えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『大学教授のように小説を読む方法』/-M-「セラピー」

『大学教授のように小説を読む方法』表紙

 トーマス・C・フォスター『大学教授のように小説を読む方法 増補新版』、矢倉尚子訳、白水社、2019年

 恥ずかしながらこの本の存在をずっと知らずにいた。仏文だからというのは言い訳にもなるまい。ま、そんなことはどうでもよく、この本はたいへん面白く読めるので、日本でもよく読まれてきたというのも、おおいに納得される次第だ。本書は想定読者からの問いに答える形の気さくな会話体で書かれているが、調子を切らさずに読ませるのには、淀みない訳文の上手さが大いに貢献している。

 本書で著者が示してみせるのは、大きく言って象徴読解と間テクスト性である。そのことは章題にはっきり表れている。幾つか拾ってみよう。「旅はみな探求の冒険である(そうでないときを除いて)」「疑わしきはシェイクスピアと思え……」「……さもなければ聖書だ」「ただの雨や雪じゃない」「すべてセックス」「セックスシーンだけは例外」「地理は重要だ……」「季節も……」といった具合だ。

 文学作品に書かれている多くの事柄は、それを何かの象徴として読むことができる。人物や物語はいつでも個別的で具体的なものだけれども、その人物や行為を我々が「理解」し、それに「意味」を与える時には、それを象徴として解釈していることになる。本書では英米の作品が中心に扱われているので、あえてフランス文学にひきつけて、誤解を恐れずに煎じ詰めるなら、たとえばカルメンは自由の、ラスティニャックは野心の、ボヴァリー夫人は反抗の、ナナは退廃の、『女の一生』のジャンヌは忍従の象徴だと言いうるだろう。そうした大きな話だけではなく、個別の場面や行為もたえず、本来の意味とは別の次元の解釈を喚起しうるだろう。

 ただし象徴の解釈は一つに限定されることはない。一元的な意味に還元されるならそれはアレゴリー(寓話)だと著者は言う。「象徴によって示されたものはひとつの主張にはまとめにくく、さまざまな意味や解釈を含んだ一定の領域を指していると考えたほうがいいだろう」(140頁)。本書では冒険、食事、飛行、怪物、地理、季節などの象徴的解釈が、具体的事例に即して解説されている。

 間テクスト性に関しては、教養のない私にはなかなか実践できないものだけれど、著者の主張は明確である。その要点は「この世にストーリーはひとつしかない」(55頁)にまとめられる。「そのストーリーは昔から存在し、どちらを向いてもまわりにあふれていて、われわれが読んだり聞いたり見たりする話はすべて、その一部なのだ。」作者が無意識的に反復している場合もあれば、意識的に過去の作品を下敷きにしている場合もあるだろう。いずれにしても、「今読んでいるテクストが他のテクストと呼応する可能性を意識すればするほど、私たちは多くの類似点や関連に注目するようになり、テクストは生気を増していく」(58頁)。特に英米の作家にとって主要な源泉となるのは、言うまでもなく聖書であり、ギリシャローマ神話であり、あるいは童話であり、そしてなかんずくはシェークスピアであるだろう。

 象徴にしても過去のテクストとの関連にしても、読者が気づかなかったとしても何ら問題はない。ただ、そうした要素に気づくことができれば、「小説の理解が深まり、より複雑な意味を愉しめるようになるはずだ」(59頁)。そう述べて、著者は読者に能動的な読解を薦めるのである。

 この、読書は能動的な行為であるということを、著者は繰り返し述べて強調している。「登場人物は作家の空想の産物であり――読者の空想の産物でもある。文学上の登場人物は、この二つの強い原動力によって造られている」(116頁)。「意義、シンボリズム、テーマ、意味など、登場人物とプロット以外に私たちが物語から引き出すものはすべて、私たちのイマジネーションが作家のそれと呼応して初めて気づくものばかりだ」(165頁)。

私たちはとかく作家の業績だけを称賛しがちだが、じつは読むという行為も多大な想像力を要するのだ。私たちの創造力や独創性が作家のそれと出会ったとき、私たちは作家の意図を読み取り、作家が与えた意味を理解し、その作品を自分でどう使おうかと考える。(略)だから、創造的な知性と交感してみよう。本能の声に耳を傾けて。あなたがテクストから何を感じるかに注意を払おう。きっと何か意味があるのだから。(148-149頁)

 だから読書という行為は個人的なもの、個別的なものである。当たり前のことだけれど、誰も他人に代わりに読んでもらうわけにはいかないし、十年前と今とでは同じ本でも読み方は大きく異なるだろう。唯一正しい読み方があるわけではない。だから、著者は最後に、自分の読解に自信を持つようにと読者を励ましている。

(前略)私はあなたではないし、あなたにとって大変幸運なことに、あなたも私ではない。『パイの物語』や『嵐が丘』や『ハンガーゲーム』をあなたと同じ読み方で読む人間は、この世にほかにひとりもいない。残念ながら学生たちには、文学作品について自分の考えを言う前に弁解したがる者が多すぎる。「これってっただの私の意見なんですけど、でも」とか、「たぶん僕が間違っていると思うけど、でも」とか、やたらに言いわけをするのだ。謝るのはやめなさい! なんの役にも立たないばかりか、見くびられるだけだ。知的に、大胆に、自分の読解に自信を持とう。それがあなたの意見なのだし(ただの、ではない)、読解が間違っている可能性がないわけではないが、学生たちが思うよりはるかに少ないものだ。というわけで、私の最後のアドバイスはこれである。自分が読む本を自分のものにしなさい。(343-344頁) 

