えとるた日記

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映画『女の一生』(ステファヌ・ブリゼ監督)鑑賞報告

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映画『女の一生』オフィシャルサイト

 

 12月9日(土)より岩波ホールなどで公開される、ステファヌ・ブリゼ監督『女の一生』を試写会にて鑑賞。その感想を記しておきたい(というのはつまり宣伝と無縁ではないと、前もって記しておこう)。

 この映画の第一の特徴は、アスペクト比1.33対1という(一昔前のテレビのような)正方形に近い画面が選ばれており、手持ちカメラで撮影されている点にあるだろう。クローズアップが多用され、しばしば人物の顔や身体が枠をはみ出し、それによって画面の狭さが一層強調されている。観客は、ある種、窃視しているような感覚に捕われることもあるかもしれない。そのような撮影方法の結果として、人物との距離がとても近く感じられ、そこから親密さが生まれる場合もあるが、それ以上に息苦しさを感じさせもする。それが主人公ジャンヌの捕われた(家族という)狭い世界を象徴的に示すものであることは、容易に理解されるだろう。手持ちカメラによる揺れる画面は、その世界の不安定さを意味している。

 主人公のジャンヌは、18歳で寄宿学校を出て、ノルマンディー沿岸のレ・プープルと呼ばれる屋敷に身を落ち着ける。そこで最初に出会った青年ジュリアンに恋心を抱くと、すぐに結婚が決まる。身寄りのないジュリアンと共にレ・プープルでの暮らしが始まるが、その時から彼女を待っているのは、人生に対する失望と絶望の日々である。主人公役のジュディット・シュムラ(1985-)は、疑うことを知らない純粋さを保ち続ける女性としてのジャンヌを実によく体現していたと言ってよいだろう。下心を持たずに他者を信頼するジャンヌは、それゆえにこそ、次々に夫ジュリアン(スワン・アルロー)、友人、母親(ヨランド・モロー)、息子に裏切られることになる。

 さらに、ジャンヌの運命を決定的に追いつめるのが、二人の対照的な神父である。一人目のピコ神父は、裏切った夫との同居に耐えられずに実家に戻りたいと願うジャンヌに対し、「許す」ことを強要し、彼女の意志を挫く。だが彼女を待っているのは新たな裏切りである。そして、夫とフールヴィル伯爵夫人との不貞を知ったジャンヌに対し、二人目のトルビヤック神父は、今度は「真実」の名のもとに、フールヴィル伯爵に事実を伝えるように命じる。そして待っているのは、決定的な破綻なのである。他者(そこには恐らくは神も含まれるのだろう)への信頼は、ことごとく仇となってジャンヌのもとに帰ってくる。それが人生の、運命の見せる残酷さなのだと、作者モーパッサンは、あるいは監督は告げているようである。

 そんな彼女は次第に過去への追憶にすがるようになるのだが、映画ではそれがフラッシュバックの多用によって表現されている。人生とは現在時だけで成り立つものではなく、思い出に耽ることもまた人生の一部であろう。コルシカへの新婚旅行や、幼い息子ポールとの戯れといった回想シーンはさんさんと降り注ぐ光に溢れる一方で、(現実の)冬のノルマンディー沿岸の光景は、どこまでも厳めしく寒々しい。だがそれは無類に美しくもある。

 この、随所に差し挟まれる美しい自然の光景が、この映画のもう一つの見所であることにも異論はないだろう。巡りゆく季節の中で、英仏海峡の海は、時に穏やかに光り輝き、時に激しい波を立てて押し寄せる。自然は過酷である。しかし人間とは違って、自然は裏切ることがないのだ。この映画では冒頭から、ジャンヌが畑仕事に精を出す場面が何度か現れる(原作では幼少時のポールの場面のみで描かれていた)が、それは、ジャンヌが自然の中の存在であること、そして自然との繋がりの内においてこそ幸福を見いだすことができる、と語っているかのようである。

