「正解」がない「問い」を問うことです(強調は原文傍点)。もちろん、ただいたずらに、「問い」を発すればいいというものではありません。あくまで自分の、自分だけの「感覚」から出発して、自分にとっての真正な「問い」を問うことが大事です。そのような「問い」を生きることは、どうしても「激しさ」を伴う。なにしろ「正解」がないんですから。でも、問わずにはいられないですね。

(「第4章 未完成な生を生きる」、109-1101頁)

 

  ついでに言っておくと、本とは、まさにこの一生続く「人間であること」の学びのためのものなのです。いいですか、本から学ぶのは、知識なんかじゃない。そんなものどうでもいい。学ぶべきことは、ただひとつ「人間であること」、それをすでに「人間」である君が果てしなく学び続ける。それだけが人間にとって唯一のほんとうの「義務」なのです(強調は原文傍点)。

(「第5章 死んではいけない」、131頁)

  取り上げられる本はオースター『幽霊たち』、パスカル『パンセ』、中原中也矢内原伊作ジャコメッティとともに』等々。著者の言葉を聞いているといずれも(とても)面白そうに見えるし、私も本書を読んでル=グウィンの『ゲド戦記』を読みたくなった。

 もちろん、そうして「若い人」に本との出会いがあれば素晴らしいことだけれど、でも注意しなければいけないのは、読む前に期待したものが実際の読書から得られるとは限らないということだ。期待が高ければ高いほど、そういうことは起こりえる。現に私は大学生の頃に『影との戦い』を読んだけれど、それほどの感銘を受けた記憶はない。もちろんそれは私が未熟だったに過ぎないにしても、当然のことながら、誰が読んでも同じように影響力を持つ本など存在しない。なにより、読書は個別的で一回的な体験であるということこそが、本書を読んでいて理解されることに他ならないのだ。本との出会いも一期一会である。

 本書は、読書から人はかくも多くのものを引き出すことができるのだということの見事な実例だ。この本から本当に学ぶべきはそのことだと思う。本を読むということは、とてもスリリングで、予想を超えていて、自己の世界を大きく揺るがす何事かでありえるし、そうであるべきものだ。

 未知なもの、いまだ知らざる何ものかへ向かって自己を投げ出すこと。本書の著者は全力を込めて、そうした冒険へ乗り出すようにと若者を駆り立てている。

 

 今のフランスの歌謡界には Star Academy, Nouvelle Star, The Voice といった勝ち抜き歌合戦番組出身の歌手がたくさんいるが、Jenifer ジェニファーは第1回のスター・アカデミー優勝者 (2002) なので、いわばその元祖。

 彼女の2018年の曲 "Comme c'est bon"「なんて素敵なの」の歌詞が、なんだか今の confinement 外出規制の後のことみたい、と思ったのでビデオを観たら、同じようなコメントをしている人が何人もいて、なるほどと思った。

www.youtube.com

Si tu savais comme c'est bon

De pouvoir te revoir

Pouvoir te parler

De te toucher

Si tu savais comme c'est bon

De pouvoir te revoir

Pouvoir t'enlacer

Et t'embrasser

("Comme c'est bon")

 

あなたが知っていたら なんて素敵なの

あなたにまた会えること

あなたに話せること

あなたに触れること

あなたが知っていたら なんて素敵なの

あなたにまた会えること

あなたにからみついて

抱き合えること

(「なんて素敵」) 

『アヴリルと奇妙な世界』/「そして明日は?」

『アヴリルと奇妙な世界』

 ジャック・タルディ ビジュアル総監修、クリスチャン・デスマール、フランク・エキンジ監督『アヴリルと奇妙な世界』、2015年

 冒頭は1870年、ナポレオン三世とバゼーヌが科学者ギュスターヴ・フランクランのもとを極秘に訪れる。ギュスターヴは不老不死をもたらす究極の血清を開発しており、これが完成すればフランスはプロイセンに戦争で勝てるはずとナポレオン三世は目論んでいた。

 ところが爆発事故でナポレオン三世は死んでしまう。で、そこから架空の歴史が始まるのだけれど、皇帝が死んだ結果、普仏戦争は起こらず、そのまま第二帝政が継続したというのである。物語は1941年、ナポレオン五世の下で……。

 というのとは別に、世界中の名だたる科学者が謎の失踪を遂げ続けた結果、電気は発明されず、石油も燃料にならないままに時が進み、蒸気機関だけが発展を遂げて、といういわゆるスチームパンクの世界を舞台としている。

 ギュスターヴの息子のポップスとその息子のポールは秘密に実験を続けており、ポールの一人娘がアヴリル。両親が謎の失踪を遂げた後、残されたアヴリルが、ひとり血清の実験を続けている(相棒は飼い猫のダーウィン)ところから本当の物語が始まる……、と前振りがいろいろややこしい作品ではあった。

 正直に言ってしまうと、ジブリのアニメ、なかんずくは宮崎駿の作品を見て育った人には色々物足りなく見えると思う。サスペンスしかり、アクションしかり、人物造形しかり。だが、それはそれとして、私個人としてはこの設定に興味を引かれずにはいないのだ。もしナポレオン三世が死なず、第二帝政がそのまま続いていたら……?

