えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『情事の終り』/クリストフ・マエ「魅了されて」

『情事の終り』表紙

 読んだという記録のために。

 グレアム・グリーン『情事の終り』、上岡伸雄訳、新潮文庫、2015年

 この本とジッドの『狭き門』はまだ読まれているようだけれど、そのことは私には不思議に思える。『情事の終り』は決して分かりやすい話ではないように見えるだけに、読まれる理由はどこにあるのだろうと気にかかる。

 言うまでもなく信仰とは難しいもので、信じている/信じていないという二分法は見かけほど単純なものではない。そもそも「私は神を信じていない」という言辞は、それ自体が神の存在を前提としている(本当の無信仰者とはわざわざそういうことを言わない者だろう)。そうである以上、「信じていない」と言い募れば募るほど、その者は神の存在に(言葉は悪いが)呪縛されることになる。そうならざるをえないのである。

 一方で、信じている者にとってはすべての現象は神の意志の表れと解釈される。祈りが通じればそれは神の意志であると捉えられるが、祈りが通じなかった場合にも、それこそが神の意志であると言いうる。「信じない」者は常にその逆のことを考えるかもしれないが、傍目には彼のこだわりは信心者のそれとよく似ている。要するに、ひとたび信じる/信じないの二者択一に捕われた者にとって、この世の事象はすべて解読されるべき記号となり、絶え間のない問答を続けることを余儀なくされるのだ。この物語のヒロインのサラ、そして後に語り手自身はそのような葛藤の中で悩み、苦しむことになるのだと言えよう。

 そして、信じることと信じないことがほとんど表裏一体であるのと同様に、愛することと憎むこととは、見かけほどに対立するものではない、ということを本書は語っている。愛しているから憎むのか、憎むほどに愛しているのか? 根本にあるのは対象に対する強い執着であり、恐らくはそれが愛と映るか、憎しみと映るかの差は紙一重なのだ。

 信じることの困難、愛することの終りのない苦しみ。『情事の終り』は執拗にその二つを語り続ける、決して甘くない物語だ。

 ところで、先に『狭き門』の名を挙げたが、そういえば本書の基本的構成には『狭き門』と共通する点が明確に存在している。もしかしたらそこに、この両作がしぶとく生き続ける理由が存在しているのだろうか。

 もっとも私は、『狭き門』の再読だけはすまいと誓っているのだけれど。

 

 クリストフ・マエ Christophe Maé の続きで、2013年のアルバム『幸せがほしい』 Je veux du bonheur より「魅了されて」"Tombé sous le charme"。

www.youtube.com

Je suis tombé sous le charme

A cause de tes mains tes mots doux

Tournent autour de mon âme

Comme des refrains vaudous

 

Je suis tombé sous le charme

A cause de ton sein sur ma joue

Tourne autour de mon âme

Et jetons-nous dans la bayou

("Tombé sous le charme")

 

僕は魅了された

君の手が理由で 君の優しい言葉が

僕の魂の周りをまわる

ブードゥーのリフレインのように

 

僕は魅了された

頬に触れる君の胸が理由で

僕の魂の周りをまわる

池の中に飛び込もう

(「魅了されて」) 

『文学入門』/クリストフ・マエ「キャスティング」

『文学入門』表紙

 推薦書リストの話の続き。

 最近、巷の書店で出会って、おおまだ現役だったのかと驚いた本。

 桑原武夫『文学入門』、岩波新書、1950年1刷(63年31刷改版、2016年87刷)

 「文学は人生に必要である」と堂々と述べるその言葉がなんとも眩しい。1950年にはまだテレビ放送も始まっていなかった。外国文学研究者が胸を張って生きていられた時代が、今となってはなんともよい時代だったように見えなくもない。

 という個人的感慨はともかくとして、「第一章 なぜ文学は人生に必要か」の著者の論理を少し辿っておこう。小説を読むことによって、読者は著者から「人生そのものへのインタレスト」(20頁)を受け取る。それによって読者の心には、「行動直前的心的態度」(21頁)が蓄積され、それは現実の我々の行動にも影響を及ぼすことになる。

 それと同時に、読書によって「人間についての知識」(22頁)の獲得があることは言うまでもない。「現実に生きて行動する人間についての知識、を供給するものが、ほかならぬ文学なのである。」(23頁)

 人生をもっとも充実した仕方で生きるとは、理性も悟性も感性も身体もを含めて全的に行動することである。「人生に強いインタレストをもち感動しうる心なくしては、よき行動はなく、したがってよき人生のありえないことは、明らかであろう。」(24頁)

 人は理性の増強と知識の増加については、つねにこれを力説するが、そしてそれはいかに力説しても十分とはいえないが、しかも、この二者のみをもってしては、人間はついに行動に出ることは不可能なのである。よき行動とよき人生を生み出すためには、さらに人生にインタレストをもち、感動しうる心と、つねに新しい経験を作り出す構想力とが必要である。ところが人はこの二者の重要性を忘れ、その正しい養成をややともすれば怠りがちである。しかもこの二つのものなくしては、明日のよき生活の建設は決してありえないのである。そしてこれらに糧を与え、これを養成するものが、ほかならぬ文学である。これ以上人生に必要なものが、又とあるだろうか?(24頁)