 映画は原作の筋を基本的に忠実に辿っているが、しかし個々のシーンや台詞の多くは独自なもので構成されている。原作をよく咀嚼した上で、それを映画的表現に移し替える作業がしっかりと入念になされた結果であろう。そしてこの映画は、恐らくは原作以上に徹底して、主人公ジャンヌひとりに焦点を当てた作品となっている。18歳から(27年後の)45歳頃に至るまでの一人の女性の姿を、彼女の喜怒哀楽の表情と細かな仕草のすべてを、カメラは丹念に、じっくりと、時に執拗なほどまでに追い続ける。2時間を通して、まさしく彼女の〈人生〉が、それだけが丁寧に切り取られ、描かれてゆくのを観客は目にすることになる。

 もっともカメラの眼差しは優しいばかりではなく、時には辛辣な視線をヒロインに向けもする。ジャンヌが父親を相手に、自分がポールを甘やかしているのを正当化してみせたり、家の管理を助けてくれるロザリーに対して被害妄想を抱いたりする場面がそうだ。ヒロインのジャンヌは我々の前にどこまでも等身大で、とても身近な姿を見せ続けるのであり、我々はそっと寄り添うように、そんな彼女の人生を共に経験してゆくのだ。

 ステファヌ・ブリゼ監督の映画『女の一生』は、決しておざなりな文芸映画の一本ではなく、明確で揺るぎない芸術観に貫かれた、いささか実験的で、十分に繊細かつ細やかな配慮の行き届いた、すぐれて芸術的な作品である。古臭いメロドラマに陥るような罠にはまらずに、原作を見事に昇華してみせた監督の手腕と、主演ジュディット・シュムラの心のこもった好演とに拍手を送りたい、と締めくくれば、あまりに褒めすぎたことになるだろうか。

 いや決してそうではないと、今の私は自信を持って言いたい気分なのである。

 

 最後に一点補足しておくなら、2時間の中で30年近くの人生を描く以上、この映画は断片的なシーンの連続からなっており、その繋がりはいささか唐突な感を抱かせる場合も少なくない(とりわけ冒頭から前半にかけてその印象が強い)。恐らくは鑑賞前に原作に目を通しておいた方が、理解に負担が少ないだろうと思われる。岩波文庫(杉捷夫訳)、新潮文庫(新庄嘉章訳)、光文社古典新訳文庫(永田千奈訳)、モーパッサンは書店で今も健在であることを記して、稿を閉じることとしたい。

 

『寛容論』の中の日本人/ザジ「すべての人」

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 キリスト教徒がお互いに寛容でなければならないのを立証するには、ずば抜けた手腕や技巧を凝らした雄弁を必要としない。さらに進んでわたしはあなたに、すべての人をわれわれの兄弟と思わねばならないと言おう。なに、トルコ人が兄弟だと、シナ人、ユダヤ人、シャム人が兄弟だと君は言うのか。いかにも、そのとおり。われわれはみんな同じ父をもつ子供たち、同じ神の被造物ではなかろうか。

ヴォルテール『寛容論』(1763年)、中川信訳、中公文庫、2011年(2016年4刷)、「第22章 あまねき寛容について」、158頁。)

  トゥールーズの商人ジャン・カラスは、息子マルク=アントワーヌを殺した罪を問われ、死刑に処せられる。1762年3月のことだ。

 ジャンの一家は新教徒だったが、マルク=アントワーヌは翌日にカトリックへの改宗の宣誓をする予定になっていた。それを許すことができずに父親が殺害に及んだと、裁判で認められたのである。だが実際には、これは旧教徒の新教徒への憎悪が生み出した冤罪事件であり、裁判官は世論に与する形で不合理な判決を下したのだった。

