えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

ヴェルレーヌとアレクサンドラン

雑誌Europe, no 936, avril 2007 はヴェルレーヌ特集号で、実はKさんも論文を
載せている。読み応えある論文がそろっている中で、特に面白かったのは、
Benoît de Cornulier, "La Pensée rythmique de Verlaine", p. 87-96.
の中の話題の一つ。

De la douceur, de la douceur, de la douceur ! ("Lassitude")

の一行のアレクサンドラン。
今ではこれは444の三分割の詩句として普通に読まれるし、douceur の音の優しさが
内容ともぴったり合って穏やかな感じを読者は受ける、ように思われる。
しかし、とここで論者は言う。ヴェルレーヌの時代(1870年頃)に詩を読む者には
古典的な教育がしっかり染み透っていたから、アレクサンドランは6音6音の
リズムで読むのがまず基本だった。意味より先に音とリズムが存在したのだ。
するとどうなるか。
6音6音で気持ちよくいくところが、この詩句では(意味的に)無理やりにぶつ切れに
されている、という印象こそが、当時の読者が受け取るものだった(はず)なのである。
このリズムと意味との軋轢から、この詩句は実は、心地よいの反対で、
じっと堪えて怒れる女をなだめる、という命令的な調子をともなうものになる。
作者が意図した効果とは、そういうものだったはずなのだ。
というような論旨。
なるほど、そうかー!
と膝を打つところであって、まったく蒙を開かれるとはこういう時のことをいう。
知らないと分らないこと、見落とされてしまうことを鮮やかに解いてみせられると
素直に感動を覚える。この種の感動こそが、文学研究を始めるきっかけのようなもの
ということで、ここに記しておく。そういう感動を与えてくれる論文とはなかなか出会えない。
その論文を理解できるレベルにこちらが到達していないと、どんな優れた論も素通りだし、
論じられる対象そのものに十分興味をも(っ)て(い)ない場合もある。
なんにせよ、それまで知らなかったことを知るのは喜びだ。
何故に文学研究なんかするのか、という問いに対する答えは、
この喜びをもっと感じたいがため、という以外には、実のところ
ないのかもしれない、と思ったりもする。