えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『Marble Ramble』/ポム「火に焼かれて」

『Marble Ramble』

 モーパッサンの短編を漫画化した作品というのは、いろいろあってもよさそうだと思うのだけれど、これまでお目にかかる機会がなかった(ご存知の方がいらしたら、教えて頂けると嬉しいです)。このたび初めて目にすることができたのが、Iさんに教えてもらった

 長崎訓子『Marble Ramble(マーブル・ランブル) 名作文学漫画集』、パイ インターナショナル、2015年

である。この作品集、選ばれている作品がどれも異色で、作者は相当の読書家かと想像される。収録作は以下のとおり。

佐藤春夫「蝗の大旅行」

夏目漱石「変な音」

梅崎春生「猫の話」

向田邦子「鮒」

蒲松齢「桃どろぼう」

曹雪芹「夢の中の宝玉さん」

海野十三「空気男」

モーパッサン「墓」

モーパッサン「髪」

ペロー「青ひげ」

横光利一「頭ならびに腹」

 

 うむ、見事に変な作品ばっかりだ。のほほんとした佐藤春夫みたいなのもあるが、漱石といい梅崎春生といい、なんとも居心地の悪い読後感の残る作品であることよ。かつての愛人がこっそり家へやって来て、飼っていたフナを置いて行くという「鮒」は、いかにも向田邦子らしいどんよりした感じで一際気持ち悪い(もちろん誉め言葉ですよ)。中国ものは人を食ったような怪異譚で、海野十三はなんだかとぼけた味わいだ。そしてモーパッサンの2作、および「青ひげ」がフランスもので、これまたなんだか訳の分からない横光利一で締められている。

 モーパッサンの2作品は、広い意味で「幻想小説」の枠に入れられる作品。「墓」は、最愛の恋人を失くした男が、彼女の墓を暴いて今一度だけその顔を見ようとして捕まり、裁判の場で真実を告白する話。「髪」は古物のコレクターが、古い家具の中に見つけた女性の髪の毛を熱愛し、やがてその髪の内に女性の幻影を見るに至る話(男は捕えられ、今は病院に収容されている)。どちらの作品にも死と喪失、過ぎ去る時間の哀惜といったテーマが共通していると言えるだろう。

 両作品とも、大げさにならずに淡々と語られているところが好ましい。「墓」では、各ページの下部に裁判を傍聴している人たちの顔が並び、初めは憤っていた人たちが、次第に被告の話に胸打たれていく変化が描かれている。モーパッサンのテクストが読者の理解と共感を求めて遂行的に語られているということを、明確に視覚化してみせるよい演出と言えるだろう。

 一方の「髪」だが、髪(男性名詞 les cheveux ではなく女性名詞 la chevelure であることがとても重要)の内に女性の幻を見るに至るという展開は、文字だけしかない文学だからこそ、読者に説得的に訴えかけることができるのではないか、という気もするのだが、果たしてどうだろうか。漫画では髪の束を手に町を歩く男の姿が客体として捉えられることになり、彼の「異常さ」がはっきりと視覚化されるという効果はある一方、彼に対する共感的な感情は、いささか抱きにくくなっているかもしれない。もっとも、こういうのは原作を知っている人間の贔屓目な見方の可能性はあり、原作を知らない人が読めば印象は大きく違うだろうか。

 落ち着いたトーンの、穏やかな語り口の中にしみじみ「変さ」がにじみ出ている本作品集、その味わいはゆっくりじわじわと効いてくるようである。

 

 Pomme ポムさんのアルバム À peu près 『だいたい』(2017) より、"On brûlera" 。どう訳していいのか分からないのでとりあえず「火に焼かれて」としておく。冒頭は "On brûlera toutes les deux / En enfer mon ange" 「私の天使よ、地獄で/二人とも焼かれるでしょう」。この「二人」はともに女性ということか。

 それはともかくこのクリップをご覧いただきたい。ああ、ぞわぞわする。

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Que la mer nous mange le corps, ah

Que le sel nous lave le cœur, ah

Je t’aimerai encore (x 4) 

("On brûlera")

 

海が私たちの体を食べてしまいますように、ああ

塩が私たちの心を洗ってくれますように、ああ

私はまだあなたを愛するでしょう(x 4)

(「火に焼かれて」)

 なぜエスカルゴかといえば、不快な存在で、多くの人に嫌われているから、それはある種の人々に、ある種の国に、ある種の文化や宗教に受け入れられなかったり、断固として拒絶されたりする愛の象徴だから、とビデオの下に説明として書かれている。うむうむ。

 ああ、このカタツムリ、本物なんでしょうか。違うのかな?

『未来のイヴ』/ポム「天国から」

光文社古典新訳文庫『未来のイヴ』表紙

 いやはや、こんなに長かったっけ。

 ヴィリエ・ド・リラダン未来のイヴ』、高野優訳、光文社古典新訳文庫、2018年

は、なんと800頁を超えており、本文だけでも768頁まである。もっとも比較的短い章に区切られているし、この新訳は平易な言葉遣いで書かれているので、決して読みにくいということはないのだけれど、しかしまあ通読にはそれなりに骨が折れる。なにしろ、あちこちいろいろと訳が分からないのだ。

 本書は全六巻から成っている。第一巻「エジソン氏」は、メンロパークの魔術師たるエジソンの夢想に割かれている。彼は古代人が蓄音機をもっと早くに発明していたら、どれほど重要な歴史的出来事が録音されたことだろうかと考える。それ自体は興味深くもある発想ながら、旧約聖書やら古代ギリシア・ローマの神話やらがどんどん出てきて、どこまで真面目なのかよく分からない話が延々と続く。

 ようやく11章で若き友人のエウォルド卿が登場し、自殺を決意したと告げる。彼は絶世の美女アリシア・クラリーに出会い、恋人になるが、彼女が外見にそぐわない空っぽな中身しかないことに絶望したという。

 第二巻「契約」において、エジソンは理想の肉体から魂だけを引き剥がすことを請け負う。そこにアンドロイドのハダリーが姿を現す。エジソンハダリーにミス・アリシアそっくりの外観をまとわせるといい、エウォルド卿と契約を結ぶ。二人はエレベーターで地下の秘密の部屋に赴く。