 ジャン・カラスの無実を確信したヴォルテールは、関係する書類の出版を行い、当時の名だたる有力者に書簡を送り、さらに世論を喚起するために『寛容論』を執筆した。不寛容がいかに愚行を生み出してきたか、寛容がいかに尊いものであるかを説いた本作は、今でも事あるごとにその名が思い返される作品となっているが、とにかく、カラスの冤罪を勝ち取るためのヴォルテールの獅子奮迅とも言うべき尽力には頭が下がる。誰にもできることではないだろう。

 それはそうと、この『寛容論』には日本人が出てくることをご存知だろうか。

  日本人は全人類中もっとも寛容な国民であり、国内には穏和な一二の宗派が根を下ろしていた。イエズス会士がやってきて一三番目の宗派を樹立したのだが、しかしすぐに他の宗派を容認しようとしなかったために、ご存知のような結果を招いてしまった。すなわち、カトリック同盟のさいにも劣らぬすさまじい内乱がその国土を壊滅させてしまったのである。そのあげく、キリスト教は血の海に溺れ死んだのである。日本人は外の世界に自国の門戸を閉じ、イギリス人の手によってブリテン島から一掃された手合と同類の野獣のごとき存在としてしかわれわれヨーロッパ人を見なくなるに至った。大臣コルベール卿は日本人の助力を得たいと思ったが、相手側ではわれわれフランス人の助力を少しも必要とはしなかったので、この国と貿易関係を樹立する企ては水泡に帰した。大臣は相手がてこでも動かぬのを知らされたのであった。

(同前、「第4章 寛容は危険であるか、またいかなる民族において寛容は許されているか」、42-43頁。)

  全人類中もっとも寛容な国民。それはきっと麗しい誤解に違いなかっただろう。しかしまあ、麗しい誤解であったということは、決して悪いことではなかったに違いない。

 

 なんとなく話の流れで、ザジ Zazie の "Tout le monde"「すべての人」を聴く。1998年のアルバム Made in Love から。

www.youtube.com

Tout le monde il est beau

Quitte à faire de la peine à Jean-Marie

 

Prénom Zazie

Du même pays

Que Sigmund, que Sally

Qu'Alex, et Ali

 

Tout le monde il est beau

Tout le monde il est grand

Assez grand pour tout l'monde

("Tout le monde")

 

すべての人が美しい

たとえジャン=マリーを悲しませるとしても

 

ファーストネーム、ザジ

ジグムント、サリー、

アレックス、アリ

と同じ国に所属

 

すべてのひとが美しい

すべての人が偉大

すべての人にとって十分に偉大

(「すべての人」)

 言わずもがなではあるが、ジャン=マリーとは国民戦線の生みの親のジャン=マリー・ル・ペンのこと。

『時制の謎を解く』/ジョイス・ジョナタン「今時の女の子たち」

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 フランス語には時制が多い。それは確かに認めざるをえない事実だ。複合過去に半過去に大過去に前過去があって、前未来ってなんだっけ……、というのは学習者が一度は通らなければならない道だろう。

 それにしてもなんでこんなに多いんだ、と多くの人が一度は疑問に思うに違いない。しかし、そんな根本的な大きな問題に、いったいどうやったら答えられるだろう。そんなことをくどくど考えるよりも、とりあえずあるもんは覚えるより仕方あるまいと、ため息をつくばかりだった人もいるだろう(いやまあ、私のことだ)。

 ところが、どっこい。そんな根本的な問いに、しっかりと答えてくれる本が登場した。

 井元秀剛『中級フランス語 時制の謎を解く』、白水社、2017年

 これは実に明快に、フランス語の時制の「謎」を解き明かしてくれる本だ。その目次を見れば、どのように話が進んで行くかが簡明に見て取れる(ところも素晴らしい)。

 第1章 時制をめぐる謎

 第2章 謎解きの道しるべ

 第3章 さまざまな時制の謎を解く

 第4章 半過去の謎を解く

 第5章 日本語や英語からみたフランス語の時制

 第1章では(普段あまり意識していない)時制をめぐるさまざまな「謎」が提示され、なるほど言われてみればあれこもこれも気になる(でも自分ではうまく説明できない)ものばかり。改めて、フランス語の時制の奥深さを思い知らされる思いがする。

 たとえば半過去の使用例では、モーパッサンの『女の一生』も挙がっている。冒頭近く、ジャンヌの一家が馬車でレ・プープルの屋敷に着いた場面だ。

Cependant on s'arrêta. Des hommes et des femmes se tenaient debout devant les portières avec des lanternes à la main. On arrivait.

