えとるた日記

フランスの文学、音楽、映画、BD

二つの疑問

今日も荷風さん。唐突に浮かんだ二つの疑問。
一つめ。
日夏耿之介荷風論(『荷風文学』平凡社ライブラリー、2005年)には
モウパスサンのモの字も出て来ないのだけれど、
(嘘。少なくとも一回は名前だけ出てくる。)
ゾライズムやリアリズムについては語っているのに、これは一体、どうしたことだろう。
彼がモーパッサンを知らなかったなんてありえないと思うんだけど。
そうするとこれは「意識的看過」なのであろうか。
耿之介さんは何故にモーパッサンが嫌いだったんだろう。
誰か教えてください。


二つめ。
そこでふと気づいたのであるけれど、
『あめりか物語』=モーパッサンへの傾倒
という今日では自明のような図式も、当時(っていつまでかな)はそんなに当為では
なかったのかもしれない。
なるほど、そう言われればそうかもしんない。
で、とりあえず『日本文学研究叢書 永井荷風』有精堂、1981年(3刷)を開き、
明治期の「同時代評」をぱらぱら繰ると、
「モオパサン」「モウパスサン」はあわせて2回しか出て来ない(無署名と相馬御風)。
うーむ。
もっとも『文章世界』明治41年9月の『あめりか物語』の書評に

(前略)その筆致の落附いて悠々として迫らぬ態度と、その観察の鋭敏なのとは暗にモウパッサンを偲ばせる。

との言葉があり、伊狩章はこれを田山花袋のものと推定している。
それを受けて相馬御風は『早稲田文学』明治41年10月に、

「文章世界」記者は「あめりか物語」にあらはれた荷風氏の作風をモーパスサンに似て居ると言つた。読過の際僕もさう思つた。それにいづれの作も小説と云ふよりは物語(ストーリー)の體で行つて居るなどもモーパスサンと比べて見て面白く感ずる。

と書いた。
けどまあこの二人はモーパッサンひいきの側の人達である。
当時の人が荷風モーパッサンをどれぐらい引きつけて見ていたかの測定は、
(実は)ちょっと難しい問題かもしれない。


で、そうすると改めて見直しておかなきゃいけないのは、「モーパツサンの石像を拝す」の文章である。
周知のように『ふらんす物語』は発売と同時に発禁になったから、この文章は当時の人の目にはとまらなかった。
で、その後の経過であるが、
1915年『新編 ふらんす物語
1919年春陽堂元版『荷風全集』第弐巻
1926年春陽堂重印『荷風全集』第弐巻
には収録されない。復活するのはようやく
1948年中央公論社版『荷風全集』第四巻で
「モーパサンの石像を拝す」に改められた(なんでなんだろう)。
おまけにこの時に荷風は修正を行っており、加えてイディスに関する箇所が削除されている。
1963年岩波全集にも修正後の「モーパサン」であり(後記で一応は元の形態が分かる)
そうすると1992年の岩波新版全集がようやく初版の形を復元したということになる
みたいである。
細かい話はともかくも、要するに戦後までこの文章は世に知られてはいなかった。
かつて荷風が「あゝ、崇拝するモーパツサン先生」と記したことは
幸か不幸か、ずっと知られないままに時が過ぎたのである。
もちろん、荷風は確信犯である。
1915年は大正4年。まだ慶応の教授で、『三田文学』編集を務めている頃だ。
というか新帰朝者でばりばり鳴らして、『冷笑』で『珊瑚集』から、
浮世絵、『日和下駄』まで来て、『夏姿』で発禁くらう頃だ。
今さら「モーパツサン先生」も何もあったもんではない。
隠すほうが自然というものだろう。「若気のいたり」というやつだ。
だからまあ、荷風さんも可愛いとこあるね、という話にしておけば、それでいい。
ただ、明治42(1909)年から大正4(1915)年までの間に、永井荷風はかなりの変遷を
経たのだという事実を確認しておきたい。そしてその変遷の過程が、
かつてのモーパッサンへの傾倒というか熱愛ぶりを隠蔽することに繋がった
ということだけは、ここではっきりさせておきたい。
そうですね。
そうなんです。