 第三巻「地下の楽園(エデン)」は短く、人口楽園の様子が描写され、そこにおいて二人は再びハダリーと出会う。

 第四巻「秘密」においてエジソンは、自分がハダリー作製に乗り出した経緯を語る。友人だった堅実な男アンダーソンは、踊り子のイヴリン・ハバルとの恋によって身を滅ぼした。当の彼女はといえば全身を化粧や装飾で飾り立てたうわべだけの存在であり、その実体は〈無〉でしかない。そのような虚飾に満ちた女たちに換えるに、自分は電気仕掛けのアンドロイドを提供しよう、そう考えるに至ったという。ここに至って19世紀的なミゾジニー(女性嫌悪)の言説がこれでもかとぶちまけられているので、現代の読者の多くが意気を削がれることだろう。

 第五巻「ハダリー」は、人造人間がいかに出来ているかを事細かに語る。そもそもエジソンがエウォルド卿に逐一ハダリーの中身を説明しなければいけない理由も存在しないが、作者がなぜここまで執拗に機械仕掛けの説明に拘るのかもよく分からない。ヴィリエは本気で自動人形が作りたかったのか? なんにしろ第3章「歩行」、第5章「平衡」のあたりは読むのがかなり辛い。訳者の苦労が偲ばれる。ともあれ説明終わって、エジソンとエウォルド卿は地上に戻る。

 第六巻「幻あれ!」において、アリシアが登場。三人は夜食を取り、エジソンは彼女の彫像を作るといって体を測らせる約束を取り付ける……。こうして第2章の末尾、630頁に至ってようやく長い一日が終わる。この間、行為はごく少なく、もっぱら妄想、議論、説明、描写などが頁を埋めているのであるから、この『未来のイヴ』、19世紀の小説としては相当に破格な部類に入るだろう。独身貴族の妄想全開という意味で、ユイスマンスの『さかしま』と一脈通じるものがあると言えるかもしれない。

 さて、第六巻第3章以降、エジソンハダリーをミス・アリシアそっくりに仕上げる作業に没頭する。そして遂に完成したという知らせを受けたエウォルド卿がやってくるが、先に本物のアリシアと話をつけておくべく、彼女と一緒に庭を歩くと……。

 というところでおよそ650頁。正直に言ってここまで来るのはなかなか骨が折れるし、明らかにいささか冗長に過ぎるし、色々とあちこち古びてしまっている感も否めないのである。いや本当に、このまま読み続けるべきなんだろうかと迷ったことも一度ならずであった。

 だが、しかし。なにごとも辛抱はしてみるものである。本物のミス・アリシアだと思っていた女性が、実はすでに完成したハダリーだったと知ってエウォルド卿が愕然とするところから先は、話がそれまでとは打って変わった方向に展開し、幕切れまで間然とするところがないと言っていいのではないだろうか。

 詳細を割愛してごく簡単に結末を述べれば(ネタバレご容赦)、最終的にこれは、エジソンが造り出した「理想の身体」に、ミス・エニー・ソワナなる〈無限の世界〉から到来した「理想の精神」が結合することによって(ニヒルエジソンの意図を越えたところで)「理想の恋人」という夢が実現してしまう話なのである。これには素直に驚いた。しかし永遠の理想とは実現すべからざるものであるからして、実現したと思われたのも束の間、エウォルド卿がハダリーを故郷に連れ帰ることはできず、彼女は船の火事によって永遠に失われてしまうことになる。

 ソワナの台詞の内には「理想」とはそれを信じる者にとってのみ現実となりうる、といういかにもヴィリエ的な思想が如実に表れており、その意味においてハダリー=ソワナの存在を受け入れることを決意するエウォルド卿の内には、作者の夢が具現化しているのであり、だからこそこの結末部分ははかなくも美しいものとなっているのである。

 だが、ここで改めて「だが、しかし」である。だとしたらそれまでの650頁、人間の中身なんてしょせん空っぽなのだから、美しい虚飾の見せかけさえあれば十分だというエジソンの思想(本書の内で最も現代的と言えるのはこの部分だろう。実にポストモダン的だ)と、あのハダリー製作のもろもろの理屈と詳細の一切はいったい何だったのだろうか、という根源的な疑問を抱かざるをえないのである。反対に、もしもそちらこそが大事であったのだとすれば、末尾の展開はいかにも取って付けたものであるという感をぬぐえまい(なにしろ催眠術と幽体離脱である、見方によっては胡散臭いことこの上ない)。ハダリー消失に必然的根拠がないという点もプロットの弱さとして指摘されるだろう。結局どちらであったにしても、前の650頁と後ろの100頁との間に断絶(めいてみえるもの)が存在するのは否定しがたいように思われる。

 まあしかし、ともあれこの800頁、最後まで読めば後悔することはないと請け負いたい。19世紀末、ベル・エポックのフランス、〈電気〉という奇跡が人々を幻惑した時代に「科学的想像力」が生み出した妖しいあだ花、『未来のイヴ』は、AIの時代の到来を待ち受ける21世紀初頭の我々にとって、不思議なほど身近に感じられるに違いない。

 なお、海老根龍介先生による末尾の解説が要を得た優れたものであることを記しておきます。21世紀に入ってから奇跡のように登場した「読めるヴィリエ・ド・リラダン」が、若い人にも面白がってもらえることを願いつつ。

 

 Pomme ポムさんのファースト・アルバム À peu près『だいたい』(2017)より、"De là-haut"「天国から」。

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De là-haut, je vous vois si petits

Tout là-haut, ma peine s’évanouit

Tout là-haut, des visions inouïes

Du soleil qui mange la pluie

("De là-haut")

 

天国から、あなたたちは小さく見える

はるか天国で、私の痛みは消えてゆく

はるか天国で、驚くような光景

太陽の光が雨を食べている

(「天国から」)