(そのうち馬車が止まった。下男や下女たちが手に手に灯りを持って、馬車の昇降口の前に立っていた。到着したのである。(新庄嘉章訳))(13頁に引用)

最後の「到着した」はすでに動作が完了しているのに、ここでは半過去(未完了)が使われているのは、一体なぜなのか。うーむ。

 さて、そうした謎を解くために、第2章では「メンタルスペース理論」によって各時制の記述が行われる。時制とはつまり、基点となる時点 (BASE) にもとづいて、出来事 (EVENT) を記述する際に、どの視点 (V-POINT) から、どの時点に焦点を当てて(FOCUS) 見るか、という話であり、この4つの要素が時間軸のどこに置かれるかという組み合わせの問題なのである。さらに言えば、どの要素を重視するかには言語によって差異が存在するということでもある。

 この「メンタルスペース理論」による説明は大変に明快で無駄がなく、説得力のあるものだ。この章の説明をしっかり理解できれば、第3章、そして半過去に特化した第4章において、第1章で挙げられていた「謎」が次々に論理的に説明されていくことに心地よささえ覚えることができるだろう。

 しかも話はそこに留まらず、第5章では言語の基本的な特性として「外側から描く」Dモード、「内側から描く」Iモードという概念が導入される。日本語が典型的なIモード、英語がDモードの言語である時に、フランス語はDモードでありつつもIモード的な要素を持っている、いわば日本語と英語の中間に位置する言語だという。そして、この根本的な言語の性格によって、最初にして最大の問い「なぜフランス語には時制が多いのか」の答が、最後に導かれることになる。

 なお、本書は各課が4頁でまとめられており、段階をきっちりと追って話が進むので、たいへんに理解しやすく書かれているのも有難い。

 いや、この晴れ晴れとした読後感はなんと気持ちの良いものだろう。これまでずっと、日本語とフランス語は根本的に違う言語だと思っていたが、実はそういうのは浅はかな考えだったのだ。英語と比較するならば、フランス語の物の見方にはむしろ日本語に近い点も存在する。この、英語とフランス語を比較してみるというのが、これまでの私には完全に欠落していた視点だ。つまり、三言語を視野に入れることでこそ見えてくるものが確かに存在するということを、私は同時に学ぶこともできたと言えるだろう。

 その意味において、本書は「外国語の学習は2言語以上学んでこそ真価を発揮する」という理論の、最上の実例を提示するものであるかもしれない。

 なにはともあれ、20年前に書かれていてほしかった、と思ってしまうような、これはそんな素晴らしい本でした。

 

 ジョイス・ジョナタンJoyce Jonathan の2016年のアルバム Une place pour moi『私のための場所』の中から、ヴィアネ Vianney とのデュオで、"Les Filles d'aujourd'hui" 「今どきの女の子たち」

www.youtube.com

On s’rend débiles
D’amour un temps
On se défile
Pourtant
Avant d’écrire
Le jour suivant
Mais volant de ville en ville, vivons-nous vraiment ?
Mais volant de ville en ville, vivons-nous vraiment ?
("Les Filles d'aujourd''hui")
 
一時は 恋のおかげで
バカになる
でも
逃げ出してしまう
次の日を
記すより前に
でも町から町へと飛び移って、私たちは本当に生きているのかしら?
でも町から町へと飛び移って、私たちは本当に生きているのかしら?
(「今時の女の子たち」)

『風から水へ』/クロ・ペルガグ「凶暴サタデーナイト」

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 縁あって拙著を出版していただいた水声社の社主の(インタビューによる)回想