 桑原がここで語っている「文学」は、主に「物語」のことであるように思われるのだが、そうであれば現代の日本人にとって「人生へのインタレスト」を与えてくれるものとしては、たとえばNHK大河ドラマのほうがはるかに身近でありえるだろうし、それはまた、ここで述べられている役割を十分に果たしうるのではないだろうか。というような疑問が、今の私にとって桑原武夫の断言が羨ましくも思われる所以となる。以上が私の気になることの一点目。

 もう一点は、桑原がこのような小説(読書)論を展開したのは、彼が想定しているのが主に19世紀から20世紀初頭のリアリズム小説であるという「前提」があってのことだった、というのが今となってはよく分かるということである。もちろん、桑原がこれを書いたのは1950年であり、彼の述べていることが、その時点における小説の一般的理解として妥当なものだったことは疑うべくもない(後に挙げる彼のリストにはまだカフカジョイスも登場していない)。しかし、今の我々が振り返る20世紀の文学史が、その近代リアリズムの形式をいかに超克するかという問いを巡って書き記されるものであるとすれば、21世紀初頭現在の「読書」論もまた、このように素朴にリアリズム作品だけを対象にすることはできないかもしれない。

 さて、そうした留保はともかくとして、「第四章 文学は何を―どう読めばよいか」において、著者は「読書の基準化の必要」を訴えている。

(略)新しいデモクラシーとヒューマニズムの精神による、読書の基準化は今日もっとも緊急を要する仕事であろう。(略)日本でも、各部門ごとにこうした必読書のリストを作成することが、新制大学の教養課程においてなさるべき、第一の仕事と思われる。もちろんその書目の選定にあたっては、あまりに難解なものをさけること、あまりに多くの冊数をあげてかえって不可能化しないこと、等々、慎重を要するが、さしあたり各大学で、それぞれリストをつくり、それを比較研究して、数年後には全国共通リストのできることを理想としたい。文化国家の教育者は、それくらいの労を惜しんではならないのである。(118頁)

  いやはや。なんのことはない、入門者向けの推薦図書リストが欲しいという私の願望は、70年も前に桑原武夫によってこのように「文化国家の教育者」の使命として掲げられていたのであった。果たしてこの時代に「全国共通リスト」は作られたのだろうか。存在するならぜひ見てみたいものだ。

 さて、本書で桑原武夫は「友人諸君の協力をえて」(120頁)、世界近代小説五十選というリストを作成し、これを掲載している。それをまた例によって、以下に引用させていただくことにする(桑原がこれを共有財産としたがったことを考えれば、このように公表することは著者の意に背くまいという判断です。ご了承願います)。なお原文には文庫名が指定されているが、古い情報なのでその部分は割愛している。

世界近代小説五十選(桑原武夫『文学入門』、岩波新書、1950年(1963年改版)、175-177頁)

 

イタリー

  1. ボッカチオ『デカメロン』(1350-53)

スペイン

  1. セルバンテスドン・キホーテ』(1605)

イギリス

  1. デフォオ『ロビンソン漂流記』(1719)
  2. スウィフト『ガリヴァー旅行記』(1726)
  3. フィールディング『トム・ジョウンズ』(1749)
  4. ジェーン・オースティン高慢と偏見』(1813)
  5. スコット『アイヴァンホー』(1820)
  6. エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(1847)
  7. ディケンズ『デイヴィット・コパーフィールド』(1849)
  8. ティーヴンスン『宝島』(1883)
  9. トマス・ハーディ『テス』(1891)
  10. サマセット・モーム『人間の絆』(1916)

フランス

  1. ラファイエット夫人クレーヴの奥方』(1678)
  2. レヴォマノン・レスコー』(1731)
  3. ルソー『告白』(1770)
  4. スタンダール赤と黒』(1830)
  5. バルザック『従妹ベット』(1848)
  6. フロベールボヴァリー夫人』(1857)
  7. ユゴーレ・ミゼラブル』(1862)
  8. モーパッサン女の一生』(1883)
  9. ゾラ『ジェルミナール』(1885)
  10. ロラン『ジャン・クリストフ』(1904-12)
  11. マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』(1922-39)
  12. ジイド『贋金つくり』(1926)
  13. マルロオ『人間の条件』(1933)

ドイツ

  1. ゲーテ『若きウェルテルの悩み』(1774)
  2. ノヴァーリス青い花』(1802)
  3. ホフマン『黄金宝壺』(1813)
  4. ケラー『緑のハインリヒ』(1854-55、改作1879-80)
  5. ニーチェ『ツアラトストラかく語りき』(1883-84)
  6. リルケ『マルテの手記』(1910)
  7. トオマス・マン『魔の山』(1924)

スカンディナヴィア

  1. ヤコブセン『死と愛』(ニイルス・リイネ)(1880)
  2. ビョルンソン『アルネ』(1858-59)