「対訳で楽しむモーパッサンの短編」第5回/ポム「逃走中」

『ふらんす』2019年2月号表紙

 『ふらんす』2月号に、「対訳で楽しむモーパッサンの短編(5) 「クロシェット」①」が無事に掲載されました。これまで扱ったことのない作品を取り上げられたのが嬉しいです。コラムは「オールド・ミスと呼ばれた女性たち」、モーパッサンは生涯独身で通した女性を繰り返し描いていますが、それはどうしてでしょうか。手に取ってお読みいただけましたら嬉しいです。

 

 Pomme ポムさんは1996年生まれ。「逃走中」"En cavale" は最初に出したEPの曲。

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Et nous aussi, on a plus rien à se dire

Plus le moindre instant à s'offrir

Je ne sais même plus lire ton visage

Je n'comprends plus tes mots

On a tourné la page

On a rentré les crocs

Mais ne m'en veux pas, si je pense encore à toi

C'est que je regoûte, en silence, à cette vie-là

 

J'ai fait le tour et notre amour est en cavale

Il nous a volé une année à tous les deux

Laisse-le partir, on va pas crier au scandale

On le retrouvera peut-être quand on sera vieux 

("En cavale")

 

そして私たちも、もう言い交わすこともなく

与え合う一瞬ももうないのだから

もうあなたの顔を読むこともできないし

あなたの言葉も分からないから

ページをめくってしまったの

爪を収めてしまったのね

でも恨まないでね、まだあなたのことを思っていても

ひっそりと、あの人生をもう一度味わっているの

 

すべてを知ってしまったし、私たちの愛は逃走中

愛は私たち二人から一年の時を盗んでいった

去って行くに任せましょう、スキャンダルだと騒がないでおきましょう

きっと年を取ったら、また見つけることでしょう。

(「逃走中」)

『マッドジャーマンズ』/クリスチーヌ&ザ・クイーンズ「ダズント・マター」

『マッドジャーマンズ』表紙

 フランスではないけれど。

 ビルギット・ヴァイエ『マッドジャーマンズ ドイツ移民物語』、山口侑紀訳、花伝社、2017年

 この漫画を読むまでモザンビークの歴史なんて何にも知らなかったから、歴史的事実にまずは驚くばかり。

 ポルトガルの植民地だったこの国では、1964年以降、独立のための武装闘争が始まる。1975年に独立を果たし、フレリモの支配する共産主義国家になった。そして同じ共産圏同士ということで、1979年以降、東ドイツモザンビークから出稼ぎ労働者の受け入れを開始、1989年までに計約2万人が東ドイツに入国した。この間、労働者の給料は約60%が天引きされ、故国で貯金されているはずだったが、実際にはどこかへ消えてしまうことになる。

 さて、モザンビークでは76年以降内戦が勃発、92年に終結するまでの間に100万人以上の死者、多数の難民を生みだす。その一方で、1990年にドイツ統一後、ドイツでは移民に対する差別・暴力が激化し、多くの労働者たちが帰国を余儀なくされる。そしていざ帰国してみれば、故郷は様変わりしている上に、内線を経験していない者として白眼視され、故国においても差別を受けることになる。それが「マッドジャーマンズ」と呼ばれる人たちであり、彼らは、二重の意味で故国を喪失した者たちだと言える。

 本書は、ふとした縁から彼らの存在を知った著者が、何人へもの聞き取りと資料収集の上で、彼らの経験を架空の3人の人物の人生にまとめ上げた物語である。全体は3部からなり、男性2人、女性1人が自らの過去を回想する形になっているが、3人はお互いに関係を持っているので、順を追っていくなかで、最初は分からなかった話の全体が見えてくるという、非常によく練られた構成になっている。

 最初の人物ジョゼは内気な青年で、東ドイツで熱心に勉強し、将来への希望を抱くが、やがて夢破れて帰国し、寂しい余生を過ごすことになる。2人目のバジリオは開放的で、東ドイツでは多くの女性と付き合って楽しむが、仕事は厳しく、統一後は彼も帰国し、故国で失われた積立金の返還を求める運動を続けている。3人目のアナベラは、内戦で故国の家族を失うが、ドイツの地で勉学に励み、統一後に医師の職に就くことができる。その意味で彼女は、先の二人に比べれば「成功者」と呼べるのだろうが、しかし本作の結末は決してハッピー・エンドではない。ドイツで暮らしつづける彼女であっても、ドイツは故国にはなりえず、彼女もまた故郷を失った者としてありつづけるしかない。著者は、多くの移民が抱えるであろう、そのような「現実」から目を逸らさずに、「故郷とは何か」という問いを抱きつづけるのである。

 本文はカーキ色を使った2色であるが、この渋い色合いが内容とよく合っている。随所に挟まれるアフリカの民芸品を思わせる絵がとくに印象深く、芸術性を高めている。また、パンフレットやチラシなどの当時の資料がたくさん描かれており、それが物語にリアリティーと記録としての価値を付与していることも見逃せない点だろう。本書は、丹念な取材と、手を抜かない堅実な仕事と、歴史に翻弄された人々の生きざまに向ける真摯かつ優しい眼差しとから出来上がった、たいへん得難い貴重な作品である。

 このような人生もある、ということをしみじみと思わされる『マッドジャーマンズ』。決して明るいとは言えない内容ではあるけれど、一読、その印象は深く胸に残るに違いない。

 

 クリスことクリスチーヌ&ザ・クイーンズ Christine & The Queens のアルバム Chris のCDは、仏語版と英語版の2枚組み。仏語版の「ダズント・マター(太陽を盗む者)」"Doesn't matter (voleur de soleil)"。ルフランは英語のみ。

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It doesn’t matter, does it

If I know any exit

If I believe in god and if god does exist

("Doesn't matter (voleur de soleil)")