 鈴木宏『風から水へ ある小出版社の三十五年』、論創社、2017年、を読む。

 とくに後半では学術関連の書籍出版の実態が詳しく語られていて、私も他人事とは言えないのでたいへん興味深く読み耽る。いやはや、いやはや。

 それはそれとして、別の内容の箇所を引用しておきたい。

文学は「飢えて死ぬ子」のまえでは無力ですが、かりにその子が飢えを生き延びて、「大人」になろうとするときには、あるいは「大人」になったときには、絶対的に「必要な」ものです。(その意味では、比喩的に言えば、「精神的な〈餓え〉を癒すもの」ということでしょうか)。人間は、物質的な〈餓え〉さえ解決されればいい、というものではありません(それだけなら動物と同じです)。人間が人間になるためには、人間であるためには、「文学」が絶対に必要なのではないでしょうか。その意味では、「文学」は人間の条件です。「言語」「知性」「芸術」「遊び」「労働」「(生殖を目的としない)性欲」といったようなものが、人間と動物を分かつもの、人間の条件として考えられてきましたが、「文学」もまた人間の条件、非常に重要な条件のひとつなのではないでしょうか。

鈴木宏『風から水へ ある小出版社の三十五年』、論創社、2017年、65頁。)

  文学が絶対に必要だと言い切ること。その覚悟が自分にはまだ足りないのではないかと思った次第。

 

 昨日に続いてクロ・ペルガグ Klô Pelgag の『あばら骨の星』(2016) より、"Samedi soir à la violence"「凶暴サタデーナイト」(という邦題)。

www.youtube.com

S'il te plaît, ne m'oublie pas
Souviens-toi au moins de moi
Si ta mémoire se noie
Sauve-moi, sauve-moi
S'il te plaît, ne m'oublie pas
Souviens-toi au moins de moi
Si la lumière te voit
Sauve-toi, sauve-toi
("Samedi soir à la violence")
 
お願い、私を忘れないで
せめて私を思い出して
もしもあなたの記憶が溺れてしまっても
私を助けて、私を助けて
お願い、私を忘れないで
せめて私を思い出して
もしも光があなたを見たら
逃げ出して、逃げ出して
(「凶暴サタデーナイト」)

『ファントマ』書評/クロ・ペルガグ「磁性流体の花」

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 ご縁あって『図書新聞』第3321号(2017年10月7日)に、ピエール・スヴェストル、マルセル・アラン『ファントマ』、赤塚敬子訳、風濤社、2017年の書評を書かせていただく。せっかくなので、冒頭の2段落を引用。

犯罪大衆小説の古典、本邦初の完訳

シュルレアリストたちを魅了したベル・エポックの怪人

 

 ファントマとは、1911年から13年にかけて、二人の共著者がフランスで発表した大衆犯罪小説(全32巻)の主人公。次々に強盗や殺人を行う冷血無情の大悪党は、その名が「ファントーム(幽霊)」からの造語であるように、神出鬼没、変装によって様々な人物になりすます。辣腕のジューヴ警部と新聞記者ジェローム・ファンドールがこの悪漢を追い詰めるが、ファントマは最後には身をかわし、物語は次巻へと続いてゆく。それが『ファントマ』シリーズの大筋だ。本書はシリーズ第1巻の初の完訳。誕生から百年を経て、この名だたる犯罪王の真の姿を日本でも確認できるようになったことは、古典的な探偵小説の愛好家にとって嬉しいニュースである。

 物語は殺人事件で幕を開ける。場所はフランス南部の地方都市。真夜中、閉ざされた屋敷の中でラングリュヌ侯爵夫人が殺害される。犯人はいつ、どこから来て、どこへ消えたのか。一方、その場に偶然居合わせたランベール親子。父エチエンヌは、息子シャルルが狂気に駆られて殺人を犯したのではないかと疑う。父は息子を問い詰めた後、二人そろって姿をくらます。親子はどこへ消えたのか、そして息子は本当に殺人犯なのか。この不可解な事件の調査に訪れたジューヴ警部は、そこにファントマの影を感知するが……。