 いい先生だ。こんな風に学生に語りかけられたらと思う。

 この本はアメリカの多くの高校で課題図書として使われたというが(そのことに著者自身が驚いたらしいが)、十分に納得できることだ。ここには古臭い教養主義的な、あるいは(もっと悪い)道徳教育的な鬱陶しさはまったく存在していない。そうしたものを抜きにしながら、ただの娯楽として以上に実り豊かな体験として読書という行為があることを、実に説得的かつ軽快に語ることに成功している。そこに本書の一番の魅力があるだろう。

 読書は、読み手の想像力によって成り立つ創造的な行為であること。そのことを、私も非力ながらに訴え続けていきたいと思う。

 

 引き続き、-M- こと Matthieu Chédid のアルバム 『無限の手紙』 Lettre infinie (2019) より、"Thérapie"。thérapie と terre Happy が掛詞になっている。

www.youtube.com

Souris à la vie

Quand tu croises le Bonheur

Si vite arrivé, si vite reparti

Joue plus au chat, à la souris

Cours plus après le bonheur

Quand il est devant toi

Qu'il te sourit

Voilà ma seule thérapie !

("Thérapie")

 

人生にほほ笑め

〈幸福〉とすれ違う時に

急いでやって来て、すぐに去っていくから

もっと追いかけろ

幸福を求めて駆けるんだ

そいつが目の前にあって

あんたにほほ笑んでいる時に

それが俺の唯一のセラピーさ! 

(「セラピー」)

ドレフュス事件を思い出す/セルジュ・ゲンズブール「Sea, sex and sun」

ゾラ『時代を読む1870-1900』表紙

 上に立つ者が不正を行い、それを隠蔽しようとすることで下の者が犠牲を被る。そうしたことが今の世の中に起こっているというのなら、仏文学者たるもの、そういう話はよく知っていると言わなければならない。ドレフュス事件のことだ。

 軍人アルフレッド・ドレフュスは無実の罪で有罪宣告を受け、流刑として南米ギアナに送られた。より重要な問題は、後にエステラジーが真犯人であることが発覚したのに、彼が裁判の末に無罪とされたことにあった。

 なぜ無罪判決が出されたのか? エステラジーの罪を認めること、それはドレフュスの有罪判決が誤りだったと認めることであり、そうなればそこに責任問題が発生する。それを嫌った陸軍の上官たちは、エステラジーを無罪とし、真実を闇に葬ろうとしたのだった。

 1898年1月13日、エミール・ゾラは新聞『オロール』紙に「共和国大統領への手紙」を発表。事件にかかわった者たちを「私は告発する」の言葉で弾劾した。ここでは、事件後に陸軍大臣となったビヨー将軍に対する批判を読み直そう。真実を告げるピカール中佐の調査結果を受け取った後の彼の反応について述べられている。

 ここには、苦悩に満ち満ちた心理学的瞬間があったにちがいない。思うに、この時点でビヨー将軍は事件にまったくかかわりをもっていなかった。彼は何も知らずに大臣の座に就いたわけであるから、真実を明るみに出そうと思えばできたはずなのである。しかし、彼は、あえてそれを行おうとしなかった。おそらくは世論を恐れる気持ちからであったのだろう。また確実に、参謀本部全体、ボワデッフル将軍、ゴンス将軍とその部下たちを見殺しにすることへの恐れがあったにちがいない。しかし、彼の良心と、彼が陸軍の利益と信じたものとのあいだの葛藤の時はほんの一瞬にすぎなかった。この瞬間が過ぎ去った時、事はすでに手遅れであった。彼は完全に事件に巻き込まれ、その当事者となったのだ。そして、この時から、彼の責任は重みを増す一方であった。彼は、ほかの人々が犯した罪まで背負い込み、ほかの人々と同じぐらい罪人となった。むしろ、ほかの人々以上の罪人というべきかもしれない。なぜなら、彼は正義を行うことのできる立場にありながら、実際のところ、何もしなかったからである。こんなことがあってよいものだろうか! ここ一年来、ビヨー将軍、さらにはボワデッフル、ゴンス両将軍がドレフュスの無実であることを知りながら、この恐るべき事実を彼らだけの胸にしまい込んできたのだ! こうした人々が、夜ともなれば安眠をむさぼり、愛する妻子に囲まれて暮らしているというのだから!

エミール・ゾラ「共和国大統領フェリックス・フォール氏への手紙」、『ゾラ・セレクション 第10巻 時代を読む』、小倉孝誠、菅野賢治編訳、藤原書店、2002年、258-259頁)

 自らの保身のために、あるいは自身の属する組織の秩序を乱さないために、真実を隠蔽すること。それは許されるべきではない行為であり、ゾラの告発の言葉はいかにも容赦ないものだ。もちろんゾラは本気だった。彼はこの告発によって、自分が軍に対する名誉棄損で訴えられることを覚悟していたし、現にそのようになる。それでも作家としての使命感ゆえに、自らの社会的生命を賭して告発することを選んだのだ。

 そのゾラの決然たる姿勢は立派で称賛に値するものだけれども、しかしここで、私にとってはビヨー将軍の惰弱さも決して他人事ではない、ということを述べておかないといけない。そうでなければゾラの尻馬に乗るだけのことになろう。虎の威を借る狐というやつだ。

 もし私がビヨーのような立場に置かれたのだったら、私はどのように行動できただろう。できるだろう。その自問に対する答は、はなはだ心もとないものだと認めざるをえない。黙っていることは簡単だ。知らなかったという言い訳はいつでも可能だろう。正義という言葉は美しい。だが掛かっているのは自分の生活であり、あるいは身内のそれでもあるかもしれない(年を取るというのは難儀なことだ。若い時には分からなかったこと、分かろうとしなかったことが、今ではよく分かる)。

