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えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

春と秋

また悪口を言うのである。大人気がないというのである。分かっているつもりなのである。
穏便に行きましょう。
永井荷風「春と秋」『あめりか物語』所収。初出は明治40年10月『太陽』。
再び伊狩論文をひく。いわく
「全体の構成はモーパッサンの "Père" であろう。」
今回は梗概には問題がない。氏はつづける。

父親」という題の示す如く主題は後半部にあるのだが荷風はその前半部だけを借用している。全篇の構成―男が女を野原に連れ出す場面から以下男が逃げ、数年後の再会まで、日本の社会事情を考慮して露骨な箇所を除いた他は全て「父親」と同じ―その描写―微妙な女心と移り気な男心の書き分け、或ひは、男が女に眼をつける場面の、女の髪の色とか、眼の描写なども「父親」のそれと同じ―等、偶然の一致とは思われない。たゞ結末を、モーパッサンでは男を悔悟させてヒューマニスティックな味を出しているのに、荷風の方は父性愛などコントらしからぬ箇所を省き更に痛烈に人生を比喩して、一層辛辣なコントに創り上げている。爰にいたつて最早原作以上のものがあり、荷風の天分は流石に見事な出来栄えを示し、当時余程でなければこれに粉本ありとは見抜けなかつたのであろう。(35ページ)

一体全体どうしてこういうことになるか、私にはよく分からないと言わざるをえない。
なるほど「男と女がくっついて別れた」というだけをとれば「同じ」ではあろう。しかし
俊哉が再会する相手は山田であって菊枝ではない。そこからして既に違うのだが、読めば
誰だって分かるはずだけれど、細部は両作品で全然「違う」のである。なるほど両方の
女性は貞操を大事に思っている。しかし荷風がここで問題にしているのは明らかに
日本の封建道徳であって、それに縛られている日本女性はアメリカ女性のように開放的
でもなく美しくもなく魅力がない、ということである。にもかかわらず?菊枝を相手に
悶々とする俊哉君の煩悶を半ば戯画的に描くところに、「春と秋」の前半部はある。
それは明らかにアメリカに滞在した荷風君が彼我の文化の相違を目にした驚きと
内省の産物でしょう。そこにモーパッサンの作品、まして「父親」が「粉本」である
必要性がどこにあるというのだろう。大体、描写が「同じ」と断言するからには
具体的に例証を挙げるべきであって、ここに挙げてもいいのだけれど、そうするのも
面倒なくらい、私には「同じ」であるとは思えない。
なるほどモーパッサンの作品においてはしばしば男は浮気者である。というか恋愛は
本能のものである以上、一人の相手に長続きするものではない、というのがとりわけ
初期の短編を通して見られるテーズではある。
その見方を荷風モーパッサンを通して「学んだ」と考えることはできるかもしれない。
(だが荷風君はとっくにスレていたのではなかろうか。)
結末の落ちのつけかたなども「モーパッサン的」なニヒリスムを見てとることが
できるように思われる。
だから問題は常に「影響はない」ということではない。そうではなく、読書を通して
何が「受容」され、また何が「受容」されなかったは、「粉本」云々で解決のつく
ような簡単な問題ではない、というところにこそ真の問題がある。
ましてや両作品の価値判断を安易に下すにいたっては、何をかいわんやである。
「父性愛などコントらしからぬ箇所」というのは実に理解できないが、
「春と秋」こそが「痛烈に人生を比喩して」いるというのもいただけない。
ここで荷風は単に宗教と道徳とを揶揄しているに過ぎないのではないだろうか。
しかも(前半部には見られた)主人公に対する距離をとった視点を欠いている以上、
まったく独善的な主人公の結末の台詞は、単に揶揄である以上の批判的射程を伴って
いるようには思えない。
それに反して「父親」においては、主人公は悲哀でありながら、なおかつ彼がそのような状況に
置かれたのは、かつての若い日の「過ち」に由来するが故に、作者の諷刺の対象から逃れては
いないのである。「彼は泥棒のように逃げだした」の一文が「痛烈に人生を比喩して」いない
のなら、一体なんだというのだろう。
間違ってはいけない。私はここでモーパッサンを持ち上げ、荷風を貶めたいのではない。
(多少その気はあるかもしれないけど。)
「春と秋」が明治40年の日本において社会諷刺に十分な効果のあるものであったことは
疑いないし、青年の煩悶を半ばコミカルに描く前半部はよく書けている、と私は思う。
比較文学とは二つの作品を比較して優劣を決めるような作業では全然ない
という自明のことを確認したいだけなのである。
そのことを確認しておくために、ここまで記した。でもあまり傲慢にならないようにしよう。
キリンの目が怖いじゃないか。