 ちなみにフランス人は「ファントマス」と語末の s を発音するのが普通らしいが、それが何故なのかよく分からない。ま、それはともかく、アルセーヌ・リュパンやジゴマと同時代に大いに流行したこの犯罪小説が、日本でもその名を広く知られるようになってほしいと思う。

 

 クロ・ペルガグ Klô Pelgag の2016年のアルバムL'Étoile thoracique 『あばら骨の星』より、"Les Ferrofluides-fleurs" 「磁性流体の花」(という邦題であるらしい)。

www.youtube.com

Les ferrofluides-fleurs

Poussent au milieu des champs magnétiques

Les ferrofluides-fleurs

Germent au cœur des idées érotiques

("Les ferrofluides-fleurs")

 

磁性流体の花は

磁場の真ん中に生える

磁性流体の花は

エロチックな考えの中心で芽生える

(「磁性流体の花」)

 まったく訳が分からなくて素晴らしいなあ。

名前の問題:Romuald/ヴィアネ「パ・ラ~君がいない~」

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 久し振りにゴーチエ『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇』、田辺貞之助訳、岩波文庫、1982年の内の「死霊の恋」を読み返す。

 神学生が僧侶になる儀式の最中に絶世の美女に一目惚れ。僧職に就くも鬱々として思いは晴れないでいるところ、件の遊女クラリモンドが臨終の際にあることを知らされ、彼女の屋敷に駆けつけると、すでに彼女は息絶えたところだった。しかし、その通夜の最中に一瞬息を吹き返した彼女は、再会を約束してふたたび息絶える……。というその筋では比較的有名な幻想小説の佳品であるが、それはそうとこの翻訳では主人公の名前は「ロミュオー」となっている。しかし原文を見ると綴りはRomuald である。これでロミュオーと読むのは無理だと思われるが、これはどういうことだろうか。

 そこで気になって懐かしの『怪奇小説傑作集4』青柳瑞穂・澁澤龍彦訳、創元推理文庫、1969年(1979年24刷)を開けてみる。さて「死女の恋」青柳瑞穂訳ではどうなっているかというと、「ロミュアール」とある。なるほど。今なら「ロミュアル」とするのが穏当だろうか。

 せっかくなので他にも翻訳はないだろうか、と思って探してみると、野内良三編訳『遊女クラリモンドの恋 フランス・愛の短編集』、旺文社文庫、1986年というのもある。そこで、そのタイトル作を見てみると、主人公の名は「ロミュアルド」となっていた。うーむ、この語末の d は読むのか、読まないのか、どっちなんだろう。どちらの場合もあったりして。

 まあいずれにしても、田辺貞之助はRomuaud か何かと誤読したのではないかと疑われるのであるが、しかしこんなのは揚げ足取りの類かもしれない。

 そのロミュアル(ド)は、昼はしがない僧侶の暮らし、そして夜には夢の中(?)で絶世の美女とともに放蕩三昧の暮らしを送るようになる。要するにそこに繰り広げられるのは作者の願望そのままの理想の世界であり、その欲望とは、とことん現世的なものである。

 それはそうなのだが、しかしその相手が死から蘇ったものであったり、あるいは「ポンペイ夜話」では遥か昔に実在した女性との再会であったりするのであって、そのように非現実の幻想を介在させる時に、本来はとことん現世的な欲望であるはずのものが、一気に人間的尺度を突き抜けて、現世では実現不可能な「純粋な理想」への希求へと姿を変える(恐らくは)。ゴーチエの見せる絶対的な美と快楽の追求というエドニスム的姿勢の内には、実は「人間的条件」を拒絶したいというあえかな願望が秘められているのかもしれず、そこにこそ、この拍子抜けするような楽天的な物語になぜか読者が惹かれてしまう理由があるのかもしれない……、というようなことを思ってみた。

 

ヴィアネ Vianney『君へのラヴソング』(2017)。オリジナルはファースト・アルバムのIdées blanches (2014)。その中から一番のヒット曲 "Pas là"「パ・ラ~君がいない~」。

www.youtube.com

Mais t'es où ? Pas là...