 べつに私はビヨー将軍(と、彼が代表しているもの)を擁護しようというのでも、そうしたいのでもない。「正義を行うことのできる立場にありながら、何もしなかった」のであれば、その罪は咎められるべきなのだ。ただ、だからこそ惰弱な私は、自分がそのような立場に立つことを怖れ、我が身がそのような状況に置かれることのないように願うのである(その保証はどこにもない)。それ以上のことを言うことは、今の私にはできそうもない。

 なのでもう一度、ゾラの言葉に真摯に耳を傾けたい。

以前にもまして熱のこもった確信とともに、ここに繰り返します。真実は前進し、何ものもその歩みを止めることはないであろう、と。事件は、今日ようやく始まったばかりです。今日ようやく、人々の配置が明らかになったからです。つまり、一方に、光明がもたらされることを望まない罪人たち、他方に、光明がもたらされるためならば命さえ惜しまない正義の人々。すでに別のところでも述べたことを、ここに繰り返し申し上げましょう。真実というものは、それを地中深く埋め込もうとすればするほど、鬱積し、爆発力を持つようになるものである。そして、それが実際に爆発する時、ありとあらゆるものを吹き飛ばさずにはおかないような力を蓄えるようになるものである、と。

(同前、267頁) 

  私は、自分の学問を空疎なお飾りにしたくないし、そうしてはいけないと思う。口ではヴォルテールやゾラを称えていながら、自分の行動が伴わなければ、そんな学問に意味はないし、それは学問に対する冒涜になるかもしれない。だとすれば、どうすれば本当に学問を自らの血肉とすることができるだろう。ゾラの言葉を読み返しながら、そうしたことを考えている。

 

 いささかやさぐれた気分なので、セルジュ・ゲンズブールの "Sea, sex and sun"。INAのアーカイブより、1978年の映像。さすが、という言葉しか思いつきません。一緒にいるのはミッシェル・コロンビエ。

 t の音で韻を踏むのだけれど、そこで出てくる単語が bakélite とか hit であるところ、天才と呼ぶしかない。

 www.youtube.com

Sea, sex and sun

Le soleil au zénith

Vingt ans, dix-huit

Dix-sept ans à la limite

Je ressuscite

 

Sea, sex and sun

Toi, petite

Tu es d'la dynamite

 

Sea, sex and sun

Le soleil au zénith

Me surexitent

Tes p'tits seins de bakélite

Qui s'agitent

 

Sea, sex and sun

Toi, petite

C'est sûr, tu es un hit

("Sea, sex and sun")

 

Sea, sex and sun

太陽は天頂にある

二十歳、十八

ぎりぎり十七歳

俺は生き返る

 

Sea, sex and sun

なあ、可愛い子

お前はダイナマイトさ

 

Sea, sex and sun

太陽は頂点にある

俺を興奮させる

ベークライト色のお前の小さな胸が

揺れているぜ

 

Sea, sex and sun

なあ、可愛い子

確かに、お前はヒットさ

("Sea, sex and sun")

『フランス文学小事典 増補版』/-M-「大きな馬鹿なガキ」

『フランス文学小事典 増補版』表紙

フランス文学小事典 増補版 | 語学 | 朝日出版社

 岩根久他編『フランス文学小事典 増補版』、朝日出版社、2020 年

が刊行されたのでご報告。めでたいことだ。初版は赤い表紙だったのが、涼しい青色に変更されている。

 本書は、2007 年に刊行されたものの増補改訂版。帯裏には「コンパクト・サイズでありながら、作家数 279、作品数 171、事項数 85。作家・作品、事項、どこからでもすぐ引ける!」とある。実は私は「執筆者」の一人なので、なにを言っても手前味噌になるけれど、実際、B6 判変型という小さなサイズのわりに、内容はぎっしり詰まっていると思う。

 ぱらぱら繰っていると、執筆していた頃のことがあれこれ思い出されてくる。楽しくもあり、なにかと辛くもあった頃でした。刊行から 13 年経ったと聞くと、まことに月並みながら、ずいぶん時が経ったものだとしみじみ思う。

 ところで、改訂にあたって「新しく 8 項目を追加」と書かれているが、何が追加されたかまでは書かれていないので、ここにその 8 項目を挙げておこう。五十音順。

・ヴォージュラ(文法学者、17 世紀)

・『社会契約論』(ルソー、18 世紀)

エメ・セゼール(20 世紀)

・『ナナ』(ゾラ、19 世紀)

・ナラトロジー(20 世紀)

フレデリックミストラル(19 世紀)

パトリック・モディアノ(20-21 世紀、2014 年ノーベル文学賞

クロード・レヴィ=ストロース(20 世紀)

 以上、作家 5、作品 2、事項 1 の 8 項目という次第。

 いささか悲観的なことを記せば、このような事典を作ることは、これからの時代には(人的にも経済的にも)ますます難しくなってゆくだろうと思う。一方で、こういう本が書店の棚にあることは、単に狭い仏文業界にとってだけでなく、広く日本の出版文化にとっても意味のあることではないかと、大げさかもしれないけれども思わないでもない。再版を決心してくれた出版社に深く感謝したい。

 「フランス文学」をその全体において把握したいと思う人が、今の日本にはたしてどれくらいいるのか分からないけれど、生まれ変わったこの『小事典』が誰かのお役に立ちますようにと願ってやみません。394 頁、値段は 2,500 円+税となっています。

 