 しかしその場合に、第二帝政が存続するというのは本当だろうか? と思ってしまう(思っても仕方ないけど)。第一に、ナポレオン三世はすでに病気で弱っていたし、戦争したくて手ぐすね引いていたのはビスマルクである。いやウジェニー皇妃をはじめ、フランス国民の多くも戦争を待ち望んでいたのでもある。であれば皇帝がどうであれ、結局は普仏戦争は起こったのではないだろうか? というのが一つ。

 もう一つ思うのは、仮に戦争が起こらなかったとしても、やはり第二帝政が存続したかどうかは疑わしいのではないか、ということである。

 第二帝政の後半期は自由主義的な方向に振れていたから、うまく民衆のガス抜きをして、イギリス的な立憲君主制の方向に持ち込めた可能性はあるかもしれない。しかしそれより先に民衆の不満が爆発して革命が起こる、というほうが遥かに蓋然性が高いのではないだろうか。七月革命二月革命に次ぐ三度目の〇月革命。「二度あることは三度ある」 Jamais deux sans trois という諺はフランス語にもあるのだ。フランスは大革命の国であり、この国がいずれは共和制に行き着くのは、半ば宿命的なことではなかっただろうか、という気がすごくする。

 だからどうした、ということもないのだけれど、フランス人の歴史改変SFの発想のあり方が興味深く思われたので、つられてあれこれ妄想に浸ったのだった。1870年に起こったのがパリ・コミューンでなく革命だったら、ゾラは、モーパッサンは、ランボーは、どうなっていたのだろう?

 

 350人の著名人が参加して、フランスの病院を支援するキャンペーン・ソングが4月初めに公開された。タイトルは "Et demain ?"「そして明日は?」。

 Band Aid のフランス版 Chanteurs sans frontières 「国境なき歌手団」以来の伝統とも言えるし、なんというか、フランス人はこういうのが好きなんだなあとしみじみ思う。これも一つの国民性の表れなのだろう。

www.youtube.com

 Et demain on fera quoi ?

On recommencera, l'homme est comme ça

Et demain, ça sera nous les maîtres du jeu, un point c'est tout

 

S'aimer encore, danser encore

Sourire encore, s'embrasser plus fort

Pleurer encore, souffrir encore

Et tenir encore, et chanter plus fort

Ça fait du bien

("Et demain ?")

 

そして明日は何をする?

また始める 人間はそんなもの

そして明日は私たちがゲームの主 それがすべて

 

また愛しあう また踊る

またほほ笑む もっと強く抱き合う

また涙する また苦しむ

そしてまた頑張る もっと大声で歌う

すばらしいこと

(「そして明日は?」)

『嵐が丘』/-M- 「モジョ」

『嵐が丘』表紙

 読んだという記録に。

 エミリー・ブロンテ嵐が丘』、鴻巣友季子訳、新潮文庫、2016年

 いやー、こんな話だったんだ『嵐が丘』ってー。これは驚きました。原作は1847年に発表。

 煎じ詰めるとこの物語は、ヒースクリフというどこの馬の骨とも分からぬ捨て子を拾ってしまったがために、アーンショウ家とリントン家の二家族が、二代にわたって破滅に追い込まれるという話である。凄いのは、出てくる人物がみんな揃っていかれていることだ。何を考えているのか分からないヒースクリフは言うまでもなく、ヒンドリー・キャサリンの兄妹も、エドガー・イザベラの兄妹も、二代目になるヘアトンもキャシーもリントン・ヒースクリフもみんな揃ってどうしようもない人たちであり、なかんずくは頼りのはずの語り手二人(「わたし」とネリー)までもがズレているんだから、実にまったく逃げ場がない。690ページ、全編タガが外れかかった人たちの狂騒曲であった。

 一言でいってこれは元祖少女マンガである、という意見にさして異論はないと思う。ここにはどろどろに淀んだ愛憎劇があり、ほとんどそれだけが溢れるほどにある。登場人物は二家族のみ。場所は郊外で、周囲に他に人が住んでいるようにも見えない。ヒンドリーもエドガーも何をして暮らしているのか分からないし、ヒースクリフはどこかで財をなして帰って来たということになっているが、その経歴は最後まで一切不明なままだ。およそここには「社会」が存在していない。ただもう、しがらみにがんじがらめの濃密なメロドラマが続くのである。

 これはエミリーという一人の「少女」の育んだ夢の形象だ。発表時に作者が30に近かったということは問題にはならない。この完全な没社会性は大人の心象ではありえないからだ。非社会的な登場人物とはつまりは「子ども」であり、彼らは子ども特有のまがまがしさを発散している。少女マンガ的というのはそのような意味においてのことだ。

 一方で、夢の形象であるということは、言葉を換えればファンタスティック(幻想)である。ヒースクリフという男は存在そのものが謎の塊だし、彼が結局何をしたかったのかも曖昧で、最後に衰弱して死んでゆく展開にも不明な点がある。この全体によく分からない何かは、恐らくはフロイトのいう「不気味なもの」の具象化とでも言えるだろう。その点で、ヒースクリフは『フランケンシュタイン』の怪物と一脈通じるものがある、と私は思う。執拗に回帰して主体に取り憑いて離れない忌まわしきものとは、「私」が抑圧せんとする「私」の一部に他なるまい。

 私にとって一番の驚きは、この作品が古典としてたくさんの人に読まれ続けて今に至るというその事実である(そんなことに今さら驚くのも愚かなことだけれど)。「一世紀半にわたって世界の女性を虜にしてきた恋愛小説」という裏表紙の言葉はその通りに違いなかろうが、いや本当にそれってどういうことなんだろうか。

 もちろん、この禍々しくも怪しい世界が異様な魅力を持って読む者の胸に迫ってくるのはよく分かる。なんというか、これほど「古典」という言葉がしっくりこない古典というのも珍しい。本作はそもそもからリアリズムを超越しているがゆえに、時代に捕われることなく、生々しい生命力を失っていないと言えるのかもしれない。が、それにしても……。

 本書も「はじめてのガイブン」リスト作成の一環で読んだが、「大人になるための」という基準に照らしてこの作品は入れなかった。その理由は概略、以上の通りであります。

 

 脈略はなし。「平時」を思い出させてくれる曲はないかと思い、-M- こと Matthieu Chédid マチュー・シェディッド。アルバム Îl (2012) より"Mojo"「モジョ」を聴く。mojoとは男性の性的魅力を指すらしい。ああ、平和だ。

www.youtube.com

Pourquoi toutes ces caresses inégales

Quand elles ressentent

Mes ondes animales ?