『読書術』とゆっくり読むこと

ファゲ『読書術』表紙

 Tsさんに存在を教えてもらって、そんな翻訳が出ていたなんて知らなかったなあ、と感動したので読んでみた本。

 エミール・ファゲ『読書術』、石川湧訳、中条省平校注、中公文庫、2004年

もとは戦前に出ていたものの復刊であり、ごりごりの直訳調は今となっては結構読みにくいが、しかしこれがなかなか興味深い。

 エミール・ファゲ(1847-1916)は長く学校教師を勤め、最後はパリ大学で教鞭を取った。その傍ら新聞・雑誌に評論を多数寄稿、著作も多く、1900年にアカデミー会員にも選ばれている人物。なんと、モーパッサンとまったく同時代の、いわゆる講壇批評家の一人である。

 ではあるがしかし、ファゲは「まえがき」において、自分は「享楽」のための読書の技術を説くと述べている。そして第一章の題は「ゆっくり読むこと」。

 読むことを学ぶためには、先ず極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして次には極めてゆっくりと読まねばならぬ。そして、単に諸君によって読まれるという名誉を持つであろう最後の書物に至るまで、極めてゆっくり読まねばならぬだろう。書物はこれを享楽するためにも、それによって自ら学ぶためあるいはそれを批評するためと同様にゆっくり読まねばならぬ。

(エミール・ファゲ『読書術』、石川湧訳、中公文庫、2004年、13頁。以下、頁数のみ記述。)

 という冒頭の文には、膝を打って「その通り!」と言いたくなる。「ゆっくり読む」とは、注意深く、反芻し、読みながら考えるということであろう。読書は急いではいけないし、焦ってはなおいけないのだ。

 本書は第2章「思想の書物」、第3章「感情の書物」、第4章「戯曲」、第5章「詩人」とジャンル別に語り、第6章「難解な作家」、第7章「悪作家」について述べ、第8章で「読書の敵」(自尊心・臆病・激情・批評心)を取り上げ、第9章で「批評の読書」の意味を、第10章で「読み返すこと」の意義を論じ、第11章「結語」で終わっている。

 ここでは第3章だけを取り上げて、「ゆっくり」と読んでみることにしたい。

 第3章で扱われるのは基本的に小説の読書である。この場合、最初に必要なのは「身を委ねる」(40頁)ことだと著者は言う。

虚構によるかかる我々の自己領有はかなり奇妙な事柄である。それは一種の陶酔である。すなわち、我々の個性の喪失であり、かつ同時にその増大である。それは暗示的な状態である。我々を熱中させる小説を読みながら、我々はもはや我々自身ではなく、我々の前に提示された人物たちのなかに、またホラチウスがいみじくも言った如きマグスすなわち催眠術師によって描かれた場所のなかに生きているのである。そこには我々の個性の喪失がある。

(41頁)

  しかしこの自己喪失は同時に「個性の増大」でもある。なぜなら、我々よりも一層力強く、充実して生きる人物たちの「借り物の自我」を受け入れることによって、私の自我も成長するからだ。「我々自身の魂は、自分が受取る他人の魂を包み、そしてそれによって見事にあるいは少くとも我々にとって見事と思われる仕方で、滲透されかつ豊富にされる」(42頁)ことを、我々は感じる。

 「感情の著者」に対する時にはこの嗜眠状態が絶対に必要だが、しかし覚醒し、「心を取り直し反省すること」(43頁)にも新しい喜びがある。感情によって登場人物を生きる経験をへた後には、理性によって検討を加える時が来るというわけだ。

 作品の内容についてその真偽を判断する時、我々は各自、「自己の周囲の人々を観察するかなり大きな習慣」(44頁)を前提としている、とファゲは言う。そして、自己の経験に照らし合わせることで、小説が「確実に人生を写した――というよりも寧ろ人生の特徴を一層力強く示すように人生を変形した」と思える時、人は「激しい嘆賞の感覚」(45頁)を感じる。

小説は、もしそれがよい小説であるならば、我々を逃れていた人生、我々の怠惰な攻撃から半ば逃れていた人生そのものを捉えるべく我々を援助する。

(略)我々はかくして現実から虚構に赴く。そして虚構が我々にとって価値を持つのは、ただそれが我々の眼から見て現実に浸透されているからである。そして現実は、我々が現実に浸透された虚構を通過したのちに、そこに立帰って来るとき、我々にとって一層興味深い。

(45-46頁)

  相変わらず訳文はいかんともしがたいが、つまり優れた小説によって「現実」が、それまでの私によってよりも一層明確に、鋭敏に把握されているのを理解することによって、私の世界観は鍛えられ、よりクリアなものになり、また「現実」を新たな視線で眺めることが可能になる、ということであろう。

 さらにファゲは、虚構を判断するための「もう一つの基準」として「我々自身の内部を眺めること」(46頁)を挙げる。我々は各自一つの世界であり、すべてのものが萌芽として存在しているのであるとすれば、小説はその潜在するものを凝縮して形にするのだというのである。

虚構、 それは常に作者の手中においてある人物と成った我々の一部分であり、他の人物と成った我々の他の部分である。以下同様。そして我々が判断するのも、我々自身の上に立帰ることによってであるのが最もしばしばである。

(47頁)

  だから我々は、登場人物のそれぞれの内に「自分」を発見することになる。またそれができるためには、読書には「自己心理の分析の能力」(47頁)が必要とされるだろう。

 時に虚構は我々に「驚異」を抱かせる。初めは「これは真実ではない!」と反発を抱かせるが、やがて「あり得ないことではない」と考えるに至らせる。

それは、我々の魂の未だ知られざる奥底が半ば我々に啓示されたからであり、この外からの援助によって無意識の一部が我々の意識の中に入ったからであり、我々が我々自身を従前よりは一層深く眺めるからである。

(48-49頁)

  そこにあるのは、自分の知らなかった自分の発見である。

 話はこの後もまだ続いていくのだけれど、ひとまずここまでとしておこう。煎じ詰めれば、読書とは無意識的・意識的な二重の体験を経ることによって、自己の感受性をより広く豊かなものにし、また他者や自己に対する認識と理解を広げ、また深めてくれるものだ、そんな風に要約できるのではないだろうか。