 -M-こと Matthieu Chédid  マチュー・シェディッドのアルバム Lettre infinie 『無限の手紙』(2019)より、"Grand petit con"「大きな馬鹿なガキ」(適当な訳)。クリップはミッシェル・ゴンドリーによる。

www.youtube.com

Quand je vois

Dans tes yeux d'enfant

Que je deviens con

Tout petit

Tellement chuis un grand

Grand petit con

("Grand petit con")

 

お前の子どもの目の中で

僕が馬鹿になるのを見る時

とても小さい

あまりにも 僕は大きな

大きな馬鹿なガキさ

(「大きな馬鹿なガキ」) 

『赤と黒』について今思うこと

『赤と黒』下巻表紙

 スタンダール赤と黒』、小林正訳、新潮文庫、上下巻、1957-58年(上巻、2017年104刷、下巻、2019年88刷)

 今、「『赤と黒』は本当に傑作なんですか?」と聞かれたら、どう答えよう。

 ひとつ言えることは、スタンダールは職業作家ではなかったということだ。それはつまり、彼にとって「売れる」ことは至上命題ではなかったし、実際問題としても売れなかったわけだ。言い換えると、彼には「読者」がよく見えていなかった。少なくとも読者第一で小説を書いていたわけではなかった。この点で彼はバルザック、ゾラ、モーパッサン型の作家とは明らかに違い、むしろフロベールに近いかもしれない。

 読者第一ではなかったことの結果として、彼はとにかく自分の好きなように小説を書いた。そこにこそ彼が時代を超越できた理由もあるに違いないが、しかし一方で、彼の作品がいわば「商品」としては不完全なものであるのも明確な事実であろう(と、今の私は思う)。端的に言ってムラがあるし、さらに言えば冗長さを免れていない。『赤と黒』でいえば、第2部のマチルドとの恋愛の後半部(フェルバック夫人相手に恋文を送るあたり)は特に、作者が面白がっているのはよく分かるが、いささかやり過ぎだと言っていいのではないか。

 それはそれとして、今の私にとって『赤と黒』の肝は、なんといってもレーナル夫人(と新潮文庫ではなっているのでその表記に従っておくが)狙撃以降の展開、つまりは第2部第35章以降(ちなみに言うと、それはモームが『世界の十大小説』の中で「過ち」と見なして理解しなかった部分)である。レーナル夫人による告発の手紙によって侮辱を受け、また自分の将来が台無しになったと思ったジュリヤンは闇雲に故郷に取って返し、教会で彼女をピストルで撃つ。彼は「牢獄」(原文でも prison と書かれているが留置所であるべきか)に入れられ、死刑を覚悟する。

 それから何が起こるのか? 牢番からレーナル夫人が生きていることを知らされたジュリヤンは、あつい涙を流して喜び、そして「犯した罪を後悔しはじめ」る(下巻、454頁)。同時に、結婚目前だったマチルドに対する関心は一気に冷めてしまう。彼の心の中では「野心が死んで、そのあとからもうひとつ別の感情が生れ」る(482頁)。彼はそれを「後悔」と呼ぶが、すなわち、彼はここに至ってレーナル夫人に対する自分の愛情を(ようやく)自覚するに到るのだ。

 (モームに分かってもらえるように)この展開をもっと噛み砕けば、以下のように理解できるだろう。ジュリヤンは衝動に駆られてレーナル夫人に対して復讐を企てるが、自分がそのように行動してしまったことがつまりは彼女に対する「裏切り」であったことを、彼は事後的に理解するのである。もし彼が彼女を信じていたなら、告発の手紙に裏があることを疑いえたはずだ。そうせずに衝動に身を任せてしまったことが彼の過ちであり、彼が言う「罪」とは、この「裏切り」に、彼女を疑ってしまったということにあるのだと言えるだろう。一方で、レーナル夫人が死んではいなかったことを知った時に湧いて出てきた無上の喜びが、彼に自分の真の心の在り所を教えることになった。その意味では、夫人狙撃の顛末は、ジュリヤンが真の自己認識に到達するために辿らざるをえなかった「試練」なのである。

 そして、そのような認識に達した彼は、死刑の判決を得た後についにレーナル夫人と再会を果たす。そこでは「ジュリヤンは、これまで一度もこんなひとときを味わったことはなかった」(520頁)、「ジュリヤンはこれほど夢中で愛したことはなかった」(521頁)と、最上級の表現が繰り返され、彼の至福が強調されている。

「(略)ふた月といえば、かなりの時間ですよ。これほど幸福なことは今までなかったと思います」

「今までになかったですって!」

「ありませんでしたとも」ジュリヤンは感激の色を見せて、そう繰り返した。「わたしは自分に向かっていうのと同じように、あなたに向って話しているんです。神にかけていいます。誇張などするものか」(523頁)

  場所はじめじめした地下牢であり、2ヶ月後には死刑が待っているという、およそ考えられる限りで最悪に等しい状況である。そこにおいて無上の幸福が成立するという逆説にこそ、まさしくスタンダールの真骨頂があると言うべきだろう(『パルムの僧院』のファブリスが牢獄で幸福を知るのと相似している)。そのような悲惨な状態で幸福に浸りきるということは、冷静に考えるならばおよそ現実には起こり得ないことだ。その現実には起こり得ないはずのことが、ここにおいて実現している。そこに、文学によってしか実現できない、まさしく文学的真実というものがあるのではないか。そして、その奇跡的状況に達するためにこそ、ここまでの(あまりに)長い道のりが必要だったのだ。ジュリヤンと共にその道のりを辿った上で、読者がこの至福の瞬間を共有できるなら、最初に挙げた瑕疵など一切問題ではなくなるに違いない。