Est-ce que c'est bien ?

Est-ce que c'est mal ?

Laisse-toi aller, c'est qu'ça c'est le Mojo.

("Mojo")

 

どうしてこんなにばらばらな愛撫なんだい

彼女たちが俺の動物波を

感じとるときには?

いいかい?

悪いかい?

身を任せなよ、それがモジョなのさ。

(「モジョ」) 

はじめてのガイブン 大人になるための20冊(+4)(後半)

『外套・鼻』表紙

後半

  1. ニコライ・ゴーゴリ『外套・鼻』、平井肇訳、岩波文庫

ロシア文学。「ある朝目が覚めたら、鼻が自分より偉くなっていた」男の話です。訳が分からない? じゃあ、読むしかありませんね……。え、読んだけど分からなかった? なるほど。でも、それってそんなに問題でしょうか? そもそも「分かる」ってどういうこと? 大人であることの一つの条件に、分からないものを分からないままに受け止められる柔軟さがあるでしょう。そんなこと言われて、狐につままれたみたいですか? それは結構。あなたは今、大きな一歩を踏み出したのです。

 

  1. フランツ・カフカ『変身/掟の前で 他2編』、丘沢静也訳、光文社古典新訳文庫

チェコ文学。「ある朝目が覚めたら虫になっていた」男の話です。ゴーゴリとの相違点は、主人公グレーゴル・ザムザが、自分が変身したことに「驚かない」ところにあります。彼はただいつものように仕事に行けないことに困惑するばかり……。不思議なことが不思議でない世界では、不思議でないはずのことのすべてが不思議になる。それが、カフカが私たちに教えてくれたことでした。本当に恐いのは毒虫ではなく、私たち「普通の人間」なのではないでしょうか。

 

  1. プロスペール・メリメ『カルメン/タマンゴ』、工藤庸子訳、光文社古典新訳文庫

フランス文学。短編小説の美学は省略と抑制にあり、その点でメリメの右に出る者はいません。対象を過たずに描き出せるなら、言葉は少なくていいのです。物語の舞台はスペイン。ジプシー女のカルメンに一目惚れしたが最後、ドン・ホセの人生は転落の一途を辿ります。一切の束縛を拒むカルメンはまさしく「自由」の象徴。自由とは苛酷なものであり、並の人間に耐えられるものではない。だからこそ、カルメンは私たちの胸の内で輝きつづけるのでしょう。

 

  1. ジョージ・オーウェル動物農場』、川端康雄訳、岩波文庫

イギリス文学。農場でこき使われている動物が反乱を起こして人間を追放、自分たちだけの世界を築きます。ところが、すべての動物は平等のはずなのに、気がつけばぶた達が横暴に振る舞っている……。理想はいかにして汚れるか、権力はいかに人を堕落させるか。動物に託して批判されているのは、もちろん人間が抱える弱さであり、愚かさです。笑いながら、同時に、笑ってはいられないことに気づかされる。ビターチョコレートのような苦み、それが大人の味わいです。

 

  1. スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャッツビー』、小川高義訳、光文社古典新訳文庫

アメリカ文学。人生は上手くいくとは限りませんが、これは、上手くいかなかった過去をやり直し、運命に仕返しをしようと足掻く男性の物語です。過ぎ去った時間を取り戻そうとすることは、未来を拒絶することでもあり、その試みは哀しく、恐らくは不可能なものでしょう。ですが、だからこそ困難に挑むギャッツビーは「グレート」と呼ばれるのです。鮮やかなピンクのスーツは、不条理な戦いに臨む騎士の鎧にふさわしいでしょう。

 

  1. メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』、芹沢恵訳、新潮文庫

イギリス文学。映画が誕生するずっと前から、人はファンタスティックなもの(幻想)を描いてきました。フランケンシュタインは科学を極めようという野心に燃え、死骸を寄せ集めた肉体に生命を与えます。ところが、あまりの醜さゆえに、彼はその生き物を拒絶してしまいます。復讐を誓った怪物は、次々と彼の愛する者に襲いかかる……。自らの内にあるものを否認すれば、その報いを受けずにはいられない。怪物とは、私たちの心に潜むネガティブなものの形象です。この作品を執筆した時、作者メアリーは弱冠19歳でした。

 

  1. マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』、清水徹訳、河出文庫

フランス文学。小説というよりは自伝に近い作品です。70歳になる作家が、秘めていた過去を告白します。インドシナベトナム)の植民地に暮らす白人の「私」は15歳半。裕福な中国人青年を「愛人」とし、逢瀬を繰り返して官能に浸ります。家族との確執、自立と従属、性愛と金銭……、むき出しの人生に直面する少女は、鏡を見て自分が「年老いた」と呟くのです。取っつきにくい語り口、エキゾチックな外見が目を引きますが、底にあるのは紛れもなく、普遍的な少女の成長の物語です。

 