 なるほど、そのように簡約してみると、これは言葉の本来的な意味における「教養主義」的な読書観であることがよく分かる。実際、そうに違いあるまい。なにしろ原著は1911年に出版されたものであり、最初の翻訳は昭和9(1934)年に出ているのである。もっとも最初に確認したように、ファゲは「享楽」のための読書を語っているのであり、本書は決して説教臭いような代物ではない。しかし彼が読書の「効用」を語るとき、その根底に教養主義的思想が存在しているように見える。

 そしてこんにち、このような教養主義的な見方がかえっていささか目新しく見えるとすれば(だからこそ復刊もされたのだろうと推測される)、それは、このような教育的読書観が、50~60年代にアカデミックな世界を席巻したヌーヴェル・クリティックによって、徹底的に厭われ、切って捨てられ、忘却されたからだと、少なくとも理由の一端はそこにあるのだと言って間違いではないだろう。

 「テクストの快楽」が「人格陶冶のための読書」を駆逐した。かくして我々は「修身」から解放された。

 だがそのようにしてひとたび人が自由になった後、70年代から80年代にかけて、アカデミーにおいて書籍がいわば知的遊戯によって弄ばれている間に、巷では一般の人々の古典離れが着実に進行していたのではなかっただろうか。その二つの現象の間に、関係はなかったと言えるのだろうか。

 もっとも、実際のところは、両者は同じ時代の趨勢における二局面に過ぎなかったのであり、どちらかがどちらかの理由であるというようなことはなかったのかもしれない。きっとそんなものなのだろう。

 こんな風に話を進めていくと、まるで自分が保守反動の老人のように思えてくるから、我ながらいささかげんなりしてくる。なぜ私がこんなことをくどくど綴っているのかというと、職業がら、昨今、「古典読書の意義」をどのように説くことが自分にできるのかを考えているのだが、結局のところ、自分が行き着いてしまうのがファゲ流の教養主義的読書観以外にないという事実が、今の私にとっての大きな課題であるからなのだ。

 テクストの快楽が、今時のゲームの興奮と悦楽に勝てるとは、はっきり言って私には思えない。だけれど、若者が自己を自ら育てるためには(それは必要なことだと私は信じたい)、古典を読むに勝る手段はないのではないか。

 そんな風に思いはするのだけれど、だがしかし、本当にそういうことでいいのだろうか? エミール・ファゲよ、もう一度ということで? また一方では、こんな風に語るとき、結局は私は「功利主義」という罠に陥っているのではないだろうか。そんな疑念にも襲われるから、なおいけない。話は堂々巡りで答を見いだせないことになる。

 というわけでなんだか尻切れとんぼなのだけれど、今日はここまでとしたい。「ゆっくり読む」とは、きっと簡単に答を見いだすことではないはずだから、これはこれでよしとしたいと思う。

 ゆっくり読んで、よく考えること。答えはいつか見つかるだろう。

 二つの教育がある――第一は人が学校において受けるもの、第二は人が自分に与えるところのもの。第一の教育は不可欠である。しかし価値のあるのは第二の教育しかない。

(「第九章 批評の読書」、216-217頁)

『空飛ぶ馬』とフランス文学

『空飛ぶ馬』表紙

 北村薫のいわゆる「私」シリーズは、今年で登場以来30年になるが、今も人気のある作品であることは言うまでもない。語り手の「私」、探偵役の落語家春桜亭円紫をはじめとした登場人物がいずれも生き生きと描かれていることはもちろん、この作品において「謎」とは人の「心」が生み出すものであり、そうである以上、「謎」の解明はおのずから明るい面、暗い面を含めた人の「心」の機微に光を当てることである、という作者の揺るぎない確信が、ミステリーという形式の内において人間を描くことを見事に可能にしている。そしてそのようにして多様な人々の「心」に触れることが、「私」の成長と密接に関わっているのであり、巻を追う中でその語り手の成長過程を辿れることも、読者にとって大きな喜びの理由の一つだろう。

 ところで、その最初の巻である

 北村薫『空飛ぶ馬』、創元推理文庫、1994年

を改めて開いてみると、あちこちにフランス文学への言及が散りばめられていることに気づかされる。登場時の「私」は大学2年生、2巻以降で日文科に進み、芥川で卒論を書くことになるわけだが、フランス文学も実によく読んでいるのである。もちろん「私」が読むのはフランス文学だけではなく、日本文学、イギリス文学と色々あるのだけれど、それでもフランスの作家の作品がとりわけ目立つのは確かである。

 そこでここでは、作家と作品へのオマージュの意を込めながら、その言及を一つずつ確認してみたい。

 まずは「織部の霊」、巻頭、3頁目からすでに目に飛び込んでくる。

ちなみに私の趣味は文学部の学生らしく古本屋まわりである。昨日手に取ったのは昭和四年版新潮社の世界文学全集。フランソワ・コッペの『獅子の爪』を読んで、しおらしい気持ちになったりしていた。

北村薫『空飛ぶ馬』、創元推理文庫、1994年、11頁。以下、頁数のみ記述。)

 最初からこれなのだから、「私」の読書家ぶりは本物だ。出典は、

 世界文學全集第36巻、『近代短篇小説集』、新潮社、1929年

の中のフランンソワ・コッペ「獅子の爪」、内藤濯訳、38-46頁。高級娼婦の母は娘の玉の輿を狙っているが、その娘オルガ・ババリイヌに恋した海軍大尉ジュリアン・ド・レが彼女に思いを打ち明けるも、彼女は毅然とした態度で拒絶する、という、いささかロチを思わせるようなロマンチックな物語だ。

 なお「私」は、曇ったガラス窓に「ちょっと下がった指先で L'histoire--歴史といたずら書きをした」(13頁)りするが、美味しいコーヒーを入れてくれた加茂先生の言葉に対して。

「うまいと、つい飲み過ぎてしまうんですよ。本当に自分で心配になるくらいです。きりがない。それで困ります」

 バルザックのように、と追い掛けそうになって何となく生意気なような気がしてやめた。

(20頁)