 疑いようもなく本作のクライマックスはこの場面であり、ここに比べたらこの後のジュリヤンの独白(第44章)など、あらずもがなという気さえする。肝心のレーナル夫人が夫に呼び戻されてあっさり帰ってしまうという展開も(本当の最後の再会への伏線とはいえ)なんとも拍子抜けな感がある(この拍子抜け感は、『パルムの僧院』でファブリスがさんざん苦労して脱獄した後、あっさり自分から牢に帰ってきてしまう時の感じと同等)。端的に言って、山場を過ぎて作者の気が緩んでいる、あるいは早く終えてしまおうと投げやりになっているという感が拭えないところではある。

 その意味で、ジュリヤンの死刑の場面もおそろしくあっさりしているので、なんとなく読み飛ばしてしまって、記憶に残らないということになりかねない。

 地下牢の悪い空気が、ジュリヤンには我慢ならなくなってきた。さいわい、死刑の執行がいい渡された日は、美しい太陽の光を浴びて、自然が若やいでいた。ジュリヤンも元気が出た。長いあいだ海に出ていた船乗りが、陸地を歩くときのように、大気を吸いながら足を運ぶことは、快い感覚だった。《さあ、申し分ない。勇気は十分ある》

 斬られようという瞬間ほど、ジュリヤンの頭が詩的になったことはなかった。かつてヴェルシーの森で過した楽しい日々の思い出が、あとからあとから、まざまざとよみがえってきた。

 すべては簡単に、しきたりどおりに行われた。ジュリヤンの態度にも、なんら気取りが見られなかった。(551-552頁)

 要するに、作者にはこういう場面を一生懸命書く気がなかった、というのが如実に窺えるような簡潔さではあるが、しかしそれでも要点はしっかり書かれている。美しい太陽、若やいだ自然、心地よい大気と、あたかも世界は祝福に満ちているかのようであり、そこにあってジュリヤンは元気と勇気に満ち、いわば生の充溢の中で死を迎えるのだ。彼はすでに出世欲、虚栄心といった、かつて心を捕えていたものの一切から解き放たれている。俗世の欲望を超越した状態で迎える死は、一種の殉教と呼びうるかもしれない。殉教とは自らの信仰のために命を捧げることだが、ジュリヤンにとってはもちろん神への信仰ではない。あえて言えばその対象は真の愛情ということになるだろう(そう言葉にしてしまうといかにも陳腐に聞こえかねないけれど)。

 もっとも、殉教といってもジュリヤンは聖人になるわけではない。彼の幸福はマチルドの犠牲の上に成り立っているが、彼はほとんど彼女を顧みないのである。恬淡とした最期のジュリヤンの姿からは、至上の幸福は無私の領域にあるかのように見えなくもないが、むしろ徹底したエゴイスムによって成り立つものだと、作者は開き直っているのかもしれない。

 いずれにしても、かくしてジュリヤンは最終的に(予想とは違った形で)一つの「自己実現」を成し遂げる。野心という世俗の欲望に捕われていた精神が、長い試練の果てにある種の超越的な境地に到る、その「成長」の記録こそが『赤と黒』という物語の骨子だと言えるだろう。


 『赤と黒』は復古王政という一時代の精神のありようを描いたということで、文学史的にはレアリスムの代表作として取り上げられる。そのことの意義はアウエルバッハの『ミメーシス』を読めばなるほどと深く納得させられる。実際、この物語は復古王政の時代にしか成立しえないという意味で歴史と密接に連関しているし、同時代の社会に対する批評性も明確であり、そうした意味においてフランス小説史において画期的なものであったことは、今から振り返れば疑いようもない。

 一方、産業革命以後の近代社会において、伝統的な身分制度から解放された個人は、各人が自分で自分の未来を切り開き、「自己実現」を目指すことをいわば余儀なくされることになる。地方の材木商の息子ジュリヤン・ソレルが一途に「成り上がる」ことを目指すという『赤と黒』の物語は、まさしく近代社会において個人の背負う「宿命」を、一個の典型として描き出したという意味において普遍的であり、その原型としての意義は今も決して失われていないだろう。その普遍性は『ゴリオ爺さん』や『感情教育』より広いものがあると言えるかもしれない。

 そうしたことはすべてその通りである。しかしそのような物語を通して作者スタンダールが描きたかったことの核心は、真の幸福とは「社会的な秩序から完全に切り離された状態」(野崎歓『フランス文学と愛』、講談社現代新書、2013年、99頁)にありうるということだったのかもしれず、その究極の理想を想像世界において掴み取らんがために、彼は飽くことなくペンを握り続けたのだ。

 そして、今の私にとってはそのことこそが最も意味を持っているように思われるのである(そして、そのことの意味を自問しているのでもある。なんだかややこしいようだけど)。端的に言えば、時代性または歴史的意義を云々するより前に、今の私たちにとって作品が持つ(持ちうる)意味と価値をきちんと言語化することが大事なのではないか、というのがこの2020年時点の私の立ち位置だということになるだろうか。

 スタンダールが考えていた Happy few の中に、今の自分が加えてもらえるか分からないし、あまりその自信もないけれど、とりあえず以上が、今の私が『赤と黒』について言えることのあらましです。

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』/-M-「スーパーシェリ」

『郵便配達は二度ベルを鳴らす』表紙

 これも「読んだ」という記録に。

 ジェームズ・M・ケイン『郵便配達は二度ベルを鳴らす』、田口俊樹訳、新潮文庫、2014年

 原作発表は1934年。道路沿いの安食堂に飛び込んだ青年フランク(語り手)は、ギリシャ人の店主に店で働かないかと声をかけられる。フランクは妻のコーラに目をつけ、二人はすぐに恋仲になる。不愉快な夫、しがない暮らしに我慢できない二人は、亭主の殺害を計画するが……。