  1. マーク・トゥエインハックルベリー・フィンの冒険』(上下巻)、土屋京子訳、光文社古典新訳文庫

アメリカ文学。飲んだくれの父親から逃げ出したハックは、奴隷のジムと一緒に筏に乗って、広大なミシシッピ川を下ってゆきます。旅の途中で陸に上がると、目に入るのは大人の社会のいざこざばかり……。当時はほとんど未開の地だったアメリカの雄大な自然が魅力的で、旅への憧れを掻き立ててやみません。一方、自然児ハックの側から眺めると、欲望に駆られて右往左往する人間の姿はなんとも滑稽で哀れです。自然と文明がダイナミックにぶつかり合っていた19世紀アメリカを活写した本作は、若々しさと瑞々しさを大河のごとくに湛えています。

 

  1. フョードル・ドストエフスキー罪と罰』(上下巻)、工藤精一郎訳、新潮文庫

ロシア文学。一つ罪を犯しても、その後に百の善行を積むならその罪は償われるのではないか? 貧乏学生ラスコーリニコフがそんな考えに取り憑かれて、金貸しの老婆の殺害を企てます。ドストエフスキーの描くところ、思想と情念は炎のようにほとばしり出て絡まり合い、圧倒的な熱量で読む者に降りかかってきます。卑小なものから崇高なものへの振幅の激しさも唯一無二。読後感はさながら巨人に押しつぶされるかのようです。その迫力を一度体験したら、忘れることは一生不可能でしょう。

 

  1. ギュスターヴ・フローベールボヴァリー夫人』、芳川泰久訳、新潮文庫

フランス文学。理想に溢れていたエンマは、結婚早々、夫の凡庸さに愛想を尽かし、不倫の恋にのめり込んでゆきます。この小説が他と大きく異なるのは、作者が登場人物に対して批判的で、彼らを甘やかさない点にあります。読者はヒロインに共感しながらも、彼女の無知や愚かさを意識しつづけることを要求されるのです。悪いのは彼女なのか、彼女を追いつめた社会なのか? その問いに唯一の答など存在しないと断言できるなら、あなたはもう一人前の「ガイブン読者」に違いありません。

 

本当は入れたいあと2冊

  1. アントン・チェーホフ『かわいい女・犬を連れた奥さん』、小笠原豊樹訳、新潮文庫

ロシア文学チェーホフは狂おしいくらいに愛おしい短編をたくさん書いています。多くの場合に物事は解決しないし、はっきりとした結末が無いことも少なくありません。人々は人生に答や救いを見いだせないまま、かろうじて不確かな未来にすがって生きています。真摯に、ひたむきに、そして孤独に生きる人々の姿がいつまでも胸に残りつづけると同時に、そんな物語を綴ってくれた作者に感謝したくなるのです。

 

  1. オノレ・ド・バルザックゴリオ爺さん』、中村佳子訳、光文社古典新訳文庫

フランス文学。貧乏貴族のラスティニャックは、立身出世を夢見て田舎からパリへ出てきます。おんぼろ下宿で出会うのは、薄幸の美少女、怪しい魅力を放つ中年男、そして素性の知れぬ謎の老人……。青年はやがて、彼らの一人一人に秘められたドラマがあることを知り、そこから人生を学んでゆきます。バルザックは個別の人間をじっくりと描くと同時に、一時代の社会丸ごとを浮かび上がらせるという離れ業をやってのけました。読者の眼前に、社会の中を人々が躍動する一大パノラマが繰り広げられるでしょう。

 

 以上、昨日に続いて後半になります。

 言い訳は始めるときりがなくなりますが、今現在の私に扱える範囲の暫定版のリストとしておきたいと思います。ドイツがないし、イタリアもない。あの人やらあの人やら、外せない名前もあるでしょうが、皆様のご海容をお願いいたします。

 一つだけ注釈をつけておくと、このリストは「大人になるための」というテーマのもとに選んだので、本来ならこれぞ「最初の1冊」と思えるものでも、「子供向け」の作品という判断から入れなかったものがあります。

 たとえば、

 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ星の王子さま』、内藤濯訳、岩波文庫

 ロバート・L・スティーブンソン『宝島』、鈴木恵訳、新潮文庫

 ジーン・ウエブスター『あしながおじさん』、岩本正恵訳、新潮文庫

などです。もちろん、これは私の主観的な判断に過ぎませんけれど。

 改めまして、この20冊+4のリスト、どなたかに興味を持ってもらえたら、そしてそこから読書に繋がったら、本当に、そんな嬉しいことはありません。

 本を開けば、いつでもそこに別の世界が待っています。

はじめてのガイブン 大人になるための20冊(+4)(前半)

『1ドルの価値/賢者の贈り物』表紙

・このリストは、10代後半から20代初めで、外国文学をまだ読んだことがない、でもこれから読んでみようと思っている人(男女を問いません)を想定して作りました。

・数ある古典の中から、「はじめて読む」のにふさわしいと思う作品を選んでいます。どれも有名な作品ですが、言うまでもなく選択は個人的な趣向に基づいています。

・10冊ではとても足りないので20冊(でも収まらずにあと4冊)とし、前半と後半に分けています。それぞれ、短いものから長いもの、読みやすいものから読み応えのあるもの、という基準で並べているので、ベスト10ではありません。もちろん、この順番通りに読まなければいけないわけではありません。あくまで目安として参考にしてください。

・リストの副題は「大人になるための20冊」です。聡明で、柔軟で、したたかで、度量が広い、そんな大人になりたいと思いませんか? ここに選んだ20冊は、あなたの知性と感性と想像力を刺激し、人間観・世界観を大きく広げてくれることでしょう。

・前半の10冊(+2)は比較的ストレートな作品です。まずは読書に慣れ、本の面白さを知ってください。後半の10冊(+2)はもう少しひねりのある作品です。含蓄・陰影・アイロニー、そうしたものが分かってこそ、大人の呼び名にふさわしいと言えるでしょう。