  バルザックは19世紀の文豪にして近代小説の生みの親。濃いコーヒーをがぶ飲みして徹夜で小説を書きまくった、というのはその筋では有名な逸話。

 次は2話目の「砂糖合戦」。

 私はちょっと離れたところに立ち、バッグから文庫本の『ブヴァールとペキュシェ』を取り出した。

(118頁)

こういうさりげない言及が、分かっている者には嬉しいものですね。文庫本とある以上、

 フロベールブヴァールとペキュシェ』、鈴木健郎訳、岩波文庫、上中下巻、1954-55年

に違いないだろう。フロベールでも『ボヴァリー夫人』、『感情教育』ではなく、『ブヴァール』という「通ぶり」ににやりとさせられるところ。

 「胡桃の中の鳥」には横光利一『寝園』の中の「じゅ てえーむ……じゅてえーむ こむ じゅ てえーむ」(150頁)というフランス語が取り上げられている。また、女の子の「ママン」という呼び声に「フランス語の《ママン》ではない」(164頁)という注釈もついている。こんな風にフランス語に反応してしまうところに、興味をもって第二外国語を学んでいる大学生らしさが表れている。

 夜に宿屋で正ちゃん、江美ちゃんとお酒を飲む場面は、本作の中でもっとも印象深いシーンの一つであるが、そこでもフランス文学が大事な役を担っているところが、なんとも憎らしい。少し長いけれど引用させて頂きます。

 「何せね、ヨーロッパじゃあ女にも魂があるかっていうのは公会議の議題になって、結局多数決で決めたんだってさ」

 「どっちになったの?」

 江美ちゃんが聞く。

 「女にも魂はある! めでたしめでたし」

 「何で読んだの?」

 「アナトール・フランス。『エピクロスの園』」

(179頁)

  出典は、アナトール・フランスエピクロスの園』、大塚幸男訳、岩波文庫、1974年

の中の「エリュシオンの野にて」。せっかくなのでこちらも引用。

 マコン[パリの東南約四百キロにある町]の公会議の出席者の一人であった神父が彼に答えた。

 ――プラトンよ、そのお言葉は偶像崇拝者の言です。マコンの公会議は、五八五年に、多数決で、女に不滅の霊魂があることを認めたのです。それに、女は人なのです。処女から生まれ給うたイエス・キリストは、福音書の中で「人の子」と呼ばれているのですから。

(『エピクロスの園』、147頁)

フランスは今では読まれることの少なくなった作家。『エピクロスの園』は、懐疑主義、ニヒリスム、相対主義に溢れた哲学的エッセー。読んでみると、その犀利なエスプリが、芥川龍之介に影響を与えたのが頷かれるような作品である。

 同じ場面で引き続いて、さらに重要な言及が見られる。引用しますが、乞うご容赦。

  「――世の中の人は、男のペダンティスムは許してくれる。老人の醜さを許すように。でも《女》にはそのどっちも許さない」

 江美ちゃんが、にこっとした。

 「うまいわね」

 私は布団の上で、パジャマの両手を後ろについて続けた。雲の上に座っているようだった。

 「――アルベール・ティボーデ」

(181頁)

言及はこれだけである。さてこの出典は何か? いささか憚られるようだけれども、明かさせていただきたい。

世間では男にはペダンティスムを大目に見てくれるものだ。ちょうど老人に醜を許してくれるのと同じである。ところで、女のひとにはこのどちらも許してはくれない。

(アルベール・ティボーデ『小説の美学』、生島遼一訳、人文書院、1967年初版、1976年重版、「小説の読者」、36頁)

ティボーデは20世紀初頭の文芸批評家、ベルクソンの弟子筋にあたる人。主に19世紀フランス小説を対象に小説を論じたこのような本まで「私」は読んでいる、ということに胸打たれるが、それ以上に、このような箇所を記憶に留めていて、それを作品の内容と密接に結びついた形で利用できる作者の慧眼と腕前にはため息が出るばかり。

 「赤頭巾」の冒頭、歯のかぶせ物が取れてしまった場面。

 天井まである大きな硝子窓を通して、右から左へ流れる人の流れをぼんやり眺める。目には映っているのだが神経は歯に行っている。舌で探ると余計にしみる。それでいて、ぽっかりと空いた穴を探らないわけにいかないのは、我ながら真に不思議である。ヴィリエ・ド・リラダンの傑作、『残酷物語』中の貴公子ポートランド公爵リチャードのことが頭に浮かんだ。猛悪な伝染性の病いを伝えるこの世で最後の患者に会い、思わず手を触れずにいられなかった美貌の青年である。

 それはともかく、このままにしておいたらこっちも相当な『残酷物語』になりそうである。

(217頁)

 と、これまた憎い使い方であることよ。筑摩叢書版、あるいは全集版もあるが、

 リラダン『殘酷物語』、斎藤磯雄譯、新潮文庫、1954年

所収の「ポオトランド公爵」、88-97頁で「私」は読んだろうか。ポオトランド公爵は自らも病に罹り、人を遠ざけて城館に閉じこもるが、臨終間際、恋人のヘレナが身を賭してやって来る。

 砂の上で、とある石の上に肱を凭せ、絶えず、致死の戦慄に顫へながら、神秘の覆面をつけた男は、外套のなかに身を横たへてゐた。

 ――おお不幸な方!(と、帽子もかぶらず、男の傍らに馳せつけた時、幻の女は、顔を掩ひ、嗚咽にむせびながら、叫んだ。)

 ――お別れだ! 永久に!(と男は應へた。)

 逈か彼方、封建時代の城館の地下室からは、歌聲や哄笑が聞え、城館の飾燈は波濤に反映して搖蕩ひ動いてゐた。

 ――そなたは自由の身となつだのだ!……(再び石の上に頭を落しながら男は附け加へた。)

 ――御身は解放されたのです!(と、星を鏤めた空の方へ、はや物言はぬ男の視線のまへに、小さな黄金の十字架を翳しながら、白い幻の女は答へた。)

(『殘酷物語』、94頁)

という、大仰であるがなんともロマンチックな物語。最初の「獅子の爪」のオルガや、このヘレナのような、高潔で誇り高い女性が登場する作品への言及の内に、あるいは「私」の心情を垣間見れるように思うのは、うがち過ぎだろうか。