 単線ながら先行きの読めない展開や、地方検事との丁々発止のやり取りといったところが、いかにも映画的に感じられる。もっとも、そもそも作者がハリウッドで映画脚本などを手掛けていたことを考えれば自然なことかもしれず、何度も映画化されるのもさもありなんという気がする。

 基本的にはろくでなしの話でありながら、それでもこの主人公は憎めないように感じられる。それはどうしてかと考えていて思い当たるのは、これは計画犯罪の物語であるが、実は主人公の行動はぜんぜん思い通りに進行していないということだ。最初の計画は通りすがりの猫によって狂わされ、二度目の計画でもフランク自身が予定外の怪我を負ってしまう。そして地方検事や弁護士たちは彼ら自身の勝手な思惑で事件を操り、フランクとコーラは彼らに弄ばれているにも等しい。最後に到るまで二人は外的な要因に左右されるがままであり、それゆえに結末はいわば悲劇的な様相を帯びるのだと言えるだろう。

 言い換えると、本作において個人は無力であり、運命に翻弄されるばかりの存在として描かれている。その人間観に見られる悲観主義が、あるいは30年代アメリカの雰囲気を映し出しているのかもしれないと思う。

 

 -M-こと Matthieu Chedid マチュー・シェディッドの2019年のアルバム『無限の手紙』Lettre infinie より、「スーパーシェリ」"Superchérie"。相変わらずの頭。

 とりあえず最初の2節のみ翻訳。

www.youtube.com

Ma muse m'aimante

M'amuse et me hante

Elle est toujours elle-même

C'est bien pour ça que je l'aime

 

Tellement addict

Que je suis accro

Accroché à ses ailes

J'suis pas beau !

Ma super chérie...

("Superchérie")

 

僕のミューズが僕を愛して

僕を楽しませ、取り憑く

彼女はいつも彼女自身で

だから僕は彼女が好きさ

 

あまりにも溺れて

僕は恋している

彼女の翼につかまって

僕は美男子じゃない!

僕の最愛の人……

(「スーパーシェリ」)

『情事の終り』/クリストフ・マエ「魅了されて」

『情事の終り』表紙

 読んだという記録のために。

 グレアム・グリーン『情事の終り』、上岡伸雄訳、新潮文庫、2015年

 この本とジッドの『狭き門』はまだ読まれているようだけれど、そのことは私には不思議に思える。『情事の終り』は決して分かりやすい話ではないように見えるだけに、読まれる理由はどこにあるのだろうと気にかかる。

 言うまでもなく信仰とは難しいもので、信じている/信じていないという二分法は見かけほど単純なものではない。そもそも「私は神を信じていない」という言辞は、それ自体が神の存在を前提としている(本当の無信仰者とはわざわざそういうことを言わない者だろう)。そうである以上、「信じていない」と言い募れば募るほど、その者は神の存在に(言葉は悪いが)呪縛されることになる。そうならざるをえないのである。

 一方で、信じている者にとってはすべての現象は神の意志の表れと解釈される。祈りが通じればそれは神の意志であると捉えられるが、祈りが通じなかった場合にも、それこそが神の意志であると言いうる。「信じない」者は常にその逆のことを考えるかもしれないが、傍目には彼のこだわりは信心者のそれとよく似ている。要するに、ひとたび信じる/信じないの二者択一に捕われた者にとって、この世の事象はすべて解読されるべき記号となり、絶え間のない問答を続けることを余儀なくされるのだ。この物語のヒロインのサラ、そして後に語り手自身はそのような葛藤の中で悩み、苦しむことになるのだと言えよう。

 そして、信じることと信じないことがほとんど表裏一体であるのと同様に、愛することと憎むこととは、見かけほどに対立するものではない、ということを本書は語っている。愛しているから憎むのか、憎むほどに愛しているのか? 根本にあるのは対象に対する強い執着であり、恐らくはそれが愛と映るか、憎しみと映るかの差は紙一重なのだ。

 信じることの困難、愛することの終りのない苦しみ。『情事の終り』は執拗にその二つを語り続ける、決して甘くない物語だ。

 ところで、先に『狭き門』の名を挙げたが、そういえば本書の基本的構成には『狭き門』と共通する点が明確に存在している。もしかしたらそこに、この両作がしぶとく生き続ける理由が存在しているのだろうか。

 もっとも私は、『狭き門』の再読だけはすまいと誓っているのだけれど。

 

 クリストフ・マエ Christophe Maé の続きで、2013年のアルバム『幸せがほしい』 Je veux du bonheur より「魅了されて」"Tombé sous le charme"。

www.youtube.com

Je suis tombé sous le charme

A cause de tes mains tes mots doux

Tournent autour de mon âme

Comme des refrains vaudous

 

Je suis tombé sous le charme

A cause de ton sein sur ma joue

Tourne autour de mon âme

Et jetons-nous dans la bayou

("Tombé sous le charme")

 

僕は魅了された

君の手が理由で 君の優しい言葉が

僕の魂の周りをまわる

ブードゥーのリフレインのように

 

僕は魅了された

頬に触れる君の胸が理由で

僕の魂の周りをまわる

池の中に飛び込もう

(「魅了されて」) 

『文学入門』/クリストフ・マエ「キャスティング」

『文学入門』表紙

 推薦書リストの話の続き。

 最近、巷の書店で出会って、おおまだ現役だったのかと驚いた本。

 桑原武夫『文学入門』、岩波新書、1950年1刷(63年31刷改版、2016年87刷)