・挙げている版は、入手のしやすさ、翻訳の新しさ(読みやすさ)を考慮して選んでいますが、選者の好みも入っています。すべて一級の古典なので、何種類もの翻訳が存在します。お好きなものを自由に選んでもらって構いません。

・このリストが読書の旅の道しるべとしてお役に立てば、それ以上に嬉しいことはありません。さあ、ページを開いて、探索へ出かけましょう。

 

前半

  1. O・ヘンリー『1ドルの価値/賢者の贈り物 他21編』、芹澤恵訳、光文社古典新訳文庫

アメリカ文学。ようこそガイブンの世界へ! まずは短くて読みやすく、文句なく面白いものから始めましょう。誰もが聞いたことのある「賢者の贈り物」や「最後の一葉」をはじめ、心温まる物語が一杯です。どの作品も幸せな結末で終わるのは、作者が能天気だからではありません。O・ヘンリーは若い頃に苦労して、刑務所に入っていたこともありました。ハッピー・エンドは、孤独な心がじっと温めつづけた希望の結晶なのです。

 

  1. ギィ・ド・モーパッサンモーパッサン短篇選』、高山鉄男訳、岩波文庫

フランス文学。同じく短編の名手ですが、有名な「首飾り」や、戦争もの「ソヴァージュばあさん」、哀れな恋物語「椅子直しの女」など、暗い話、悲しい話も少なくありません。人生は時に残酷なものだということを、年を取れば誰もが嫌でも知らされるでしょう。その「現実」を直視するためには、冷静な眼差しと強い心が必要だということを、モーパッサンは教えてくれます。そしてそこには、運命に翻弄されるか弱い存在への共感が、確かに存在しています。

 

  1. トルーマン・カポーティティファニーで朝食を』(短編集)、村上春樹訳、新潮文庫

アメリカ文学カポーティの文章の上手さは圧倒的です。天性の才能に惚れ惚れするばかり。そして、「ティファニーで朝食を」の主人公ホリー・ゴライトリーのなんと魅力的なこと! 自由と幸福を求めてやまないホリーの人生は実に奔放で、それだけに危うげでもあり、賛嘆と憧れを掻き立ててやみません(オードリー・ヘップバーンは美しいけれど、映画は原作と別物です)。ホリーは遠く輝く夢の象徴です。私たちがそれを自分のものにすることは、決して出来ないのでしょう。

 

  1. アーネスト・ヘミングウェイ老人と海』、小川高義訳、光文社古典新訳文庫

アメリカ文学。ここから、そろそろ長編へ入って行きます。カリブ海の漁師サンチャゴは一人で沖合に漁に出て、三日にわたって巨大なカジキを相手に戦いつづけます……。息詰まる格闘の様子が圧巻で、手に汗握って一気に読み終えてしまうに違いありません。どれほど苛酷でも決して諦めず、どんなものであっても結果を堂々と引き受ける。そこに個人の譲れない尊厳があることを、この小説は教えてくれます。戦いつづけなくてはいけない。そう思える勇気が湧いてきます。

 

  1. アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ『夜間飛行』、二木麻里訳、光文社古典新訳文庫

フランス文学。『星の王子さま』の作者は飛行機乗りでしたが、20世紀初め、生まれたばかりの飛行機には事故も多く、空を飛ぶことは文字通り命がけの試みでした。サン=テグジュペリはその経験を通して、労働がいかに人生に価値を与えるか、使命感によって人はいかに偉大になるかを学びました。経験の裏打ちがあるからこそ、彼の言葉は偽善に陥ることなく、読む者の胸に誇りと情熱を呼び覚まします。それは本当に、誰にでも出来ることではありません。

 

  1. フランソワーズ・サガン『悲しみよ こんにちは』、河野万里子訳、新潮文庫

フランス文学。早熟な才能というものがあります。サガンは19歳でこの小説を書き、鮮烈なデビューを果たしました。子どもから大人へ移り行く時期の心と頭のありようを、若さゆえの感傷や思い上がりに惑わされることなく、同時に、瑞々しく鋭敏な感性を失わないうちに描きとめること。それこそ、早熟な若者にしかなし得ないことです。同年代の読者は、作者の明晰さに驚き、憧れるでしょう。いつか年を取ってから読み返した時、その印象はどう変わるのか。その変化を味わうためだけにでも、今、この小説を読んでおくべきです。

 

  1. J・D・サリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ』、村上春樹訳、白水社

アメリカ文学。古典というものは何歳になっても読む価値がありますが、そうは言っても若いうちに読んでおくべき本が存在します。高校を退学させられて実家に帰るホールデン・コールフィールドの物語が、活きのよい一人称で語られます。他人の欺瞞とエゴを許すことができないホールデンは、子どもから大人へ移る境目にあって、見えない壁に正面からぶつかります。今、まさにそんな時期を迎えている人にとって、この小説はナイフになるかもしれないし、涙を拭くハンカチになるかもしれません。長らく、『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)で親しまれてきました。

 

  1. チャールズ・ディケンズ『大いなる遺産』(上下巻)、佐々木徹訳、河出文庫

イギリス文学。ここからは本格的な長編です。長編だからこそ味わえる醍醐味を知ってください。まずはディケンズが打ってつけでしょう。面白いし、感動させるし、考えさせてもくれる大作家ですが、かといって重苦しくもありません。波乱万丈な筋の展開を堪能して、ありえないような偶然にも文句をつけないでおきましょう。ディケンズは太陽のようです。雨や風や雪や月や夜の闇も、人生に変化と彩りを与えてくれますが、絶対に欠かすことの出来ないのは陽の光。長い人生、どんな時にも頼れる友人となってくれるでしょう。