 

Je te remplace

Comme je le peux

Que tout s'efface

J'en fais le voeu

Ce sera sans toi alors

Je n'ai plus qu'à être d'accord

("Pas là")

 

君はどこ? ここにいない……

 

君の穴埋めしなきゃ

ぼくにできることで

ぜんぶ消えてしまえ

そう念じてる

君はもういないから

認めるしかないから

(「パ・ラ~君がいない~」翻訳:丸山有美)

『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』刊行

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 このたび、水声社より『モーパッサンの修業時代 作家が誕生するとき』を刊行いたしました。A5判上製、361頁、定価5,000円+税。装幀は齋藤久美子さんです。

blog 水声社 » Blog Archive » 10月の新刊:モーパッサンの修業時代――作家が誕生するとき

 そして本にはどこにも記してませんが、表紙の絵は25歳頃のモーパッサンの肖像を私が描いたものを、お恥ずかしながら使っていただきました。

 以下、固い文面ですが、800字で書いてみた自著紹介を掲載します。

 本書は、フランス19世紀の作家ギィ・ド・モーパッサン (1850-1893) の青年時代の著作(詩・戯曲・小説)の分析を通して、一人の作家が〈誕生〉するとはどういうことかを考察するものである。従来、習作として十分に顧みられることがなかった作品を総合的に分析することで、二十代の青年の成長過程を詳細に跡づけ、作家研究および作品研究の両面に寄与することを目ざしている。

 本書は3章(および序章・終章)からなる。第1章「ポエジー・レアリスト」では、1870年代の活動の中心に位置した韻文詩を取り扱う。当時まだ影響の大きかったロマン主義を偽りの詩情として批判し、物質主義的な世界観に基づく荒々しいレアリスム(現実主義)を導入することで韻文詩の刷新を志すという、青年の意図と野心を明らかにする。また、詩作の実践の過程でレアリスム美学が鍛えられ、そのことが後の散文作家を準備したことを論じる。

 第2章「演劇への挑戦」では、同じ70年代に書かれた戯曲を取り上げる。詩と同様にレアリスムの導入によって韻文歴史劇を刷新しようという著者の試みを検証し、その意義を明らかにすると同時に、演劇の試みが彼に何をもたらしたかを明らかにする。

 第3章「小説の誘惑」においては、同時期に書かれた中短編小説と、最初の長編(後の『女の一生』)を対象とする。小説において個人的に重要なテーマが発掘されていること、また長編小説の試みの中に、レアリスム作家の理念と技法の成長が認められることを明らかにする。その後、1880年に発表された「脂肪の塊」の分析を通して、この作品を執筆する中で、作者自身が散文の持つ可能性(その社会性・批評性)を発見したことが、詩人から小説家への〈転向〉の決定的な理由となったと論じている。

 終章においては、1870年代のすべての活動を通して、確固たる文学理念と技法を備えた1人の芸術家が準備されたからこそ、「脂肪の塊」以後の作家の成功が保証されたと結論づけている。

  なお、出版に際しては名城大学学術研究奨励制度の助成を受けたことをここに記し、名城大学に感謝を述べたいと思います。

 ちなみに、モーパッサンの絵は本当はカラーで描いていました。さすがに恥ずかしくてこのままでは出せませんでしたけど。

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2017.10.30. 追記

 日本フランス語フランス文学会のCahier電子版に、自著紹介を掲載していただきました。上に掲載した文章に推敲を加えたものです。

cahier電子版 - 日本フランス語フランス文学会

 この場を借りて、ご手配いただいた先生方に御礼を申し上げます。