ロシア

  1. プーシキン『大尉の娘』(1836)
  2. レールモントフ『現代の英雄』(1839-40)
  3. ゴーゴリ『死せる魂』(1842-55)
  4. ツルゲーネフ『父と子』(1862)
  5. ドストエーフスキイ罪と罰』(1866)
  6. トルストイアンナ・カレーニナ』(1875-77)
  7. ゴーリキー『母』(1907)
  8. ショーロホフ『静かなドン』(1906-40)

アメリ

  1. ポオ短篇集『黒猫』『モルグ街の殺人事件・盗まれた手紙他』(1838-45)
  2. ホーソン『緋文字』(1850)
  3. メルヴィル『白鯨』(1851)
  4. マーク・トゥエーン『ハックルベリィフィンの冒険』(1883)
  5. ミッチェル『風と共に去りぬ』(1925-29)
  6. ヘミングウェイ武器よさらば』(1929)
  7. ジョン・スタインベック『怒りのぶどう』(1939)

中国

  1. 魯迅『阿Q正伝・狂人日記他』(1921)

  なるほど、なるほどと、眺めているだけでいろいろ思わされて、たいへん興味深い歴史的資料である。「なぜあれが入っていないのか」式の不満は、この種のリストには不可避なので、あまり言っても仕方ないかと思う。それにしてもスカンディナヴィアの2作には驚かされる。当時はよく読まれていたのだろうか?

 さて、ここではひとまずフランスについてだけ見よう。挙げられているのは13作品。『クレーヴの奥方』と『マノン・レスコー』はそれぞれ17世紀、18世紀を代表する問答無用の傑作ということで、『告白』は桑原自身による岩波文庫が近刊だったという事情もないではない(小説に限定するなら『新エロイーズ』のほうが順当な選択かもしれない)。そして19世紀が6作、20世紀が4作となっている。

 19世紀の6人(スタンダールバルザックフロベールユゴーモーパッサン、ゾラ)は、今でも(小説家限定なら)ほぼ同様の名前が挙がるだろう。『従妹ベット』と『ジェルミナール』が現在品切れ(前から言っているがぜひ新訳を出してほしい)。1950年にはすでに評価が動かし難く定まっていた、ということがここから分かる。

 問題は20世紀の4作だ。白水社の『チボー家の人々』はまだ現役のようだが、それ以外の3作は 品切れして久しい。この4人のなかで、(フランスおよび日本で)今現在かろうじで生き残り、また復活しつつあるのはアンドレ・ジッド一人だろう。ロマン・ロラン、ロジェ・マルタン・デュ・ガール、アンドレ・マルローの名前は今の時点ではいかにも古色蒼然という感が拭えない。もちろん、私には(近い将来であってさえ)未来の予測はまったくできないのだけれども、「現代の作品」の評価はやはり難しいということを思い知らされる。

 そこで、今の私なら20世紀前半の4作品に何を挙げるか、と考えてみた結果は以下のとおり。

22' プルースト失われた時を求めて』(1913-1927)

23' アンドレ・ブルトン『ナジャ』(1927)

24' アルベール・カミュ『異邦人』(1942)

25' ボリス・ヴィアン『日々の泡(うたかたの日々)』(1947)

  そう、1950年時点ではまだ『失われた時』の全訳は出ていなかったし、日本で『異邦人』が知られるようになるのももう少し後のことだったのだ。今ならこの2作が外れることはありえないだろう。『ナジャ』が小説かどうか知らないが、シュールレアリスムのない20世紀前半というのも想像し難い。そして昨年が死後60年だったヴィアンのこの作も、その人気は衰えていないはずだ。

 と、置き換えてみたら何がどうなるのか自分でもよく分かっていないのだが、これらの作品は今の読者に十分に「人生へのインタレスト」を掻き立ててくれるだろうか、と改めて思いながら、繰り返しリストを眺めている次第だ(その暇があったら本を読むべきなのだけど)。

 

 クリストフ・マエ Christophe Maé のアルバム『芸術家の人生』La Vie d'artiste より「キャスティング」"Casting"。分かりやすい歌詞。

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Mesdames, Messieurs, emmenez-moi

Je ne veux pas rentrer chez moi

Y'a rien à faire là-bas

Y'a rien à faire là-bas

Medames, Messieurs, me laissez pas

Je ne veux pas rentrer chez moi

Y'a rien à faire là-bas

J'ai rien à faire là-bas

("Casting")

 

紳士淑女の皆さま、僕を連れていってください

家に帰りたくはありません

あそこですることはありません

あそこですることはありません

紳士淑女の皆さま、僕を見捨てないでください

家に帰りたくはありません

あそこですることはありません

僕にはすることがありません

(「キャスティング」) 

『教養のためのブックガイド』/クリストフ・マエ「人々」

『教養のためのブックガイド』表紙

 以前より、推薦図書リストのようなものを探しているわけだが、そうした類のものが難しいのは、そもそもからして多分に教育的意図をもったものである上に、ややもすると威圧的なものになってしまうという理由があるように思われる。

