えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

『人間の絆』

『人間の絆』上巻表紙

 モーム『人間の絆』(上中下)、行方昭夫訳、岩波文庫、2001年

 やっとのことで読み終える。3冊は私にとってはずいぶん長かった。原作は1915年刊。

 サマセット・モームには独特の冷静さというか冷淡さがあって、それ故に諷刺は抜群である一方で、どこか物足りなく感じさせる所以にもなるのだけれど、この作品の味わいはぜんぜん違う。作者自ら、「耐え難い思い出から、みずからを解放するために書いていた」(下巻、419頁)と述べている通り、粉飾されない生の感情がむき出しになっているという印象が強い。

 本作は自伝的小説であり、主人公フィリップ・ケアリの辿る道はモーム自身のそれとかなり重なっている。が、決して自伝ではなく虚構も多く含まれている。「作品中のどこが創作で、どこが事実であるか自分でも分からない」(同前)と作者自身が打ち明けている通りだ。

 それはつまりは「私小説」ということであって、実際、読んでいて受ける印象は日本の私小説に近いように思う。驚くのはとにかく全編「暗い」ことだ。フィリップは両親を早くに亡くし、牧師の伯父のもとで育てられるが、愛されずに孤独を抱えている。学校では足の障害を理由にいじめられるが、その情景はかなり陰惨なものだ。その後ドイツで学び、戻って来たところで年上のミス・ウィルキンソン相手に初恋を経験するが、そこには幻滅しかない。ロンドンで会計事務所に勤めるが長続きせず、次にパリに出て絵画の勉強をするが、二年の後に自分には才能がないことを悟って断念する。ここまでの展開、トーンはなんとも鬱々としている。画家になる夢を捨ててイギリスに戻り、医師になることに決めるのだが、医学の勉強をするなかで出会うのが悪名高いミルドレッドである。

 カフェのウェイトレスをしているミルドレッドにフィリップは恋に落ちるが、彼女は冷淡な態度を取り続ける。どうして自分が彼女に惹かれるのか分からないままに、フィリップは彼女の歓心を買おうと必死になる。だが、およそ恋愛において、どれだけ我慢しようと下手に出ようと、そのお蔭で事態が改善することなどありえるものではなかろう。フィリップがさんざんに相手に尽くした後、以前から馴染みの男と結婚するといって、ミルドレッドはさっさと去ってゆく。ここまでがいわば第一幕。

 第二幕は、ミルドレッドが当の男に捨てられたとフィリップに泣きついてくるところから始まる。妊娠中の彼女は出産間近だ。フィリップは入院から里子に出すための費用まで出してやり、ようやく彼女が自分のものになると胸躍らせるが、嬉しさのあまり彼女を自分の友人グリフィスに会わせたのが運の尽き。二人の仲はあっという間に燃え上がる。そこで見栄と意地にがんじがらめになったフィリップが、金を出すから二人で旅行に行けばいいと言い出す場面、その苦いことといったら実になんとも筆舌に尽くしがたい。

「ねえ、あの男と一緒に旅に出たらどうだい?」

「そんなことできるわけがないでしょ? あたしたちにはお金がないし」

「金は出してあげよう」

「え、あなたが出してくれるって?」

 彼女はすわり直して、彼を見上げた。彼女の目はきらきら輝き出し、頬には赤みがさしてきた。

「一番したいことからしてしまうってことさ。その後、きみはぼくのもとに戻って来るだろう」

 この提案をしてしまってから、苦痛に耐えられなくなったが、奇妙なことに、その苦痛が何か不思議な微妙な感覚を生んだ。(中巻、338頁) 

  自虐が昂じてマゾヒスムの域に達している。この一連の場面、切れば血が出るばかりの生々しさに慄然とさせられる。

 が、話はそこで終わらない。旅行から帰ってきたミルドレッドは、当然戻ってくるはずもなく姿を消してしまうが、後にフィリップは彼女に再会する。それも彼女が客引きをしているところを目撃するのである。ここからが第三幕で、フリップは彼女を自分の下宿に住まわせ、料理をしてもらうことに取り決める。この時点で彼女に対してもはや愛情を感じず、生理的嫌悪感すら覚えるのだが、哀れみと道義心に駆られて彼女を救おうとするのである。だが、(当然ながら)そのすべてがミルドレッドにとっては面白くない。彼女は自分からフィリップを誘惑するが、拒絶されたことに怒りを爆発させる。この復讐が実になんとも恐ろしいのだけれど、その内容は記さないでおくとしよう。

 一方的に惚れたほうが悪いと言えば悪いのには違いない。しかしフィリップ自身にとっても恋心はいかんともしがたいのであり、理性も理屈も役には立たない。ひたすらにすれ違い、屈従の先には不幸しか待っていないという地獄の状況が延々と続くが、これをモームスピノザから借りてhuman bondage「人間の束縛」と呼んだのだ。いやはや、なんとも暗いことだ。

 読んでいてなにが辛いといって、ミルドレッドという女性はどっからどう見てもぜんぜん魅力的ではないのである。彼女はロウアー・ミドル・クラスの出身で、上品ぶっているが実のところは低俗で愚かで身勝手で酷薄。どうしてフィリップがそこまで彼女に尽くすのか分からないが、当人さえ分からないことだから、これはこれで仕方がないのだろうか。しかしこうも繰り返し彼女の下劣な姿を見せられると、こちらとしてはどうしても「ミゾジニー」という言葉を思い浮かべざるをえなくなってくる。

 最終的にフィリップはサリーという女性と結ばれる。サリーは身体面では健康で肉感的、階級は低いが愚かではなく、慎み深くしとやかである。申し分ないといえばそうかもしれないが、要するにミルドレッドの正反対の女性像であり、それが男性にとって無害で癒しをもたらしてくれる母性に溢れたもの、ということになると、ここにあるのはあからさまに19世紀的な二分法だと認めざるをえない。聖女か娼婦か、母性か性愛か、どちらかのタイプに女性を分断する、典型的な男性中心主義的な女性観だ。別に私はモームを批判したいわけではないのだけれども、この点はどうにも見過ごせないように思われるのである。

 階級意識と女性観。この作品が商業性をある程度度外視して書かれた「私的」なものであるがゆえに、作者の根本的な人間観がよりよく見えてしまっているのではないか、と言えば意地悪に過ぎるだろうか。

 ともあれ、「報われない恋」の苦しみをここまで述べ尽くした作品は他に類を見ないのではないかと思う。後のモームの作品に見られる冷徹さとある種のさばけ具合の背後には、たくさんの経験をへて到達した諦念と達観があったのだ。『人間の絆』を読み終えて、今そのことをしみじみ思う。

 書かれなければならなかった作品だけが持ちうる迫力は、確かに古びずに今も脈づいている。