 

  1. ジェイン・オースティン自負と偏見』、小山太一訳、新潮文庫

イギリス文学。五人姉妹の次女エリザベスは、お高くとまっている青年ダーシーに反感を抱きますが、やがて彼の本当の姿を知り、自分が偏見を抱いていたことに気づきます……。昔の女性にとって結婚は人生の一大イベントであり、誰と結婚するかは最大の問題でした。オースティンの魅力は、男性中心主義の社会にもかかわらず、強い意志を持って、自分の人生を自分で切り開く女性を描いたことです。利発で凛々しいエリザベスは、作者にとって理想の女性像だったのでしょう。

 

  1. スタンダール赤と黒』(上下巻)、野崎歓訳、光文社古典新訳文庫

フランス文学。親譲りの血筋や家柄がものをいう時代から、自分で未来をつかみ取らなければいけない世の中へ。それが身分制社会から近代社会への移行ということです。以来、私たちは誰しも、人生の門出で「自己実現」という問題に直面せざるをえません。そんな近代人の元祖と言えるのが、本作の主人公ジュリヤン・ソレルです。自意識過剰で野心に溢れる青年は、悪戦苦闘の末にどこに行き着くのか。それを知ることができるのは、彼と共に長い軌跡を歩んだ者だけです。

 

本当は入れたいあと2冊

  1. サマセット・モーム『ジゴロとジゴレット モーム傑作選』、金原瑞人訳、新潮文庫

イギリス文学。短編の名手といえば、もう一人外せないのがモームです。語りは流暢で淀みなく、物語は明快で切れ味よし。ユーモアとアイロニーにも事欠かず、堅実かつ巧みな手腕が光ります。笑劇も上手いながらに超然としたところがあり、感情に流されずに劇的なドラマを語りきって見事です。本短編集の屈指は「征服されざる者」。第二次大戦下のフランスを舞台とした、全編に緊張感みなぎるこの物語、読みながら鳥肌が立つこと必至です。

 

  1. コレットシェリ』、河野万里子訳、光文社古典新訳文庫

フランス文学。コレットは紛れもなく天性の作家です。これほどに瑞々しくもしなやかに、感性と官能に溢れる言葉を紡げる者は他にいないでしょう。ヒロインのレアは50歳を目前にした高級娼婦。長く恋人だったシェリが結婚するのを機に二人は別れますが、予想に反して互いに相手のことが忘れられません……。常に毅然と振る舞うレアは美しく、優雅で、たおやかです。そんな完璧な彼女であってさえ「時」には打ち勝つことができない。避けられない宿命性が、本作の格調を高めています。

 

 以上、学生さん向けに書いたものをここにも公開します(学生にバレるかな)。

 この文章を書くにあたって、(勝手に)お手本と仰いだのは、「ふくろう」氏のブログです(最初に~文学と記すのを真似させていただきました)。

owlman.hateblo.jp

 お勧めの文章が抜群にうまくて憧れています。私にはこんなに味のある文を書けないのだけれど、ここでは「外された」王道の「古典」だって十分に面白いんだ、ということを伝えたいと思って書きました。

 どこかの誰かの読書欲に火を灯せたら、本当に嬉しく思います。後半は明日掲載します。

『わたしたちの心』

『わたしたちの心』

 モーパッサン『わたしたちの心』、笠間直穂子訳、岩波文庫、2019年

 岩波文庫からモーパッサンが新たに出るなんて、これを事件と呼ばずに何を事件と呼ぼうか。

 そもそも驚きなのは、この作品がかつて岩波文庫に入っていなかったという事実だ。本作は、1890年に発表されたモーパッサンの長編第6作にして最後のものだが、第5作『死の如く強し』は、杉捷夫訳で1950年に出ている(私が所有するのは1992年の18刷なので、多少は売れている。もっとも今は品切れて久しい)。戦後、モーパッサンの翻訳が山のように出た時期にも入らなかったのは、あるいは、青柳瑞穂や新庄嘉章や河盛好蔵がこの作品を訳す気にならなかったからなのか。それはともかく、ここに新訳として岩波文庫入りしたのは、たいへん喜ばしいことだ。めでたい。

 本作については訳者の「あとがき」に要点がぜんぶ書かれているので、私が特別に付け加えられることはさして見当たらない(いや本当に)。以下、蛇足ではあるが思うところを記しておきたい。

 本作は「当時の流行にのった社交界小説・心理小説、モーパッサンにしては覇気に欠ける展開」(318頁)ゆえに、いわば「らしさ」に乏しく、それもあってか「日本ではほぼ忘れられている」作品であるのは確かだろう(フランス人でも多くは知らないと思う)。まず、このことをどう説明しようか。

 1880年に「脂肪の塊」で小説家としてデビューしたモーパッサンは、矢継ぎ早に短編小説を書きまくることでたちまち名を挙げた。1883年『女の一生』の成功で早くも若き大家と称賛され、1885年『ベラミ』でその地位を不動のものとした。ここまで華々しい成功の事例は他に類を見ないほどのものだ。

 その前半期の作品においては、精神よりも身体、感情よりも感覚、知性よりも本能に焦点を当てることで、赤裸々な人間の姿を描き出す、むしろ暴き出してみせるところに何より特徴があった。人間も動物の一種であることの暴露は、社会に横行する人々の偽善的姿勢への批判としてインパクトがあったし、誰しもその諷刺画を他人事と切り捨てられない普遍性がそこにはあった。さらに言えば、普仏戦争から10年、復興の後に繁栄を迎え、後にベルエポックとして振り返られることになる社会にあって、まるで忌わしい過去(そこには悲惨があり汚辱があった)の一切を忘れたかに振る舞う人々の秘めた良心に、モーパッサンの作品は訴えかけるものを持っていたと言えるだろう。彼は実に時宜にかなって、人々の痛いところを突いたのだと、私は思っている。