 『教養のためのブックガイド』、小林康夫/山本泰編、東京大学出版、2005年

の中に、たとえば、英語圏における「教養のブックガイド」として、ハーバード大教授のヤン・ツィオルコフスキーによって35点、ロマンス語圏としてローマ大教授のピエロ・ボイターニによって41点(冊数ではない)が挙げられている。前者は『聖書』とホメロス(当然『イリアス』と『オデュッセイア』両方)に始まり、独仏英伊西色とりどり、カザンスキ『その男ゾルバ』まで、豪勢なラインナップ。後者もやはりホメロスから始まり、コーランも含めて多様な顔ぶれが並び、最後はプルースト失われた時を求めて』となっている。

 いかにも西洋のハイパー・インテリのご意見はかくもあろうし、彼方にはこれらすべてを読んだと言える教養人が(今でも)いるかもしれないが、しかし幾らなんでもこれでは取り付く島がないというものだ。ここに挙がっている本、『アエネーイス』、『デカメロン』、『神曲』、『ドン・キホーテ』から、『魔の山』、『戦争と平和』、『ユリシーズ』まで、全部を本気で読もうと思ったら、いったい何時間必要なのだろう。これでは「教養」を身につけるだけで一生かかってしまうかもしれない。もちろん、こういう網羅的で模範的なリストに意味がないと言うつもりはないけれど、普通の人のほうを向いたリストでないとははっきり言えるだろう。

 もっとも、私は本書を批判するつもりで書き出したわけではなく、本題はここからである。まず、「座談会 ”教養と本”」の中から、小林康夫の言葉を引用しておきたい。「本でなくてはいけない理由」という見出しの後。

小林 ビジュアルな情報はあっという間に感覚に入る。脳は瞬時のうちにそれを享受することができるわけですけど、文字言語はイメージとは違って、すぐには像が結ばれない。イマジネーションを働かして自分で像をつくり上げなくちゃいけないわけです。実はこれがすごく重要です。効率という意味では非常に悪い。文字から像までには時間的なラグがあって、そこで考えたり想像しないといけない。これはわずかな時間なんですけど、ずれているその間に自分の脳が想像力と思考力を働かせる。そこではじめて言語の運用能力が出てくる。本じゃなくちゃいけない最大の理由がそこにある。それは本以外に考えられません。本はある意味では時代おくれの遅いメディアなんだけど、その遅さのなかに途方もなく重要な精神の形成力がある。

 だから、本を読まないといつまでたっても自分のなかに思考や想像力が育っていかない。最終的には想像する、思考することができなくなる。この二つの重要な能力を失えば、まさに人間は弱体化するので、私はこのまどろっこしさに耐えてもらいたいんですよ。感覚できないものを感覚しようと努力し、よくわからないものを理解しようとして文脈を自分で構成する。この文脈を自分で構成することが、多分知的能力の最大の訓練だと思います。(100-101頁)

 だんだんと私も思うようになってきた。真の読書人たるもの、このご時世にもはや映画や漫画に遠慮している場合ではないのであって、「本でなくてはいけない理由」が存在することを、もっと喧伝するべきなのではなかろうか。これが一点。

 二点目。私が本書でもっとも面白く読んだのは、野崎歓「読む快楽と技術」、187-201頁であり、石井洋二郎「読んではいけない15冊」、203-216頁である。もちろん、ともに仏文の先生であってみれば、私個人の趣向にもっとも近いのは当然のことかもしれないが、贔屓目を抜きにしても、この二つの文章は魅力的だと思う。

 ここではとくに後者について触れるに留めるが、「読んではいけない15冊」のリストがなんとも魅惑的であり、私の探し求めているものの理想の形の一つはここにあるように思う。それはそうと、「もしかすると取り返しのつかない事態を引き起こすかもしれない」(204頁)と言われれば、いよいよ気になる危険な書籍とは何か。以下に、ここに挙げられている15冊をリストして引用させていただきたい。

 なお、便宜上番号をふったが、これは原文にはないもので、特に順位を表すものではないことをお断りしておく。

  1. 大江健三郎『われらの時代』、新潮文庫
  2. ヘンリー・ミラー『北回帰線』、大久保康雄訳、新潮文庫
  3. ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果てへの旅』(上下巻)、生田耕作訳、中公文庫
  4. フョードル・ドストエフスキー地下室の手記』、江川卓訳、新潮文庫
  5. 埴谷雄高『死霊』(I-III巻)、講談社文芸文庫
  6. フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラ』(上下巻)、吉沢伝三郎訳、ちくま学芸文庫
  7. マルキ・ド・サド悪徳の栄え』(上下巻)、澁澤龍彦訳、河出文庫
  8. ジョルジュ・バタイユ眼球譚』、生田耕作訳、河出文庫
  9. 谷崎潤一郎『鍵』、中公文庫
  10. ウィリアム・フォークナーサンクチュアリ』、加島祥造訳、新潮文庫
  11. ジャン・ジュネ『ブレストの乱暴者』、澁澤龍彦訳、河出文庫
  12. アルチュール・ランボー『地獄の季節』、小林秀雄訳、岩波文庫
  13. 原口銃三『二十歳のエチュード』、角川文庫/ちくま文庫
  14. トーマス・マンヴェニスに死す』、高橋義孝訳、新潮文庫(『トニオ・クレーゲル ヴェニスに死す』)
  15. ロートレアモン伯爵『マルドロールの歌』、石井洋二郎訳、ちくま文庫