 「文学は人生に必要である」と堂々と述べるその言葉がなんとも眩しい。1950年にはまだテレビ放送も始まっていなかった。外国文学研究者が胸を張って生きていられた時代が、今となってはなんともよい時代だったように見えなくもない。

 という個人的感慨はともかくとして、「第一章 なぜ文学は人生に必要か」の著者の論理を少し辿っておこう。小説を読むことによって、読者は著者から「人生そのものへのインタレスト」(20頁)を受け取る。それによって読者の心には、「行動直前的心的態度」(21頁)が蓄積され、それは現実の我々の行動にも影響を及ぼすことになる。

 それと同時に、読書によって「人間についての知識」(22頁)の獲得があることは言うまでもない。「現実に生きて行動する人間についての知識、を供給するものが、ほかならぬ文学なのである。」(23頁)

 人生をもっとも充実した仕方で生きるとは、理性も悟性も感性も身体もを含めて全的に行動することである。「人生に強いインタレストをもち感動しうる心なくしては、よき行動はなく、したがってよき人生のありえないことは、明らかであろう。」(24頁)

 人は理性の増強と知識の増加については、つねにこれを力説するが、そしてそれはいかに力説しても十分とはいえないが、しかも、この二者のみをもってしては、人間はついに行動に出ることは不可能なのである。よき行動とよき人生を生み出すためには、さらに人生にインタレストをもち、感動しうる心と、つねに新しい経験を作り出す構想力とが必要である。ところが人はこの二者の重要性を忘れ、その正しい養成をややともすれば怠りがちである。しかもこの二つのものなくしては、明日のよき生活の建設は決してありえないのである。そしてこれらに糧を与え、これを養成するものが、ほかならぬ文学である。これ以上人生に必要なものが、又とあるだろうか?(24頁)

 桑原がここで語っている「文学」は、主に「物語」のことであるように思われるのだが、そうであれば現代の日本人にとって「人生へのインタレスト」を与えてくれるものとしては、たとえばNHK大河ドラマのほうがはるかに身近でありえるだろうし、それはまた、ここで述べられている役割を十分に果たしうるのではないだろうか。というような疑問が、今の私にとって桑原武夫の断言が羨ましくも思われる所以となる。以上が私の気になることの一点目。

 もう一点は、桑原がこのような小説(読書)論を展開したのは、彼が想定しているのが主に19世紀から20世紀初頭のリアリズム小説であるという「前提」があってのことだった、というのが今となってはよく分かるということである。もちろん、桑原がこれを書いたのは1950年であり、彼の述べていることが、その時点における小説の一般的理解として妥当なものだったことは疑うべくもない(後に挙げる彼のリストにはまだカフカジョイスも登場していない)。しかし、今の我々が振り返る20世紀の文学史が、その近代リアリズムの形式をいかに超克するかという問いを巡って書き記されるものであるとすれば、21世紀初頭現在の「読書」論もまた、このように素朴にリアリズム作品だけを対象にすることはできないかもしれない。

 さて、そうした留保はともかくとして、「第四章 文学は何を―どう読めばよいか」において、著者は「読書の基準化の必要」を訴えている。

(略)新しいデモクラシーとヒューマニズムの精神による、読書の基準化は今日もっとも緊急を要する仕事であろう。(略)日本でも、各部門ごとにこうした必読書のリストを作成することが、新制大学の教養課程においてなさるべき、第一の仕事と思われる。もちろんその書目の選定にあたっては、あまりに難解なものをさけること、あまりに多くの冊数をあげてかえって不可能化しないこと、等々、慎重を要するが、さしあたり各大学で、それぞれリストをつくり、それを比較研究して、数年後には全国共通リストのできることを理想としたい。文化国家の教育者は、それくらいの労を惜しんではならないのである。(118頁)

  いやはや。なんのことはない、入門者向けの推薦図書リストが欲しいという私の願望は、70年も前に桑原武夫によってこのように「文化国家の教育者」の使命として掲げられていたのであった。果たしてこの時代に「全国共通リスト」は作られたのだろうか。存在するならぜひ見てみたいものだ。

 さて、本書で桑原武夫は「友人諸君の協力をえて」(120頁)、世界近代小説五十選というリストを作成し、これを掲載している。それをまた例によって、以下に引用させていただくことにする(桑原がこれを共有財産としたがったことを考えれば、このように公表することは著者の意に背くまいという判断です。ご了承願います)。なお原文には文庫名が指定されているが、古い情報なのでその部分は割愛している。

世界近代小説五十選(桑原武夫『文学入門』、岩波新書、1950年(1963年改版)、175-177頁)

 

イタリー

  1. ボッカチオ『デカメロン』(1350-53)

スペイン

  1. セルバンテスドン・キホーテ』(1605)

イギリス

  1. デフォオ『ロビンソン漂流記』(1719)
  2. スウィフト『ガリヴァー旅行記』(1726)
  3. フィールディング『トム・ジョウンズ』(1749)
  4. ジェーン・オースティン高慢と偏見』(1813)
  5. スコット『アイヴァンホー』(1820)
  6. エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(1847)
  7. ディケンズ『デイヴィット・コパーフィールド』(1849)
  8. ティーヴンスン『宝島』(1883)
  9. トマス・ハーディ『テス』(1891)
  10. サマセット・モーム『人間の絆』(1916)