 人間の内に潜む本能や欲望を赤裸々に描きだすということは、いわば人間を単純化して描くことでもある。その時、モーパッサンが作品に描いたのは、もっぱら都会の小役人や小ブルジョア、農民、娼婦たちであった。社会の下層または周縁において、日々の生活に汲々と生きる人々が、そのような単純化に向いていたのだと、とりあえず言っておこう。それはモーパッサン自身が実人生において間近に接しえた人たちだったという事実も、もちろん存在している。

 モーパッサンは人間の内にある動物性に焦点を当てたわけだが、問題は、単純なものは単純なものでしかない、という厳然たる事実にある。はじめはどれほどインパクトがあろうとも、物事には限度があり、繰り返せば飽きられる。いや書いている当人こそが真っ先に飽きるだろう。もっと複雑なもの、微細なもの、曖昧なもの。ごく自然な成り行きから、モーパッサンはより洗練されたものを求めるようになってゆくのである。

 付け加えておけば、誤解のもとはここにある。モーパッサンが最初に単純なものを描いたから、人々は彼は単純な人間だと思った。彼が複雑なものを求めるようになった時、人々はそれを成り上がりものの気取りと受け取ったのだ。彼がそもそもどういう人間だったのかを、同時代の人間は誰も疑ってみようとはしなかった(し、後から受容した日本人も同様だった)。

 閑話休題。では、洗練されたものはどこにあるのか? 微細な感情のひだ、繊細な感性、解きほぐしがたい心の綾模様、言わば、動物性から遠い、より人間的なものはどこに存在するのか? 19世紀末の社会にあっては、答は上流社会にしかなかった。作家として成功を収めたモーパッサン社交界に受け入れられるようになったという境遇の変化も大きく影響している。彼は社交界にこそ小説の素材が溢れていることを発見した。さらには、まだ他の同業者たちが気づいていない「新しいもの」が存在していると考えるに至ったのだ。その新しいもの、時代の最先端に見られる現代人の心の有り様。それを捉え、どのようなものかを分析し、読者の目に見えるものとして提示すること。そこにこそ、人間観察家たる作家の果たすべき仕事がある。『わたしたちの心』Notre cœur というタイトルは、そのような作者の自負をはっきりと示している。

 では、モーパッサンの見た現代人の心性とはどのようなものだったのか。一言で表せばデカダンスということになろう。社会が爛熟した果ての倒錯と退廃が人々の心を蝕んでいる、というのが作者の診断である。その意味でこの小説はいわゆる「世紀末」文学に位置づけられるし、懐かしの国書刊行会「フランス世紀末文学叢書」に加わってもおかしくないはずのものだ。

 主人公アンドレ・マリオルはディレッタントな趣味人で、彫刻や音楽をたしなむが、しかし大成することがないままに中年を迎えている。社交界でもてはやされつつも、内心で自分は失敗した人間だと思っている。いわば彼は不能性を抱えているのであり、芸術作品を生み出すことが出来ないということは、男性性の欠如の換喩的表現と見ていいだろう。

 女性主人公はミシェル・ド・ビュルヌ、若い未亡人で、洗練された趣味を持ち、サロンに選りすぐりの芸術家を集め、彼らの欲望を掻き立てるが、誰かに熱をあげることはない。

 どうしてなのだろう? 男たちのせいなのか、それとも自分の? 彼らがこちらの期待するものを欠いているのか、それとも人を愛するための何かが自分に欠けているのか。人を好きになるのは、あるとき本当に自分のために創られたと思える存在に出会うからなのか、それとも生まれつき人を好きになる能力を備えているからなのか。彼女は時おり、ほかの人々は体に腕があるのと同様に心にも腕がついていて、その腕を優しく伸ばして引き寄せたり、抱きとめたり、抱きしめたりするのに、自分の心には腕がないのだと感じることがあった。自分の心には、目しかついていない。(95頁)

 マリオルはそんな彼女に恋焦がれるようになり、彼女もやがてほだされて彼を恋人にする。彼は彼女に愛されるのだが、しかし自分の心が決して満たされないことに苛立つ。愛しているにしては冷静すぎるのではないか、という疑念から逃れられないのである。

 昼も、夜も、彼にとっては苦悶の時間がつづくばかりだった、というのも常にひとつの強迫観念を、頭よりも心に抱きながら生きていたからで、それはすなわち、彼女は自分のものでありつつも自分のものではない、支配されているのに自由であり、捕まっているのに捕まっていない、という考えだった。彼女の周り、彼女のすぐ傍に暮らしてはいても、彼女に到達することはできず、満たされない欲望の数々を心にも体にも抱えながら彼女を愛していた。(179頁)

  上流社交界の女性はその洗練された美において他に類を見ないが、それはとことん人工的な美であり、そこには男を騙すための策略と自己愛しかなく、自然な発露としての情熱的な愛情はもはや存在しない、マリオルはそのように考える。

彼女たちの母親、過ぎ去った世代の母親たちはみな、やはり美しさを補う色気の技を活用してきたとはいえ、何よりもまず自らの肉体そのものがもつ魅惑、たおやかさが放つ自然な力、女体というものが男の心に働きかける抗しがたい引力によって相手を誘おうとしたものだ。しかし今日は、色仕掛けがすべて、作りこむのが主たる手段にして目的になってしまった、というのも彼女たちにとっては、愛嬌を見せつけることでライバルを苛立たせ、いたずらに嫉妬心を掻き立てることが、男を征服することよりもなお優先されるのだから。(217頁)