(『教養のためのブックガイド』、小林康夫/山本泰編、東京大学出版会、2005年、203-216頁より作成)

 それぞれの書籍についての解説が気になる方には、ぜひとも本文をあたってほしい。

 個人的な話をすれば、私自身も若い頃には刺激と衝撃を求めて本を探したものだけれど、結局、ここに挙げられている作品の多くを読み逃したまま今に至ってしまった。リストを眺めていると、自分の読書遍歴の「健全さ」が気恥ずかしいような、残念なような気分になる。二十歳の頃に出会っていればよかったのにと思う一方、もしそうだったらと想像すると、やはりなんだか心配にもなってくる。はたして無事に生き残れただろうか?

 それを読んでしまったために今ある自分を揺さぶられ、突き崩され、解体され、その結果多少なりとも以前の自分とは異なる自分を発見するのでなければ、いったい人は何のために本を読むのでしょう? ここで紹介したかったのは、もっぱらそういった「美しき惑い」へと読者をいざなう反・啓蒙的な書物なのです。(215頁)

 もちろん読書に遅すぎることはないはずで、今からでも読めばいいのだ。今ならもう大丈夫と油断していると、「自分がそれまで進んできた道を踏み外してしまうきっかけになるかもしれない」(204頁)。そう考えると、決して余裕をもって笑っていられるようなリストではない(かもしれない)。

 

 Christophe Maé クリストフ・マエが2019年10月にアルバム La Vie d'artiste 『芸術家の人生』を発表。その中から "Les Gens"「人々」。

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Et y'a des gens heureux

Des vies tristes qui dorment dehors

Et y'a des gens heureux

Et d'autres qui brassent de l'or

("Les Gens")

 

そして幸せな人たちがいる

外で眠る悲しい人生がある

そして幸せな人たちがいる

富をあやつる者たちもいる

(「人々」) 

『危機に立つ東大』/ガエル・ファイユ「僕は旅立つ」

『危機に立つ東大』表紙
 タイトルを見て最初は「石井先生がそんな本書いちゃだめー」と思ったが、ファンなので黙って購読。

 石井洋二郎『危機に立つ東大 ――入試制度改革をめぐる葛藤と迷走』、ちくま新書、2020年

 実際に読んでみれば、もちろんこれは時流に乗った浅薄な煽り本などではまったくなく、その正反対に位置する、明晰で確固たる批評の書であった。この著者によってこそ書かれるべき、またこの著者によってしか書かれえなかった本だと言うべきかもしれない。

 本書は、「秋入学問題」、「文系学部廃止問題」、「英語民間試験問題」、「国語記述式問題」という、近年に大学業界を揺るがした事件を題材にしてはいるが、いたずらに「悪役」を突き止めて溜飲を下げることを目的としていない。それぞれの事件の背後に潜む誤謬を剔抉して分析した上で、より全体的で深刻な問題として、今の社会に「人文知」軽視の風潮が見られるのではないかと問うものである。

 したがって、本書第2章において、従来の文系(人文科学・社会科学)と理系(自然科学)という広く行きわたっていながら、実際は恣意的で不正確な分類を改め、「人文知」(人文学)と「科学知」(人間科学・社会科学・自然科学)とに分類し直すこと(79頁)、その上で「人文知」を「人間のあらゆる知的な営みを貫く普遍的な基層のようなもの」(106頁)と捉えるべきではないかという著者の提言はとくに重要だ。この分類が普及すればいいと、私は心から思う。そしてここでいう「人文知」は、ヨーロッパの伝統的な「リベラルアーツ」と同種のものと位置付けられる。今日の大学教育に求められるリベラルアーツは、「獲得したさまざまな知識や技能を具体的な個々の課題に応じて動員し、それらを有機的に関連させながら、既成の限界や制約を乗り越える能力、さらには自由な発想で新たな展望を切り拓く能力」(110頁)だと著者は述べている。

 「人間の知的営為を支える普遍原理としての人文知を教育の場に定着させることに努めなければならない」(111頁)という言葉を、私も大学人の端くれとしてしっかり胸に留めなければと思う。私にはなんとも力不足な大きな課題かもしれないが、それを新年の誓いとしたい。

 

 新年なので、旅立ちの歌を。Gaël Faye ガエル・ファイユの "Je pars" 「僕は出発する」。2013年のアルバム Pili pili sur un croissant au beurre 『バター付きクロワッサンの上のピリーナッツ』所収。