 それはともかく、『未来のイヴ』(光文社古典新訳文庫)が出た今、『残酷物語』はぜひとも新訳の刊行を期待したい作品の一つである。

 次は、「私」は一日一冊本を読むという計画を実践しているという話の流れで、でも『アンナ・カレーニナ』は一週間がかりで読んだといい、

 ところで『アンナ』の充実感といったらなかった。古典の中でも『アンナ』やら『従妹ベット』やらの質量共に巨大な作品を読むと、愛すべき珠玉篇に触れた時とはまた違った意味で、小説の中の小説という言葉が自然に浮かぶ。そして生きていてよかったと心底思うのである。

(221頁)

は、古典愛読者にはなんとも嬉しい言葉。

 バルザック『従妹ベット』、水野亮訳、岩波文庫、上下巻、1950年

は、『従兄ポンス』(水野亮訳、岩波文庫、上下巻、1970年改版)とともに、バルザック晩年の傑作。岩波重版も願いたいが、これもぜひ新訳の文庫参入を期待したい作品。

 先の引用は、次のように続いている。

 分からないのは例えばヘンリー・ジェイムズ。他では手に入らないからということで買った古い文学全集版で『ロデリック・ハドソン』をやはりこの冬読んだ。正直これにはまいった。三段組の細かい活字を殆ど意地になって読み通し、いい筈の目がしばらく仮性近視気味になった。あれだけ評価の高い作家である。私が間違っているのだろう。現に大学生になって読み返した時には震えるほどだったリラダンの、神の手になるような作品『ヴェラ』でさえ、高校生の時には何とも感じなかったのだから。

(221頁)

リラダン」は正しくは「ヴィリエ・ド・リラダン」丸ごとが姓であるが、それはともかく「ヴェラ」も『残酷物語』所収の短編。ただし有名なので各種アンソロジーでも読めるだろう。ついでにいえば、

 『リイルアダン短篇集』、辰野隆選、岩波文庫、上巻、1952年

にも、「ヴェエラ」、鈴木信太郎譯が入っている(29-45頁)。

 フランス文学ではないが、241頁にはマルシーリオ・フィチーノの『恋の形而上学』が登場。15世紀イタリア・ルネサンス人文主義者。16世紀のフランス文学にも大きな影響を与えた、プラトニック・ラブの出所の書だ。

ペローの『赤頭巾』などは明らかに男と女の譬えになっているそうです。

(274頁)

の台詞からは「私」が読んだかどうかは判別できない。翻訳は色々あると思うが、文庫であればやはり、

 『完訳 ペロー童話集』、新倉朗子訳、岩波文庫、1982年

が手近だろうか。シャルル・ペローは17世紀の文学者。民話を元にした「童話集」には「赤ずきんちゃん」の他に、「眠れる森の美女」「青ひげ」「長靴をはいた猫」「サンドリヨン(シンデレラ)」などが含まれている。

 さて、ようやく最後まで来た。最終話「空飛ぶ馬」ではアンデルセンやグリムの童話が話題になるが、フランス文学も一か所だけ登場する。

 ほうっと息をつきたくなるような気持ちで、私はドアのところから、しばらく二人を眺めていた。それから、『カストロの尼』を取り出して読み始めた。

(297頁)

 スタンダールカストロの尼 他二篇』、桑原武夫訳、岩波文庫、1956年

 スタンダールカストロの尼』、宗左近訳、角川文庫、1970年、1990年再版

あたりか。「十六世紀イタリアを舞台に、山賊の青年隊長と美貌の尼僧との灼熱の恋を描く傑作」というのが岩波の帯の惹句。

 これで、バルザックスタンダールフロベールという大物に加え、コペ(コッペ)、ヴィリエ・ド・リラダン、フランスと、計6人の19世紀の作家、それにペローとティボーデを加えたぜんぶで8人のフランス作家が、『空飛ぶ馬』を構成する5つの短編の内に登場している、ということになる。すべての短編に誰かが登場しているという辺り、作者の周到な計算と見て間違いないのではないだろうか。かように「私」の読書には、主に19世紀のフランスの作家が大きな位置を占めていたのである。

 北村薫は1949年生まれ、1989年に登場した「私」がその年に二十歳を迎えたとすれば、彼女は1969年生まれという計算になり、作者より20歳下と考えられる。「私」の読書の中身は実際のところ、作者その人の経験を大きく反映しているに違いないだろうから、70年代の仏文寄りの文学青年の読書内容としては、あるいはこのぐらいに読んでいる人たちは少なくなかったのかもしれない。もっとも、90年代にあってここまでの読書好きの数は、実際のところは少なくなっていただろうが、いずれにしても、この『空飛ぶ馬』一冊の内に、戦後日本に咲き誇った翻訳文化が確かに息づいているという事実を確認することに、私は大きな喜びを感じるのである。

 全国の「私」シリーズ愛読者の方々が、ぜひこの作品をきっかけに、古典読書の道へ歩みだされることを願って、新年最初の稿を閉じることとしたい。

 慶賀新年。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

『死刑囚最後の日』/ミレーヌ・ファルメール「不服従」

『死刑囚最後の日』表紙

 『死刑囚最後の日』と言えば、今は昔、大学生の頃に岩波文庫豊島与志雄訳で読み、結構感動したことを覚えている。若かったなあ。

 当時はフランスについて勉強を始めた頃でもあったから、1981年、ミッテラン政権下に法務大臣ロベール・バダンテールが、民意を押し切って死刑廃止を実現させたという歴史を知って、素朴に感銘を受けたりしていたのでもあった。爾来幾星霜。時は流れる。

 ヴィクトル・ユゴー『死刑囚最後の日』、小倉孝誠訳、光文社古典新訳文庫、2018年

は、当時27歳のユゴーが3週間で一気呵成に書き上げたもので、タイトル通り死刑の判決を受けた男性の語り手が、断頭台に送られる直前までの間に書き綴った手記という体裁の、全49の断章からなる短い小説だ。新訳の訳文はたいへん明朗で読みやすく、一息に読むと一層に、明確に定められた死期を待つという状況に置かれた者の絶望的な苦悩が切迫感を伴って押し寄せてきて、こちらまで息苦しくなってくる。