フランス

  1. ラファイエット夫人クレーヴの奥方』(1678)
  2. レヴォマノン・レスコー』(1731)
  3. ルソー『告白』(1770)
  4. スタンダール赤と黒』(1830)
  5. バルザック『従妹ベット』(1848)
  6. フロベールボヴァリー夫人』(1857)
  7. ユゴーレ・ミゼラブル』(1862)
  8. モーパッサン女の一生』(1883)
  9. ゾラ『ジェルミナール』(1885)
  10. ロラン『ジャン・クリストフ』(1904-12)
  11. マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』(1922-39)
  12. ジイド『贋金つくり』(1926)
  13. マルロオ『人間の条件』(1933)

ドイツ

  1. ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(1774)
  2. ノヴァーリス青い花』(1802)
  3. ホフマン『黄金宝壺』(1813)
  4. ケラー『緑のハインリヒ』(1854-55、改作1879-80)
  5. ニーチェ『ツアラトストラかく語りき』(1883-84)
  6. リルケ『マルテの手記』(1910)
  7. トオマス・マン『魔の山』(1924)

スカンディナヴィア

  1. ヤコブセン『死と愛』(ニイルス・リイネ)(1880)
  2. ビョルンソン『アルネ』(1858-59)

ロシア

  1. プーシキン『大尉の娘』(1836)
  2. レールモントフ『現代の英雄』(1839-40)
  3. ゴーゴリ『死せる魂』(1842-55)
  4. ツルゲーネフ『父と子』(1862)
  5. ドストエーフスキイ罪と罰』(1866)
  6. トルストイアンナ・カレーニナ』(1875-77)
  7. ゴーリキー『母』(1907)
  8. ショーロホフ『静かなドン』(1906-40)

アメリ

  1. ポオ短篇集『黒猫』『モルグ街の殺人事件・盗まれた手紙他』(1838-45)
  2. ホーソン『緋文字』(1850)
  3. メルヴィル『白鯨』(1851)
  4. マーク・トゥエーン『ハックルベリィフィンの冒険』(1883)
  5. ミッチェル『風と共に去りぬ』(1925-29)
  6. ヘミングウェイ武器よさらば』(1929)
  7. ジョン・スタインベック『怒りのぶどう』(1939)

中国

  1. 魯迅『阿Q正伝・狂人日記他』(1921)

  なるほど、なるほどと、眺めているだけでいろいろ思わされて、たいへん興味深い歴史的資料である。「なぜあれが入っていないのか」式の不満は、この種のリストには不可避なので、あまり言っても仕方ないかと思う。それにしてもスカンディナヴィアの2作には驚かされる。当時はよく読まれていたのだろうか?

 さて、ここではひとまずフランスについてだけ見よう。挙げられているのは13作品。『クレーヴの奥方』と『マノン・レスコー』はそれぞれ17世紀、18世紀を代表する問答無用の傑作ということで、『告白』は桑原自身による岩波文庫が近刊だったという事情もないではない(小説に限定するなら『新エロイーズ』のほうが順当な選択かもしれない)。そして19世紀が6作、20世紀が4作となっている。

 19世紀の6人(スタンダールバルザックフロベールユゴーモーパッサン、ゾラ)は、今でも(小説家限定なら)ほぼ同様の名前が挙がるだろう。『従妹ベット』と『ジェルミナール』が現在品切れ(前から言っているがぜひ新訳を出してほしい)。1950年にはすでに評価が動かし難く定まっていた、ということがここから分かる。

 問題は20世紀の4作だ。白水社の『チボー家の人々』はまだ現役のようだが、それ以外の3作は 品切れして久しい。この4人のなかで、(フランスおよび日本で)今現在かろうじで生き残り、また復活しつつあるのはアンドレ・ジッド一人だろう。ロマン・ロラン、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、アンドレ・マルローの名前は今の時点ではいかにも古色蒼然という感が拭えない。もちろん、私には(近い将来であってさえ)未来の予測はまったくできないのだけれども、「現代の作品」の評価はやはり難しいということを思い知らされる。

 そこで、今の私なら20世紀前半の4作品に何を挙げるか、と考えてみた結果は以下のとおり。

22' プルースト失われた時を求めて』(1913-1927)

23' アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1927)

24' アルベール・カミュ『異邦人』(1942)

25' ボリス・ヴィアン『日々の泡(うたかたの日々)』(1947)

  そう、1950年時点ではまだ『失われた時』の全訳は出ていなかったし、日本で『異邦人』が知られるようになるのももう少し後のことだったのだ。今ならこの2作が外れることはありえないだろう。『ナジャ』が小説かどうか知らないが、シュールレアリスムのない20世紀前半というのも想像し難い。そして昨年が死後60年だったヴィアンのこの作も、その人気は衰えていないはずだ。

 と、置き換えてみたら何がどうなるのか自分でもよく分かっていないのだが、これらの作品は今の読者に十分に「人生へのインタレスト」を掻き立ててくれるだろうか、と改めて思いながら、繰り返しリストを眺めている次第だ(その暇があったら本を読むべきなのだけど)。

 

 クリストフ・マエ Christophe Maé のアルバム『芸術家の人生』La Vie d'artiste より「キャスティング」"Casting"。分かりやすい歌詞。

www.youtube.com

Mesdames, Messieurs, emmenez-moi

Je ne veux pas rentrer chez moi

Y'a rien à faire là-bas

Y'a rien à faire là-bas

Medames, Messieurs, me laissez pas

Je ne veux pas rentrer chez moi

Y'a rien à faire là-bas

J'ai rien à faire là-bas

("Casting")

 

紳士淑女の皆さま、僕を連れていってください

家に帰りたくはありません

あそこですることはありません

あそこですることはありません

紳士淑女の皆さま、僕を見捨てないでください

家に帰りたくはありません

あそこですることはありません

僕にはすることがありません

(「キャスティング」)