 ガエル・ファイユはブルンジ出身。13歳の時、内戦を逃れてフランスに渡ってきた。ウィキペディアによれば今はルワンダ在住とか。ちょっと訳に自信が持てません。

www.youtube.com

Je pars, parti pour la vie
Je pars, viens avec moi si t'as envie
Je pars pour la saison des pluies
Je pars, hier demain et aujourd'hui

 

Je pars, parti pour la vie
Je pars, viens avec moi si t'as envie
Je pars, pour un rayon d'ombre
Viens retrouver Colombe mon cœur mort sous les décombres

("Je pars")

 

人生に向けて僕は旅立つ 旅立った

僕は旅立つ その気があるなら一緒に来いよ

僕は雨季に向けて旅立つ

僕は旅立つ 昨日、明日、今日と

 

人生に向けて僕は旅立つ 旅立った

僕は旅立つ その気があるなら一緒に来いよ

僕は陰った光に向けて旅立つ

〈ハト〉を見つけに来いよ 瓦礫の下で死んだ僕の心

(「僕は旅立つ」)

『林檎の樹』

『林檎の樹』表紙

 ゴールズワージー『林檎の樹』、法村里絵訳、新潮文庫、2018年

 大学を卒業した5月、徒歩旅行に出かけたフランク・アシャーストは、足を痛めて歩けなくなり、近くの農場に泊めてもらうが、そこで出会った娘ミーガンに恋に落ちる。二人は真夜中、花咲く林檎の樹の下で逢引きをし、フランクは彼女に一緒に駆け落ちしようと言い、金を下ろしてくるために一旦、町へと引き返すが……。

 原著は1916年に刊行。下手をすれば鼻持ちならない話になりかねないのに、しっかり最後まで読ませてしまうのは、自然豊かな情景を濃密に描き出せる筆力と、主人公の心理の変化を的確かつ辛辣に辿ってみせる分析力のお蔭だろう。前者については、なんといっても林檎の樹の下での逢引きの場面。動物たちの鳴き声、息づく林檎の花、すべてがあまりにも美しい。

まわりでは、月の魔法にかけられた樹々が枝を震わせている。精霊の存在を感じさせるそんな樹々に囲まれて立っているうちに、アシャーストはすべてに確信が持てなくなってきた! これは、この世の風景ではありえない。ここは現に生きる恋人たちにはそぐわない。この場にふさわしいのは、神と女神、ファウヌスとニンフだけ。アシャーストと田舎育ちの小娘が、こんな場所で忍び会ってはいけないのだ。(71頁)

 まさしく「春と夜と林檎の花」(111頁)の魔法にかかったかのような夢幻的な場面であり、それがあまりに夢のようであるだけに、ひとたび「現実」に立ち返った主人公は、時の流れとともに、自分がそこへ帰ってゆくことが不可能であることを自覚せざるえなくなる。彼は彼として精一杯に誠実であり、彼を追って町に出てきたミーガンの姿を認めた時には、たまらず彼女を追いかけてゆく。しかし、彼女を前にしたところで、その歩みは遅くならざるをえない。結局のところは、身分違いの恋によっては、自分も彼女も幸せになれはしないのだという苦い認識が、彼にミーガンと一緒になることをためらわせ、自責の念に苛まれながらも、アシャーストは彼女を見捨てることになる。「農場に戻らずにいるのは恐ろしかった! しかし、戻るのは……もっと恐ろしかった!」(111頁)という一文に、彼の置かれた状況が見事に要約されている。

 これは幻滅の物語であるが、その幻滅には自分に対するそれも含まれているところがいかにも苦く、この物語を、いたずらに感傷的なものに終わるのを防いでいるだろう。

アシャーストは自分を憎み、ハリディ兄妹を、そして彼らがかもしだす、健全で幸せな、いかにも英国の家庭らしい雰囲気を、憎んだ。なぜ彼らはここに居合わせて、ぼくの初めての恋を台無しにし、自分がありきたりの女たらしにすぎないことを思い知らせてくれたのだ? あの色白の控えめな美しいステラは、どんな権利があって、ミーガンとの結婚はありえないとぼくに知らしめてくれたのだ? 何もかもをくもらせ、ぼくに失ったものを切望するという耐えがたい苦痛を与え、こんなにもみじめな思いをさせる、どんな権利が彼女にあるというのだ?(124頁)

 そのステラと後に結婚することになるのだから、そこには大きな皮肉がある。アシャーストは、いわば人生の門出において大きな挫折を味わうのだ。その経験は、自己の真実を教えることによって、彼の成長に寄与したと言えるかもしれないが、しかしそのために払わされた代償は決して小さくない。ひとたび失われてしまった無垢さは、二度と取り戻すことはできないのである。

 だからこれは青春の喪失の物語であり、主人公の抱く悔恨は、いま青春のただ中にいる者にも、かつて青春を過ごした者にも、等しく胸に迫るものを持っているのではないだろうか。

 