  男は脆弱になって退廃に沈み、女は倒錯の内にはまり込んで抜け出せない。両者の間に相互理解の道は開かれず、互いに相手を求めながら満たされず、それぞれが孤独の内にもがいている。要約すると身も蓋もないが、以上があらまし、モーパッサンが見た世紀末フランスの上流人の有り様だった。

 この後、マリオルはビュルヌ夫人と別れる決意をして田舎に隠棲する。しばらく鬱々と過ごすが、そこで出会った若く瑞々しい女性エリザベトを女中として雇い、そして愛人とする。ビュルヌ夫人の内に得られなかった自然な情愛と官能を彼女の中に見いだすのである。だが、そこに究極の安らぎがあるのでもなく、欲望が満たされることはない。田舎女の素朴さだけではもはや駄目なのである。

「ああ、この二人を合わせた女、一方の愛情ともう一方の魅力を備えた女がいたなら。どうして夢見るとおりのものは決して見つからず、いつもほぼそれに近いものにしか出会えないんだろう」(286-287頁) 

  そうストレートにぼやかれると阿保らしくもなるが、主人公(つまりは作者)はいたって真面目なのだと考えるよりない。自然から逸脱してしまった人間はもはやそこに帰ることはできず、おろおろと彷徨をつづけるしかない(そう書くとやっぱりルソーっぽいが)。それが現代人の宿命だというのだろうか。少なくともモーパッサン自身はなんらかの答を見いだすことのないままにこの小説を終えているし、その後に小説を書きつづけることもなかったから、彼がここから先、どこに向かうことになったのかをはっきりと知ることは出来ない。

 1889年、モーパッサンは病に苦しみ、逃げ場を求めるかのようにあちこちに放浪するが、決してどこにも落ち着くことはできななかった。そんな状態の中で身を振り絞るようにして言葉を綴り、このなんとも寂しい男と女の姿を描いたのだった。40歳、今から見ればそれはあまりにも早いが、しかし紛れもない「晩年」であった。

 

 さて、この『わたしたちの心』は面白いんですか? そうはっきり聞かれると、正直いささか困る。登場人物の「心理分析」は明瞭であり、作者の明晰さはまったく損なわれていない。ただ、私がこの小説を読んでいて思わずにいられないのは、ここではモーパッサンは真面目過ぎるのではないかということだ。作者は主人公の心情を真剣に取り扱っているので、そこに諷刺的な、批評的距離があまり感じられない。そのことが、どうしても物足りなく思われる。「脂肪の塊」を筆頭に、80年代前半の作品に見られる社会(それは他者ということでもある)に対する批評性は、私が彼の内で評価する最も重要な点と言っていいけれど、作者が同時代の問題を我が事として真面目に取り組む時、それが鳴りを潜めるのはやむをえないことだっただろうか。確かに彼は、マリオルと同様にビュルヌ夫人の内面にも視線を向け、彼女の側からも物事を見ており、両者の視線の交錯とすれ違いから互いが相対化されることとなるので、批評性がまったく欠落しているわけではない。そこにはモーパッサン流のニヒリズムが通底している。だが、そうだとしてもだ。

 言い換えれば、作者が同時代とあまりに密接に同期してしまっている、ということでもある。あらゆる風俗小説がそうであるように、時代を機敏に捉えた小説は時代と共に風化することを免れ得ない。同時代に同じように売れたポール・ブールジェがもはや完全に忘れ去られたように、『死の如く強し』と『わたしたちの心』が、いつしか読まれなくなったのに理由がないわけではないだろう。まことに芸術とは難しいものだ。

 だが、ここで話を終えてしまうのも本意ではないので、最後に、私がこの本で最もよく書けていると思うところを挙げるなら、第2部冒頭のモン=サン=ミシェルの描写ではないかと思う。そこを引用して、ひとまず稿を閉じたい。マリオルはアヴランシュの町から海辺を眺める。

 いま立っている丘陵のふもとから、想像を絶する広大な砂地がつづいて、遠くで海と天空に溶け合っていた。砂地には一本の川がうねうねと走り、そして太陽に照らされた群青の空のもと、点々と散らばった水溜まりが光る水盤となり、まるで地中にあるもうひとつの空に向けて穿たれた穴のように見えた。

 潮は引いたがまだ濡れているこの黄色い砂漠の真ん中、海岸から十二キロから十五キロほどのところに、先の尖った巨大な巌の輪郭、頂上に大聖堂を載せた幻想的なピラミッドが屹立していた。

(略)自然のすべてが、いちどきに、ひとつの場に、偉大さと、力強さと、清らかさと、美しさをたたえて目の前に差し出されている。こうして、視線は森の光景から花崗岩の山の幻、すなわち茫漠とした砂浜にゴシック様式の怪しい姿でそそり立つ砂地の孤独な住人へと行き来するのだった。(81-82頁) 

  訳文は明澄で淀みなく読みやすい。優に半世紀ぶりに生まれた新訳によって、まるでモーパッサンが若返ったかのような印象を覚えた。

 モーパッサンが好きというすべての人には「これを読んでこそ彼の全貌が分かる」と言いたいし、いっそ「本当の姿が分かるんです」と言ってしまいたい。若い時の気負いと気取りを取り払ったときに漏れ聞こえた作家の生の声を、ぜひ耳を澄まして聞き取ってほしい。