 末尾に付された「1832年の序文」がはっきりと示しているように、『死刑囚最後の日』は死刑制度の廃止を訴えるという明確な目的をもって書かれたプロパガンダであるが、小説じたいは余計な理屈を差し挟むことなく、語り手の悲嘆と絶望によって読者の感情に直に訴えかけてくる力を持っている。その語り手の緊迫した息づかいにこそ、この小説が今も読まれつづけている理由の一端があるのだろう。

 明晰な訳文もさることながら、本書はその解説が実に素晴らしい。刑罰制度の変遷、作品が書かれた時点における死刑を巡る議論のありよう、そうした(読者が知りたいに違いない)社会史、文化史的背景を十分に説明した上で、本作の持つ特徴とオリジナリティとを詳しく論じて遺漏なく、充実した内容でたいへんに勉強になる。私にとってはこれこそがまさしく文庫本の「解説」の理想の姿だと言いいたいぐらいだ。

 さて、『死刑囚最後の日』を一読すると、この語り手が何の罪を犯したのかは、ほとんど言及されないという事実に誰もが気づくだろう。わずかに目にとまるのは「証拠品となる血だらけのぼろ着」(12頁)、陪審員たちは「きっと予謀罪は除外しただろう」(15頁)という言葉ぐらい。「予謀」はなかったとすれば突発的な犯罪だったということか? また、共和派の陰謀で死刑になった者に対し、「それに比べてまさしく罪を犯し、他人の血を流した非道なこの私」(34頁)という述懐を見ると、テロのような政治犯でもなかったと考えるべきなのだろうか。ではこの語り手は、いったいいかなる罪を犯したのか?

 犯した罪が不明瞭な結果として、この語り手は自らの罪をどれほど反省しているのかよく分からない、ということになる。「私は自分の罪を思い出して恐ろしくなる。しかし私はもっと悔い改めたい」(114頁)という言葉があるにはある。だがそのことと死刑判決の妥当性如何の議論とが結びつくことはない。つまり、この小説においては、犯された罪の軽重や、その罪の自覚と反省の程度などは考慮されることがない。そうしたものとの関係の一切を越えて、とにもかくにも死刑制度はその非人道性ゆえに廃止されなければならないというのが、すなわち著者の断固たる立場なのであり、そうである以上、語り手の犯した罪への具体的言及が避けられているのは、極めて当然かつ正当な選択だったと言えるだろう。

 それはそれでいい。ところが「1832年の序文」において、ユゴーは死刑を廃止すべき論理を整然と語って倦むことがないのだが、そこにおいては、死刑を宣告されるような犯罪は、貧しい者がやむにやまれずに致し方なく犯すものであるという見方がされている。後の『レ・ミゼラブル』で述べられる「無知と貧困」こそが犯罪の源にあるのであれば、日本のことわざに言う「罪を憎んで人を憎まず」式に、正すべきは社会であり、犯罪者は懲罰ではなくいわば救済の対象となるべきだということになるだろう。

 だが、そうだとすると一体どうなるのだろう。『死刑囚最後の日』の語り手は、上流階級に属して教養もあると思しい男性である。その限りで彼は「無知と貧困」の犠牲者ではない。もちろん、この語り手は、社会のマジョリティーたる貴族・ブルジョア階級の読者に向けて語るのであり、彼らを説得することこそが彼の役目である以上、彼自身が上流階級に属する人物であることは、本作の必要条件であるには違いない。それはそうだが、そうするとこの語り手が犯した罪は何なのか、という問いが改めて浮上してくることになるのである。

 恐らくは、そのような人物が犯しうる、そして自らの行為について特段の後悔がついて回らず、しかも死刑に値する大罪として想定しうるものがあるとすれば、それは、共和主義に加担した反体制的な政治的行為以外に無いのではないか。私にはそのように思われる。だがもちろん、復古王政期はもちろん、七月王政期に入ってもなおのこと、それはこのような作品において堂々と掲げられるべきものではありえない(そんなことをしたらマジョリティーの読者の共感は得られまい)。そう考えると、34頁の共和主義者ボリへの言及は、先回って上記のような読解を否定するための予防措置だったのではないかという気もする。

 いずれにしても、名前をもたず、出自や身分も一切不明のこの語り手は、彼の犯した罪の内実もきわめて茫洋として実体を伴わない(伴い得ない)ものでしかない、ということだ(彼に過去が存在しないことは47章に象徴的に示される)。ビセートルの監獄において登場し、コンシエルジュリ監獄を経て、グレーヴ広場とそこに建つ市庁舎でその生を終えるこの匿名の語り手は、いわば純粋な「死刑囚」としてのみ存在していると言ってもいいのかもしれない。

 それはもちろんフィクションである。だがフィクションだからこそ持ちえる最大限の強度をもって、ユゴーは読む者の心を鷲掴みにしようと目論んだ、そんな風に言うことができるだろう。今の私はもう二十歳の時のように素直に心を囚われたりはしない。だがそれでも、「未来の一切を奪われる」ことの絶望に思いを致すことになった。そしていま改めて、若い作家の抱いた意志と熱意に胸打たれる思いでいる。そしてまた、フィクションの持つ可能性について思いを巡らしたりしているという次第だ。

 

 本日もミレーヌ・ファルメール Mylène Farmer のアルバム『不服従Désobéissance (2018) より、タイトル曲。

www.youtube.com

 Désobéissance

A l'audace

Je fais le serment

Des mots d'amour

Plus le temps

D'être à contre-jour

 

Désobéissance

Être soi

Marcher dans le vent

Si le cœur lourd

Détachée

Vent de liberté

("Désobéissance")

 

服従

勇敢さに

私は誓う

愛の言葉で

背に光を受けている

時間はもうないの

 

服従

自分になる

風の中を歩く

もし重たい心が

ほどけて

自由の風

(「不服従」)