 2019年に書いた記事はぜんぶで36。今年はそれなりにコンスタントには書けて、昨年の19よりは多いが、2017年の40には届かず。来年は40越えを目標としたい。

『あしながおじさん』/シャルル・アズナヴール「世界の果てに」

『あしながおじさん』表紙
 「ガイブン最初の1冊」を探すなかで読んだ本の記録。

 ジーン・ウェブスターあしながおじさん』、岩本正恵訳、新潮文庫、2017年

 これは大学生ジェルーシャ・アボットの自立へ向けた成長の過程が、彼女の書簡によって描かれていく物語だ。ジェル―シャの姿は瑞々しく生彩に富んでおり、真っすぐに生きる彼女はけなげで愛おしい。そこに、この本が長く読まれている理由があるだろう。

 しかし、結果として、彼女は最後まで「あしながおじさん」の完全な保護の下に留まり、そこに、帯に言う「奇跡のように幸せな結末」が成り立っている。そのことに、私は困惑(あるいは苛立ち)を覚えずにはいられなかった。

 原著刊行は1912年、著者は名門のヴァッサー大学(当時はもちろん女子大)卒業後、フリーランスのライターとして生業を立てたというから、当時のアメリカにあっては十分に「進んだ」女性であったのだろう。その彼女が生み出したのが、この「あしながおじさん」の物語であったということ、そのことをどのように評価するべきなのか、今の私ははっきりと断定できないでいる。

 また、この物語は21世紀の現代にあっては、そのイデオロギーにおいてすでに古びてしまったのではないか、というのが個人的な感想なのだけれども、果たしてその意見の正当性はどれほどのものだろうか。それはしょせん、30代半ばのジャービーよりもすでに年を経た、しかも男性である私の価値観がどこにあるかを示しているに過ぎないだろうか。

 改めて考える時、私は「自立」とか「独立」といった観念が自分にとって相当に重要な意義を持っており、自身のアイデンティティに深くかかわっていることを認めないわけにはいかない。私の「あしながおじさん」に対する反発は、偏にその点にかかっていると言っていい。そんな私が想像する、現代版にリライトされた『あしながおじさん』にあっては、ジェル―シャは「あしながおじさん」に決然と別れを告げて立ち去ることだろう。そうであってほしいと、心から思う。

 だが、しかし。「自立」や「独立」を尊ぶという意識も、考えてみればそれ自体、「個人主義」という現代の趨勢たるイデオロギーに依っているに過ぎないのかもしれない。と同時に、自分の価値観を捨てきれない私は、この本の「読者」としての資格を持ちえていないのだろうか、という疑念も拭いきれない。

 おじさま、だれにとっても一番必要な資質は、想像力だとわたしは思います。想像力があるからこそ、人はほかの人の立場になって考えることができます。想像力があるからこそ、人は親切な心と思いやりと理解を示すことができます。想像力は、子ども時代に培われるべきです。けれどもジョン・グリアー孤児院は、想像力がほんの少しでも表れると、即座に踏みつぶしました。義務を果たすことだけが、奨励される資質でした。わたしは子どもが義務という言葉の意味を知るべきだとは思いません。ほんとうに嫌な忌わしい言葉です。子どもはなにをするにも、愛が基本にあるべきです。(131-132頁) 

 いかにもジェル―シャの言う通りだ。100年以上前のアメリカの一人の女子大学生(彼女には身寄りがいない)の「立場」になって考えること、そのことの本当の意味での「難しさ」について、今も考え続けている。

 

 ヴァネッサ・パラディのカヴァーで知った曲。Charles Aznavour シャルル・アズナヴールの "Emmenez-moi" 「世界の果てに」(1967年)。北国の港で働く男が南国を夢見る歌。INAのアルシーヴより、1972年の映像。腕の動きがなんとも言いがたい味わいを生んでいる。

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Emmenez-moi

Au bout de la terre

Emmenez-moi

Au pays des merveilles

II me semble que la misère

Serait moins pénible au soleil

("Emmenez-moi")

 

連れて行ってくれ

地の果てまで

連れて行ってくれ

素晴らしい国へ

太陽の下では、惨めさも

まだましなように思えるんだ

(「世界の果てに」)

『自負と偏見』/ミレーヌ・ファルメール「モンキー・ミー」

『自負と偏見』表紙

 ジェイン・オースティン自負と偏見』、小山太一訳、新潮文庫、2014年

 以前から読みたいと思っていた本を読む。初読。原作が匿名で刊行されたのは1813年。

 オースティンがどれほど上手かも(冒頭のベネット夫妻の会話から、人物が鮮やかに立ち上がってくる見事さよ)、彼女のどこに限界があるのかも(その世界はいかにも狭く限定的だ)、いまさらのように言い立てる必要を認めない。それでもここに一言残しておきたいのは、長らく19世紀フランス文学ばかりに目を向けていた者にとっては、本当にこれが同時代の話なのだろうかと驚くぐらいに新鮮だったからだ。

 驚くことはいろいろあるが、とりあえず一点だけに絞るなら、ここでは結婚における当事者の意志が十分に尊重されている、ということが挙げられる。

 19世紀までのフランスの中上流社会にあっては、結婚とは完全に家と家の結びつきの問題だったらから、縁談をまとめるのは親であり、そこでは身分(家柄)と財産(持参金)が何よりも重要だった。娘は修道院の寄宿学校で大事に育てられ、16、17歳くらいで年の離れた男性と結婚させられるので、恋愛の入り込む余地もない。女性は結婚して初めて一人前と認められるのであり、子どもの一人も出来た後から、社交界の場で初めて恋愛に目覚めることになる。そこに、年上の既婚夫人と独身青年との恋愛が生まれる下地があった。というのが、スタンダール赤と黒』、バルザック谷間の百合』、フロベール感情教育』などを通して、我々が「そうであった」と教えられる19世紀のフランス社会のイメージだ。

 しかるにその同じ時代に、彼の地において、当の若い女性であるエリザベスは、決して家柄がよくなく財産も乏しい家庭の娘でありながら、意に沿わない相手からのプロポーズをあっさり退け、身分も財産もはるかに格上の男性ミスター・ダーシーとの結婚を、当事者同士の意志一つで決めてしまう。唯一の障害は、二人の結婚を認めないという、ダーシーの親戚にあたるレディ・キャサリンの介入であるが、エリザベスはまったくひるむこともなく、相手の批判を受け付けない。

「どうしても甥と結婚するというのね?」

「そんなことは申し上げておりません。わたしはただ、自分の幸せは自分で選ぼうと決心しているだけです。あなたにも誰にも、気がねするつもりはありません。関係のない人たちなんですから」(563頁) 

  この二人の対決部分が本作のクライマックスであり、エリザベスの毅然とした態度は実にすがすがしく拍手を送りたくなる。しかしそれにしても二つの国の間では結婚に到る過程がずいぶん違うものではないか。ああ、レナール夫人、モルソフ夫人にアルヌー夫人よ、あなた方はイギリスに生まれるべきだったとさぞ後悔していることだろう……。

 と、思わず感慨に浸ってしまうが、はたして本当のところ、この差は何を意味しているのだろうか? 確かに『自負と偏見』においても、身分と財産が結婚にあって重要なファクターであることには変わりはない。しかしながら、19世紀初頭のイギリスとフランスの家族制度においては、家父長の権威のあり方に一定の相違が見られたのだろうか? だとすればその理由はどこにあるのか?

 思いつきの仮説① フランスほどに中央集権体制が進まなかったイギリス社会においては、家父長の権威はフランスほど絶対的なものではなかった?

 思いつきの仮説② ここに描かれているのは作者オースティンの、そうであってほしい理想の世界であり、現実の社会とはいささかずれている?

 そもそも、ミセス・ベネットと5人の娘を前にミスター・ベネットは家長としての存在感に欠けるし、エリザベスの結婚を阻止しようとするのが一人レディ・キャサリンという女性であることからして、『自負と偏見』の世界においては明らかに男性の権威が薄い。とことん紳士のダーシーやビングリーにやはり男性性が乏しいように見える点からして、そこにオースティン個人の性向が表れていることは確かなように思われる。

 だがそういうことを言うなら、翻ってスタンダールバルザックフロベールはなんといっても男性作家であり、彼らの描いた世界は根本的に男性の視点によって見られた社会の姿ではないか、という疑念も生まれてくる。結果として偏ったイメージが広く流布することになったという面も否定できないだろう。だとすれば、真実はいったいどのあたりにあるのだろうか……。

 とりあえずここまで。そもそも『自負と偏見』一冊だけで答えの出るような話ではなく、また、以上はまったく素人の感想に過ぎないことをお断りしておきたい。そのうえで、同時代の英仏の互いに近いところ、遠いところに、これから気長に目を向けていきたいと思う。

 いや、小説は小説なのだ。芸術はすべてまやかしである。フロベールの世界も、すべての大作家の作品と同じく、それみずからの論理と約束事と、偶然の一致をもった空想の世界にはちがいないのである。

ウラジミール・ナボコフナボコフの文学講義』、野島秀勝訳、河出文庫、上巻、2013年、345頁)

 

 しつこくMylène Farmer ミレーヌ・ファルメール。2012年のアルバム Monkey Me『モンキー・ミー』のタイトル曲。ほとんど翻訳不可能かと。

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C’est un autre moi

C’est Monkey Me

C’est Monkey Me

L’animal

 

C’est bien ici-bas

Je manque ici

Je manque ici

De facéties

 

C’est un autre moi

C’est Monkey Me

C’est Monkey Me

L’animal

 

Je connais ces pas

Un Monkey Moi

Je suis Monkey... Me

("Monkey Me")

 

そこに

もう一人の私

それがモンキー・ミー

それがモンキー・ミー

アニマル

 

そこに

まさしくこの地上で

私には欠いている

私には欠いている

冗談が

 

そこに

もう一人の私

それがモンキー・ミー

それがモンキー・ミー

アニマル

 

そこで

私はその足跡を知っている

一匹のモンキー、私

私はモンキー、ミー

(「モンキー・ミー」)